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「長距離走者の不安」 アラン・シリトー

丸谷才一・河野一郎 訳  新潮文庫  新潮社

痰のような陽の光の朝

  朝の一周コースを半分ほど走りきり、凍傷にかかった夜が明け、ぶなやかえでのあらわな小枝から痰のようにわずかな陽の光が見え、近道になる灌木におおわれた急な土手からパッと飛びおり、くぼんだ小径へとびこんでちょうど道のりの半分まできたことを知り、まだあたりには人影もなく、見えない田舎家の厩で鳴くぶちの子馬のいななきのほか物音も聞こえないとき、おれはいちばん突拍子もないことを考えはじめるのだ。
(p26-27)


結構長くなってしまったが、「長距離走者の孤独」から。感化院の他の少年より一時間早く起きて長距離走の練習をするこの語り手少年。今のところ、朝の静けさとの間の瞑想と想像が読みどころ。世の中で最初の行動か、最後の行動かというところは極北な思考が見られる…
(2019 04/08)

走り続ける男


「長距離走者の孤独」(作品の方)を読み終えた。勝手に思い込んでいたより面白かった。スミス少年がペッタン?ペッタン?走る姿、そしてリズムが作品を一貫して流れて、実際のレースの走りと、スミス少年が考えている一生の走りが二重写しになっていた。

結局スミス少年はトップでゴールするのを拒否し、「太鼓腹」の院長らの鼻をあかしたのだけど、そこにはイギリスという特殊事情だけでなく、なんか他人から決められた路線を行きたくないという人間の実存の問題があると思う。あと、外側の物語の構造とかよくわからないところもあって、表面の親しみやすさの奥にはまだありそう。
(2019  04/09)

シリトー名前シリーズ


「アーネストおじさん」と「レイナー先生」。シリトーが得意のもう一つの分野、中年男編。前者は椅子張り職人のアーネストが貧しい少女姉妹にお金とかお菓子与えて、警察に連れて行かれる話。後者は悪童達の学校の先生レイナーが、教室の向かいの洋品店の娘を授業中に観察する話。
(2019  04/10)

シリトーを少し経ってからふりかえれ

  良心的・科学的・組織的に探りを入れる連中には、おそらくそこへ到達はできても、心を隠れ家へ追いこむのが関の山で、包んでいる肉体は破壊できても、彼のような心を痛めつけることはとうていできないだろうと思った。解剖ナイフをもってしても、けっしてはいりこめないジャングルのような部分があるのだ。
(p261)


というわけで、シリトー短編集を読み終えた。
(2019  04/11に)
軽くまとめを。

「漁船の絵」は別れた女房と漁船の絵が何回か循環しながら変わっていくという「叙情的な佳品」ともいうべき作品。
「土曜日の午後」はシリトーの二系統、少年ものと中年男もののブレンド。首吊りする男がユーモラスに描かれる。
「試合」は1950年代(くらい)のイングランドサッカーリーグの観衆がどんなものかわかる。試合が終わる前に出て行くのは変わらない。
「ジム・スカーフィデイルの屈辱」はこの短編集では初の「進歩的な女」が批判的に描かれる。この短編も他の多くのシリトー短編と共通に「ガンガン音の鳴る自転車工場」がアクセント(今はこの自転車ブランド化しているみたいだけど)。
で、上の文が載っている「フランキー・ブラーの没落」はちょっと知恵遅れのフランキーとそれを取り巻く少年たちの物語。シリトーの自伝的性格もかなり濃く、マラヤに従軍したこと、そのころから読書好きになったこと、今はマジョルカ島に滞在していることなど。「漁船の絵」もそうだけど、シリトーの作品には読書する労働者階級の男が多く出てきて一つのテーマ群を形作っている。
(2019  04/14)

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