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「バルカン ー「ヨーロッパの火薬庫」の歴史」 マーク・マゾワー

井上廣美 訳  中公新書  中央公論新社

「バルカン」第1章半ばまで


オスマン帝国は自らが対処できない山賊は、できるだけ政府側に取り込もうとした。この点、のちの近代国家成立時には、危険を平定するのが「主権」国家であるという考えが広まる。
17世紀にはたびたびペストが猛威をふるった。

  接触伝染病の蔓延予防と管理は、近代の官僚国家の出現を促す大きな刺激となった。
(p48)


伝染病と近代国家とは、実は立ち位置が非常に近い。
(2018  04/23)

第2章「ネイション以前」読み終え


「バルカン」をやっとここまで。じっくり読めば、あまりよく知られていないこの時代地域の細かなところの足がかりになると思うのだが、とりあえずそこまでの力がない自分は、ここから二つの文章を引っ張っておくにとどめておく。

  このユーラシアの勢力均衡の境界地帯では、内部の要因によるものにせよ、外部から持ち込まれたものにせよ、摩擦が起きる可能性は数多くあったが、この地域で共有されていた慣習が、そうした摩擦を弱めたり解消したりしていた。
(p123)


この地域では、キリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒の民衆は、宗教の垣根を超えてお詣りにいったり法定を利用してたりしていた。民衆にとっては宗教の違いより、宗教心と現世的利益(災いから身を守ったり、不利な結婚から逃れたりなど)が重要。フランス革命後、ゆっくりではあるが、出版物の増加とともにネイションの思想が読み書きできる階級から現れてくるのだが。

  現在の私たちは、改宗と聞くと、背教、実存的不安、個人的・民族的な裏切り、といったイメージを思い浮かべるが、当時はたいていの場合、新しい信仰に移ることは、放棄と没入の行為というよりもむしろ、新しい信仰を古い信仰に付け加えることだった。それどころか、改宗によって古い宗教の慣習や習慣が保たれた例もよくある。ただし多くの場合、こうしたことは秘密にしておかねばならなかった。
(p126)


(著者はイギリス人…日本の「私たち」はそこまで「改宗」に思うことはない?)
次のページで、こういった背景から名前を二つ以上持つこと、偽名の習慣も理解できるとある。
1798年に処刑されたという、急進的思想家(神の不在と平等主義)リガス・ヴァレスティンリスという人物も気になる…
(2018  05/04)

東方問題


「バルカン」の第3章「東方問題」を昨夜読み終えた。自国の利益の為にバルカン地域のナショナリズムを作り出し利用した列強(特にオーストリアとロシア)が、主客転倒してバルカン諸国に足をすくわれたのが第一次世界大戦の状況という話。
(2018  05/08)

昨日で「バルカン」読み終わり。案外時間かかったけど、内容も濃厚。引用等は少しのちほど。
(2018  05/12)

「バルカン」引用いろいろ…
 

「 民族の境界線に従って新しい国家を設立するという主張は、あらゆるユートピア的計画の中でもっとも危険なものだ」。一八五三年にオーストリアの外務大臣はこう警告していた。
「そのような主張をすることは、歴史と決別することであり、ヨーロッパのどこであれ、その主張を実行に移せば、諸国の確固たる秩序を根底から揺るがし、大陸を破壊と混乱の危険にさらすことになる」。
(p202)


この予言は当たったわけだが、バルカンの民族主義者から見れば、この発言は自分たち旧秩序の維持だけを願ったものに見えるだろう。こうした構図は、今の核開発とか環境問題とかとも共通する。
結果…

  「ここの人々に西洋的なナショナリズムの原則を導入したことが、結果的に大虐殺をもたらした。(中略)そのような大虐殺は、この致命的な西洋の考え方にそそのかされて、互いに不可欠な存在であるはずの隣人同士が戦った民族間紛争が極端な形をとったにすぎない」。
(p249)


アーノルド・トインビーの言葉。彼は実際に現地にいたらしい(要調査→ちょっと調べたけどよくわからなかった)。

  だが、近代化を推進していた政治家たちは、暴力についても新しい規準を取り入れようとした。集団的、家族単位、公開という規準ではなく、個人化、非公開、情実の排除という規準だ。他の地域と同様にバルカンでも、近代国家を建設するということは、当局が許可していない者が暴力や処罰、地域ごとの法律制定をいっさい行えないようにし、それらの権限を役人の手に集中させるということだった。
(p255)


権限集中の度合は流動的でもある。フォークナーやマルケスの小説にある通り、リンチや血讐は先進国でもそして現代でも(稀に?)起こる。一方モンテネグロでも1851年には斬首や血讐を非合法化する法典を成立させた。そうなると、カダレのアルバニアの慣習も改めて見てみたい。

  バルカンの流血と民族統一を描く叙事詩が(同時に…引用者注)生まれたのは偶然ではない。
(p259)


せいぜい19世紀くらいからのことで、太古の昔からこうした叙事詩的思考があったわけではない。
じっくり考えてみたいのだけど…
(2018  05/13)

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