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「ナボコフの一ダース」 ウラジミール・ナボコフ

中西秀男 訳  サンリオSF文庫  サンリオ

フィアルタの春
忘れられた詩人
初恋
合図と象徴
アシスタント・プロデューサー
夢に生きる人
城、雲、湖
一族団欒の図、一九四五年
「いつかアレッポで…」
時間と引き潮
ある怪物双生児の生涯の数場面
マドモアゼルO
ランス
訳者あとがき

神保町の澤口書店巌松堂ビル店で購入。「一ダース」とあるけど、実際は13編。
(2011 11/20)


「合図と象徴」

とりあえずこの短編集から短めの「合図と象徴」を読んでみる。タイトルからは何かの哲学的エッセイかという感じだけど、アメリカらしい町に住むロシア移民老夫婦とその息子(連想狂…レファレンスマニア…という神経症で長期入院中)の話。あり得たかもしれないもう一つのナボコフの生涯…的な気持ちで書いたのか、否か。

 この珍しい病気の患者は身辺の物事すべてを自分の存在と性格に向けた当てこすりだと思いこむ。…(中略)…だが自然界のすべてがどこへ行っても驚くべき形相でついてまわる。空もこっちを見つめているようだし、空に浮かぶ雲もゆっくり何かを合図を交わして、途方もなく詳しく自分のことを話し合っている。
(p85-86)


息子の病気の解説?この文章、ナボコフを読む際の鍵というか原風景になるかも。自伝的幼年時代の作品から「青白い炎」の譫妄詩人まで…
(2024 03/03)

「ランス」

たぶんこの本買った時に試し読みした「ランス」を読んでみる。あの時全然わからなかったけれど、今も全然わからない(笑)…だけだと読んだ甲斐がないので、仮に読み方例?を二つ挙げとこう。


未来と過去の交互通行?

 未来とは時代おくれを逆にしたものにすぎないのである。
(p280)


この文を手がかり(というか悪用?)にして、この後続く、宇宙飛行士ランスの両親の想像を描いた、中世物語的な、そして登山家的な文章を考えてみる。と、宇宙に行く描写と歴史を遡る描写が並行する?到着した先は?


ナボコフ?の夢

 いいかえれば、ある景色を正面から見るのではなく、つまらない裏側を見るような具合なのだ。困ったことにその夢は、なぜかしらその景色をぐるりと廻ってすっかり見て、押すでもなく押されるでもなく、対等に立ち向かうことができないのだ。
(p292)


宇宙飛行士ランスの惑星到着の時に引っ張り出されるのがこの夢の話。こういう夢の感覚それ自体ならわかる(自分は具体的な夢を見ることしかないが)。このナボコフ(としておく)の夢は誰かの、ひょっとしてランスの現実の裏返し? ランスの夢とナボコフの夢が渾然として…

 だがその夢ももうぼくの夢ではない。
(p293)


…でも、(その解釈ならばここで終わってもいいのに)ランスは帰還してくる…
で、最後はさもありなん、エレベーター…
(2024 03/10)

「夢に生きる人」


ベルリンの町に住むピルグラムという小商店主の男。文房具などと一緒に何故か蝶の標本やさなぎやトカゲなども売っている。彼が「夢に生きる人」…蝶の蒐集家で、戦争とかインフレとかで旅に出ることができなかったが、いつも外国で蝶を追っている夢を見ている男。そんな時、サムナーという蒐集家が店のコレクションを高値で買う。ピルグラムはその金でスペインへの切符を買い、妻が近所の人の娘の結婚式に出かけているうちに出かけようとする。店先にあった小銭入れを拾おうとして身をかがめようとするが…
という話。「ランス」などと比べて滋味あるリアリズム的な話。蝶と夢というナボコフ要素が羽ばたく瞬間、とでも言おうか。
(2024 03/17)

「城、雲、湖」


語り手の代理人が、なんかの景品で当たったという旅行に行ってみたら…という話なのだが、これがショートコントみたいに不条理話で笑える。ハルムスみたいに理解不能でもなく、カフカみたいに堂々巡りとかでもなく、何かすれ違い…うすら寒さがナボコフ的不条理?
そんななかこの代理人が見出した安住の地としての「城」のイメージ、これこそナボコフの根幹にあるのでは、とも思えてくる。ここにはない、隔絶されたどこか、「夢に生きる人」でも、ひょっとしたら「ランス」でも、それを追い求めていく…
あと、最初に「1」とあったけれど、「2」以降が無い。確か「カメラオブスクーラ」でも同じ章の数が出てきたりしたけど…まさか、どちらもなんらかの「魔術」なのか?
(たぶん…ない…)
(2024 03/30)

「時間と引き潮」

昨夜「時間と引き潮」読む。これも背景は若干のSF要素あり。ナボコフにとってSFとは何だったのだろうか。

 どこから来たとも知れず、どこへ行ったともわからない。まだ科学が突き止めていない、それ以前もそれ以後もだれも見た者のない種類のハクチョウだ…そして空には星がただひとつ残っていた。どう捜しても見つからない脚注へ道しるべする一個の星印のように。
(p222)


これはラスト。「星印」には「アスタリスク」とルビが振ってある。
(2024 04/12)

「フィアルタの春」


フィアルタはヤルタ…らしい、かな。

 その晩はそのあと帰るまでずっと、ニーナのそぶりやそぶりの影の入りくんだ迷路を見つめていた(きっと室内ゲームをしていたのだ、何回やってもニーナは敵方にまわって)。
(p16)


()の中が面白い。ナボコフのことだからチェスかな?

 ぼくの身に、またニーナの身に、めぐり合うまでにどんなことがあったにしろ、それは一度も話に出なかった。そのあいだのことは、たがいにまったく忘れているからだ。だから、めぐり合うと生活のペースがたちまち変わる。ふたりの生活を構成する原子の配列ががらりと変わって、また別な、より軽やかな時間の中に生きることになる。
(p31)


またこういう文章読むと、自分の中では半ば自動的に「量子力学」というタームが出てくるのだが、「原子」とあるしここは当たらずしも遠からず、かも。
ニーナの夫というフェルジナンドはフランス語で書くハンガリーの作家…今は盛期を過ぎたということで、語り手「ぼく」からも揶揄されたりもするのだが、彼を「言葉の魔術師」と言ってる箇所も。ナボコフそのものではないか…
読み終わって、「カメラオブスクーラ」を思い出した。あちらの主人公が、マグダ側に行って帰らずに主人公が死ぬとすれば、こちらの主人公はニーナ側には行かずにニーナだけが死ぬ。たぶんナボコフにとってどちらがいいとかその辺はどうでもいいのだろう(本当か?)。あと、サーカス団そのものに何か意図はあるのだろうか。今は思いつかないけれど。
(2024 04/13)

「忘れられた詩人」

昨夜続けて「忘れられた詩人」を読む。タイトルからだと、「青白い焔」のようなのを思い出すが、こちらは24歳で溺死したペーロフという詩人の記念講演会で、何十年かぶりに現れたペーロフ当人?と名乗る老人が現れる、という話。
この老人がペーロフなのか否か、で作品の味はまるっきり違うが、どちらとも取れてしまうのが妙味。自分は全くの別人説にちょっと好みが傾いているが、果たして…
(2024 04/14)

「初恋」

昨夜の寝る前、「初恋」を読む。ナボコフの自伝的小説。
とかいう中身より?世俗的興味が湧く作品。国際列車とか、バスクの海水浴場とか。例えば、この描かれている1909年の旅というのは、当然第一次世界大戦の前ということになる。では、p67にあるロシアとドイツの国境(ここで線路幅が変わる)ベルズボロボ(ペルズボロボか?)とアイトクーネンのあいだ、とは今でいう(当時は国家としては消滅していた)ポーランド国内にあるのだろうけれど、ではどの辺り? 少しだけ調べてみたけどわからず。

 そのペン軸を思い出し、のぞき穴の奥の狭い世界を思い出すうち、ぼくの記憶はそれに刺激されて最後の努力をする。ぼくはもう一度コレットのイヌの名前を思い出そうとする-すると果たして、あの遠い遠い砂浜から、あの遠いむかしの夕暮れの浜辺の、どの足跡にも夕焼け色の水がだんだん差してくる汀から、そら、もどってくる。震えながら、こだましながら、もどってくる-フロス、フロス、フロス!
(p79-80)


コレットといっても「シェリ」とかの作家ではない…と思うが…
ペン軸の穴の先から、昔の彼女の声が聞こえてくるようで、ここも記憶の再生たどる記述…
(2024 04/16)

「アシスタント・プロデューサー」


映画通のように語る怪しい語り手が話す内容は、白系ロシア人社会のトップ地位を目指す将軍と、その妻である歌手の話。夫の野心を手助けするアシスタント・プロデューサーという妻という位置付け。と書くと敏腕な妻というイメージだけど、必ずしもそうでもない…
というわけで、この作品は亡命ロシア人社会の話。映画のエキストラの安い役に彼らはよく使われた、という。以下の文の「連中」は彼ら亡命ロシア人を指す。

 その連中が映画へ出ると幻と幻を二重に重ねることになる。だから神経過敏な者はまるで鏡の宮殿へ入ったような、いや、むしろ鏡の牢獄へ入ったような気がしてきて、どっちが鏡でどっちが自分だか、それさえわからなくなってきた。
(p108)


このナボコフ自身にぴったりな文章が、作品のちょうど半分くらいにあるのがまた巧い。
(2024 04/18)

「一族団欒の図、一九四五年」


タイトルの意味は掴めてないが、語り手と異人同名の男に何故か振り回されているという語り手。その彼が、第二次世界大戦直後の私的な会合?で、ドイツ系アメリカ人の話を聞いていて腹立たしくなり飛び出すように出ていく。そのドイツ系の人物は、後で語り手が帽子を間違って持って行ったということで、語り手の家に来る。

 ぼくはいつも思うのだが、ドイツ人は痩せっぽちでもレーンコートを着ると後ろ姿がひどくずんぐりする。あれはなぜだろう。
(p185)


ドッペルゲンガーはナボコフの生涯テーマの一つ。さすがに一回読んだきりだと、辻褄をどうやって合わせられるのかがよくわからないけれど…一つの可能性?として、誰しも誰かのドッペルゲンガーであるという社会を描いた…とかないか? このp185の文はユーモラスだなあ、と思って引いたのだが、人類皆ドッペルゲンガー度?がこの文読んで微増もする。
(2024 04/22)

「いつかアレッポで…」


このタイトル自体はシェイクスピア「オテロ」の台詞かららしく、そうなると嫉妬が裏テーマなのか。

 断片的なことをいくつもまとめて全体としてどんなことになるか考えると、じつにいろいろ考えられる。断片と断片のあいだの切れ目がいくつもあって、その数に劣らずいろいろに想像できるんだ。
(p198)


久々に(でもない?)、この文章はナボコフの創作姿勢そのものではないか、という論法を出してくる。断片を用意するのはナボコフで、断片の狭間ではまり込んだり、想像するのは読者…というわけか。
(2024 04/23)

「ある怪物双生児の生涯の数場面」


この短編集の中では結構奇怪な部類の話。双子なのだがへその緒か何かでつながったままというロイドとフロイド。語り手はその一方のフロイド。昔よく報道されたベトナムのベトドクの兄弟も思い出すけれど、こちらは枯葉剤ではなく何者かに襲われた娘から。

 ロイドも、ぼくと同じような夢を見たのだろうか。夢の中ではふたりの心がひとつになることもある、といった医者もあった。ある青味がかった灰色の朝のことだ。ロイドは小枝を拾って地面へ三本のマストの船の絵をかいた。ところがその前の晩、ぼくはその三本マストの船を地面にかくところを夢に見ていたのだ。
(p234)


一歳下の弟への思い出なのか、「合図と象徴」で出てきた青年に近いような、例えば二重人格とかのような精神構造の人なのか。あるいはこれは「亡命者」のことでもあるのか。いろいろ考えるけれど、たぶん違う(笑)

「マドモアゼルO」


「ディフェンス」等でも出てきた、そして辻原登も言及したこのナボコフ家のフランス語家庭教師。そしてこの作品はナボコフでは唯一のフランス語で書かれた作品…というのは、作品読んで思うけれどこの家庭教師へのオマージュではあるまいか。また、「知りもしないフランス語でしゃべらされる(知っているフランス語はよく使う言葉ふたつ三つきり)」という文章(p250)を、フランス語で読むという体験自体が単純に面白そう。

 幼いころは人の手のことをいろいろと知っているものだ。手というものはいつも背の高さあたりにふらふら住んでいるからだよマドモアゼルは気持ちの悪い手をしていた。
(p252)


手が顔の前か…子供の感覚を忘れて久しいな、自分は。でも、だからって「気持ちの悪い手」と書くのもどうかなあ(笑)。

 それにしてもあの明るく澄んだ先生のフランス語にはどこか不思議にぼくを刺激する力があった。血液浄化に使う薬用塩類-あれに似ている。ぼくは今になって思う-あのゾウのような巨体から出るナイチンゲールのような声が、何の役にも立たず誰にも認められない-それが先生にはどんなに辛かっただろう。それを思うとぼくは悲しくなる。先生はわが家に長いこといた。長すぎるほどいた。
(p264)


ナボコフは、難解とか言葉の魔術師とかいろいろ言われているけれど、一番深い層においてはピュアな共感がどの作品にもある、今は何かそう思う。
短編の最後には、母国スイスへ戻ったマドモアゼルを尋ねにいく場面が挿入されている。
ようやくこの本も読み終わり。
(2024 04/24)

おまけ 辻原登「枯葉の中の青い炎」より
「野球王」の冒頭がナボコフの「マドモワゼルO」のエレベーターの話…これは「ディフェンス」でも出てきたあの家庭教師とエレベーター…やはりナボコフはエレベーター作家…
(2023 10/08)

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