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「ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(上)」 ダニエル・カーネマン

村井章子 訳  ハヤカワ文庫  早川書房

スロー&ファスト?


昨日は第6?章までダニエル・カーネマンの「スロー&ファスト」を読んでいた。
自動的に意識と関係なく処理されるシステム1と、意識的にエネルギーを使って行われるシステム2。システム2には更に知能的な働きと自己制御的な働きがある。想像力がシステム1の働きだというのは少し意外。システム2はエネルギーかかるので普段は怠けてあまり働かない。 
最近はシステム1ばかりだなあ(笑)
(タイトル逆だし(笑))
(2017 10/23)

「ファスト&スロー」第二部

(土曜日までに読んだ分)
システム1とシステム2の紹介を受けて第二部ではその両者が絡んでどのようなヒューリステックを起こすかという観点になった。

少数の法則
アメリカ南西部などの人口が希薄な郡が多い地域が、ガン罹患率の高い郡と低い郡双方を出すということ、要するにサンプルが少ないと両極端な結果が出やすくなり統計情報として意味をなさない。しかしこのことは統計の専門家でも気付くことが少なく、因果関係で考えてしまうということ。

アンカー(係留)
どんな無意味な数字(健康保険?の下2桁、ただ見せられた回転盤の数字など)でも、それを直前に見せることによって、後の課題の予測に影響してしまうということ。もちろん当の本人はそれを否定するのだが。

利用可能性ヒューリステック
「自己の良い面を3つ挙げてください」という課題をした人より、「自己の良い面を12個挙げてください」という課題をした人の方が、良いところを多く挙げたのにも関わらず自己否定的になるという、思い出しにくさの感情が後に影響するというもの。

利用可能性、感情、リスク
スロビックとサンスティーン、クランの間で意見の食い違いが見られる、専門家と一般大衆のどちらにリスク対応策を合わせた方がよいかについて。りんご農薬などの問題についての利用可能性カスケード(風評?)。著者カーネマンは両者の間に立つというが、どちらかというとスロビックに少しだけ寄っている? p253の利用可能性カスケードの説明はなんだか現在の報道を生で見て語っているかのよう。

代表制ヒューリステック
ある人を判断させる文章に、あるものを思い起こさせるステレオタイプ的な情報を見せられると、その「あるもの」は基準率(割合)を無視して、かなりいるのが低い割合のものでもそれに固執してしまうというもの。ここでのベイズ確率理論の説明はとてもわかりやすい。
(2017 11/19)

  私たちの頭は因果関係を見つけたがる強いバイアスがかかっており、「ただの統計」はうまく扱えないからである。
(p323)


平均への回帰はあのダーウィンが従兄弟にあたるゴルトン(優生学等でもお馴染み?)が発見した。何回か同じことをやらせるとだいたいの平均へ収縮するというもので、例えば褒めたら成績下がる、叱ったら成績上がる、というのは因果関係なしのただの平均への回帰である。
あと、心理学を教えてその相手の中の見方を変化させるのは難しい云々…という箇所は耳が痛い?服従実験でも人助け実験でも自分が被験者になったら今思っているように行動できるだろうか。

続けて第三部


第3部をちょっとだけかじる。バイアスを除去できればいい結果というのは全てではない。将来有望株のものなどを見つける場合は直感の比率を上げた方がいい、など。
(2017/11/21)

 後知恵バイアスや結果バイアスは、全体としてリスク回避を助長する一方で、無責任なリスク追求者に不当な見返りをもたらす。たとえば、無茶なギャンブルに出て勝利する将軍や起業家などがそうだ。たまたま幸運に恵まれたリーダーは、大きすぎるリスクをとったことに対して罰を受けずに終わる。それどころか、成功を探り当てる嗅覚と先見の明の持ち主だと評価される。その一方で、彼らに懐疑的だった思慮分別のある人たちは、後知恵からすると、凡庸で臆病で弱気ということになる。
(p358-359)


ラスコーリニコフに聞かせてあげたいような文章。

上巻読み終えたとこ。不確実性のある未来は予測不可能。スキルや才能よりも運が結果を決める。だから専門家の将来予測は、2、3個の因子からなるアルゴリズム数式の予測より劣ることが多い。余計な自信と直感入れるから。特に証券投資の分野はそれが顕著だという(スキルの錯覚)。ただし、その場の短期的行動では専門家の知恵が活かされる。問題は境界線が曖昧だということ。

 妥当性の錯覚とスキルの錯覚は、プロフェッショナル集団の根強い文化にも支えられている。同じ考えを持った人間の共同体に支持されているときは、どれほどばかげた考えであっても、揺るぎなく信じ続けることができるものだ。 
(p381)


ここ読んで思ったのは、ひょっとしてこれ自身こそが文化というものの定義なのではないかということ。文化というもののルーツがあるのではと思った。 
(錯覚こそが文化?)
(2017 11/25)

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