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「マイケル・K」 ジョン・マックスウェル・クッツェー

くぼたのぞみ 訳  岩波文庫  岩波書店

経堂ゆうらん古書店で購入。
(2022 11/03)

マイケル・Kとは

ケープタウンで母と二人で住む、唇が裂けて生まれてきたマイケルが、その地域での暴動もあって、病気の母を自力で作った手押し車付き自転車に載せて、母がいた農場へ行こうとする。
途中で母が死ぬ。遺灰を病院でもらい、一人で農場を目指す。山崩れで線路が埋まった現場での土砂除去などしつつ、農場に着くとそこは無人で荒れていた。そこに遺灰を撒き、その農場で一人で生きていこうと種を撒く。すると、農場の孫息子という男が(マイケルより若いらしい)、兵役から逃れてやってきて、自分は出られないから店で買物してくれ、と金を渡す。マイケルは、その金を農場の門の石の下に置いて、またどこかへ旅立つ…

という、今100ページ越えたところの展開。とにかく、マイケルは絶対的自由を、何かに関わらなく自分だけで生きていくという意志を、頑なに持っている。行動は受け身で、能動的目的とかはないが。という寓話的作品。これが前に読んだ「夷狄を待ちながら」の次の作品。前作と異なり、マイケルの行動を追うストイックな作風。

「マイケル・K」というタイトルは、発表当初からカフカとの関連で語られ、本人もポール・オースターとの往復書簡集でそれを認めているが、他の研究者からクライストの「ミヒャエル・コールハース」から取ったのではと言われている。そのクライストの主人公は復讐を誓う能動的な人物らしいが、このマイケルは逆の人物。

 フェンスとフェンスの間に忘れられた一角、一隅、細長い土地、まだだれにも属さない土地がないものだろうか、と思った。空高く飛べたら、そんな土地が見えるかもしれない。
(p75)


フェンスというのは、他の地域でも所有とか分割とかの象徴として見られるものだと思うが、ここ南アではそれに別の要素が加わる。

 足の下に横たわっているもののことは想像もつかなかった。湖、流水、広大な内海、あるいは底なしに深い沼。ブレーキをゆるめるたびに弾み車がまわり水が流れ出す。それが奇跡のように思えた。貯水池の壁越しに身を乗り出して、目を閉じ、指先を流れに浸した。
(p95)


貯水池のすぐ近くに小さな菜園を作ろうと種を撒いたが、例の農園の孫息子が来て、Kは農園を去る。

 地面から芽を出したカボチャの葉のことを考えた。明日になればその生命も終わるだろう。次の日には葉が萎れ、その翌日には枯れてしまう…(中略)…優しさという絆が、Kから貯水池のそばの小さな地面まで伸びていたが、それは断ち切らねばならない。そんな絆は、まだ伸びてしまわないうちなら何度でも、断ち切ることができるようにKには思えた。
(p104)


小説構成の点から言えば「K」はカフカの「K」と似た側面(具体的にイメージを合わせられないようにする)があるが、果たして小説の内容や思想においては、今のところそこまで似ていないと思うのだが。求道的なところはあるかな。
(2022 11/23)

蟻と微小片

p110にある「マイケル・フィサヒー-CM-四〇歳-住所不定-無職」という警察留置記録の記述は、解説によればCMとは「カラードの男性」という意味らしい。

 俺は、自分の巣穴のありかを知らない蟻のようだ。砂に両手を埋め、何度も何度も、砂が指のあいだからこぼれ落ちるにまかせた。
(p131)


何がこぼれ落ちるのか、時間か自分の意識か巣穴の残骸か。

 自分はあとに形跡を残すような重いものではなく、何かもっと、地表の微小片のようなものだ。蟻の足が引っ掻いても、蝶が歯を立てても、土埃が舞い上がっても気づかないほど、深い眠りについている何か。
(p153)


微小片だからこそ、自由になれるのか、蟻にも気づかれないし、彼も眠りについているから気づくこともない…

 こんな時代を生きるために、人が獣のように生きる覚悟をしなければならないなんて哀しいことだ。生きたいと思う人間は、窓から灯りがもれる家には住めないのだ。
(p155)


灯りを気にする地域は危険な地域。
(2022 11/24)

マイケルの穴

 いつだって、自分のことを自分自身に説明しようとするときはギャップが、穴が、暗闇が残った。それを前にすると彼の理解は立ちすくみ、いくらことばを注ぎ込んでも埋まらなくなる。ことばは呑み込まれ、ギャップだけが残った。彼の話はいつだって穴の開いた話だった。
(p172)


マイケルだけでなく、他の人もそうではないかとは思うのだけれども。その穴自体に一番のその人の存在価値がある。

 だとしたら、離れられない家のように、この大地のこの地点に俺を縛りつけているものとは、いったい何なんだ? だれだってみんな生まれた家は出ていくものだ、結局、だれだってみんな母親から離れていくんだ。
(p194)


では、マイケルはどうなのか。母親と一緒に昔いた農場へ向かい、母親の死後も、その農場を探しに歩いてきた。このあと第2部の医師がその母親とマイケルとの関係を指摘する場面がある、はず。
その展開は翌日以降に…
(2022 11/25)

医師の視点と飢餓の文学

まず昨日(11/26)読んだ分。
「マイケルK」第二部。Kに寄り添った視点から、元競馬場だったところにあるキャンプの医師の視点へ。ここに第一部最後のところからマイケルが送られてくる。

 彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石が突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へ放られていく。一個の固い小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている。
(p209)


ここの「彼」は医師から見たマイケル。別の箇所(p234)ではナナフシという虫にも擬されている。とにかく医師にとって、またこれまで読んできた読者にとっても、マイケルという人物は何かを超えた存在であるようだ。

 「私はきみにここへ来るよう頼んだわけじゃない。きみが来るまでは何もかもうまくいっていたんだ。幸せだった。こんな場所にいるにしては、だが。だから私にしてもききたいんだよ。なんで私なんだ?」
(p233)


イギリスの植民地になっていた大きな国の伝統(イギリス本国にはたぶんない)の、「飢餓の文学」の系譜。クッツェーの往復書簡の相手でもあるポール・オースター、この間読んだ「フロリダ」(丸い地球のどこかの曲がり角で)にもその系譜の短編があった。そしてここで思い出すのはメルヴィルの「バートルビー」、そして、バートルビーの監督者。あの作品はバートルビー本人より、未知の理解不能なバートルビーという人物に会った際の人間の有様を描いていると思う。この作品も一般読者が共感できるのは、マイケルではなくこの医師ではあるまいか。

 きみはもっと若いころに自分の母親から逃げ出すべきだったな。話を聞くかぎり、彼女こそ本物の殺人者のように聞こえるよ…(中略)…母親はきみの肩に座って、きみの脳味噌を喰いつくしながら、ぎらぎらと勝ち誇ったように偉大なる「母親の死」を具現していると考えてしまうんだよ。
(p235)


前に書いた、医師から見たマイケルとその母親。あとがき先読みのおかげで?身構えられたけれど、普通に読んでいたらかなり衝撃の文章になるのでは。今引用してみて、この文の最後の文は、個人的な母と息子の関係というより、もっと大きな世界史的なスケールを表しているのかとも思う。それが何かは直観できないが。

鷹と鼠

ここから今日(11/27)分。

 戦争の時間とは待つ時間だ、ノエルは以前そう言った。待つ以外にキャンプでやることなどあるだろうか? 形だけは生きているそぶりをし、義務を果たし、壁の向こうで低い唸りを上げる戦争の音に常時聞き耳を立て、その変化の速度に耳を澄ましながら。
(p248)


こちらは「夷狄を待ちながら」に直結しそうな箇所。そもそも、実際の南アフリカ国内は「戦争」していたのか(プロパガンダでそういう風に言っていたのかと、読んでいてなんとなく思っていたのだけど、ここまで来るとそれも違うような)。この後、フェリシティ(このキャンプの雑用をする女性)を引き合いにだしていろいろ語っているのは、この医師の限界が顕になっているところ。もちろん自分(男)もクッツェー(男)もその限界を持っている。でも、限界を持っていることには自覚的な作者は、そこを無自覚に超えようとはしない。

第二部医師パートの最後は、医師が夢想する。逃げ出したマイケルをずっと追い続け、そしてマイケルに告白していく、その様を詳細に夢想する。その場面から。

 いずれにしても、人は精査する自我と潜在する自我を、鷹と鼠のように反目させ、峻別することがはたしてできるかどうかは疑わしい
(p260-261)


超自我と無意識、医師とマイケル、どちらが鷹か鼠か。これらは、普通?は一人の人間の内部にあるもの。そして普段は未分化のまま心の奥底に沈殿している。

第三部。またマイケル寄り添い視点で、最初のケープタウンの家に戻ってきた。実際の描写なのか、衰弱したマイケルの幻想なのかは判然としないが。

 もしも毎日だれかが鞭を握ってそばに立ち、詰まらずに話ができるようになるまで俺に自分の物語の話し方を練習させていたなら、俺だって彼らを喜ばせる術を学べただろうに。
(p281)


このクッツェーという作家は、語りという事象の奥底まで見通そうとする。鞭を持った者からの話し方の練習というのも、それほど奇異な比喩ではないのかもしれない。

どこかに出現する何かに対して

解説から

 「小説を書いて感じるのはひとつの自由だ。責任を負わない、というより、まだ出現していない何かに対して、道の果てのどこかに存在する何かに対して責任を負う自由だ」
(p306)


クッツェー「ダブリング・ザ・ポイント」から。全く責任を負わない自由などは有り得なくて、その布石があってこそ自由が定まる。

 作品内の語り手は軽く性別をこえているが、この作家の文学的スタンスを考えると、ヨーロッパ系の、男性の、白人の、表現者として特権的な立場の作家、であるクッツェーが、アンナのような人たちを語りの中心に据え、その内面を代弁するかのような装いで踏み込んで書くことは-どれほど小説は想像力で書くものだとしても-ありえないのではないか、と思う。
(p308-309)


アンナ(マイケルの母)や先程出てきたフェリシティなど、確かにこの作家はそういう試みを禁じ手としているだろう。別の作家には別の試みがありそうだが。
(2022 11/27)

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