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「物語ドイツの歴史 ドイツ的とはなにか」 阿部謹也

中公新書  中央公論新社

はじめに

はじめにだけ昨夜読んでみた。
1998年刊行のこの本、要点は三つ。
1、EU内の様々な統合を目前のこの時期、周囲の国を巡る感情について。
2、アジールについて。現代のアジール(亡命など)
3、「ドイツ的なもの」について。個人が複雑な社会に向き合った時のそこからの乖離に悩まされる。それは世界共通であるが、ドイツの場合はその悩みが幾つになってもその人の問題として認められる、らしい。
阿部氏のようなヨーロッパ史専門家でも、初めの頃は、ミュンヘンのホテルの女性従業員に「ポーランド系ですか?」と聞いてその人の感情を害した(実際はスペイン系)ことがあったらしい。

第1章


カール大帝からオットー一世の神聖ローマ帝国の誕生、ザクセン朝からザリエル朝になるまで。

ドイツという名称は「民衆の言葉」というところから来ている。言語の名称が先にあってそれから民族名が変わって統一化していく(ザクセンとかバイエルンとかランゴバルトなどが元の民族名…最初に出てくる「民衆の言葉」というのは、こういった複数の民族の複数の言語だった可能性はないのかな)。
カール大帝のカロリングルネサンスは、キリスト教による合理化であったこと。当時は世俗貴族より教会関係の方が進んでいて、この時期巡回制だった王宮の滞在地としてはそちらに傾いていた。神聖ローマ帝国の皇帝は、宗教的意味も持ち、またフランスの教会改革派(修道院運動など)と協調していた。こうした中、皇帝がザリエル家に移ると叙任権闘争が起こる…この章はその直前まで。
(2021 09/04)

第2章

 ラント平和法の一つの目的は、私闘の制限であった。中世においては警察権がほとんど不在の状態であったから、各人は自分の権利を自らの武力で守らなければならなかった。それを自力救済というが、復讐は義務でもあった。親族を殺されたものは自ら仇を討たねばならず、そのためにときには戦いは終わることがなかった。すでに触れたアジールの原理もこのような社会だからこそ必要とされたのである。
(p38-39)


ラント平和法…10、11世紀のドイツ。アジールを古代的呪術の場から、国家に引き入れようとした。現実の物理力がないため最初の頃はうまく進まなかった。

第3章「個人」の誕生

 個人としての人間は長いこと他の人間達に基準を求め、また他人との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自体について語りうるかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである
(p48 フーコー「知への意志」)


ヨーロッパがキリスト教的合理主義をとっていくに従って、元々のゲルマン的な文化の担い手が賎民化され始める。皮剥、浴場主、森番、粉ひき、亜麻布職工、道路清掃人、捕吏、墓掘人、理髪師、産婆、外科医、犬皮鞣し工、娼婦、陶工、芸人など…
東ドイツ植民。最初は植民を進めるため負担を軽くしていたが、植民終了時には、領主達は市場経済へ対応し、農民を土地から切り離し隷農化させていく。グーツヘルシャフト(農民領主制)、のちのユンカー経営の先駆けともなった。
(2021 09/05)

第4章


14世紀、15世紀…帝国はローマ・キリスト教を、ラントは部族領域国家。権限が皇帝からラント領主へと移って行く。
大空位時代、カール4世のプラハ 宮廷文化とユダヤ人迫害化、ジギスムンドの「未決定」の時代とフス戦争。ドイツ東方植民と都市成立により、さまざまな問題が先送り。
グリューネヴァルトの十字架上の苦悩のイエス、リーメンシュナイダーの木彫彫刻(トーマス・マンが「ドイツとドイツ人」でもっとも敬愛するドイツ人だと述べている)
(2021 09/13)

第5章、宗教改革前夜


ルターは、中世の神学の中で考えていた。12世紀以来の個人の内面重視の流れを引き継ぐ。
コラム(間奏曲)、「中世の家と城」、家とそのすぐ周りの菜園くらいが家であり小宇宙、畑を含め森など外側を大宇宙。火も水も大宇宙から奪ってきたもの(プロメテウス…だっけ?)なので、家=小宇宙で使うためにはなんらかの儀式が必要。小宇宙-大宇宙の構図は城になっても同じ。
(2021 09/14)

第6章、宗教改革の波


まず貴族階級から、そして農民戦争から、ルター派の運動が起こった。再洗礼派、ツヴィングリ派、カルヴァン派など他の宗教改革は、アウクスブルクの和約で、カトリックとプロテスタント(ルター派)以外は認められなかった。これに対しトーマス・マンはルターを「ドイツ気質の巨大な権化」だとして講演で非難している。分離主義的、反ローマ・ヨーロッパ的だと。

 カトリック教会の中に善行という形で入り込んでいた、贈与・互酬関係の遺制を完全に取り払ったのがルターなのである。
 贈与・互酬関係の絆を失った人間は社会の中で新たにどのような人間関係を作ったのか。この点からいえば、宗教改革は共同体という答えしか与えなかった。この共同体は、現実に宗教改革の過程で否定されてしまったのである。
(p118)


プロテスタントは自分でこうしたものを作り上げていかねばならなかった。それに失敗するとデュルケームのいう「アノミー」状態に陥りやすくなるのだろう。
(2021 09/19)

第8章「領邦国家の時代」


三十年戦争前、領主が宗教を定め、帝国はほとんど機能していなかった時期。

 魔女裁判に象徴されるこの時代の特徴は幻想の検閲であり、想像力を検閲し、抑え込もうとしたことにある。現代の西欧文明はその意味で宗教改革の産物であり、特に想像力を抑え込むことによって生み出されたものであり、その結果生まれたのが、現代の精密科学と技術だというヨアン・クリアーノの考えを吟味する必要があろう。
(p141)


ちょっとわかりにくい(というか誤解してた)のだけれど、他の文明では魔女のような領域が排除されず残っていたのに対し、西欧では魔女裁判によって個人の精神内部での検閲が進んだ。そのことが科学の発展につながったということか。

第9章「三十年戦争の結末」


だいたい大坂夏の陣で戦国が終わった頃から島原の乱?の頃に渡ったこの三十年戦争。その後は領邦国家はベルサイユ宮殿を真似た宮殿を作るなど、ますます領民に負担を強いることになる。都市に垣を設け、農村部と都市の間の相互交流が行われにくくなった。都市内部の人間は都市外に出ることは少なく、そうした精神風土の上に、カントのドイツ観念論や古典派音楽、そしてゲーテが生まれたという。じつはもう一つその理由があるのだが、それは次の章で。

 彼(サムエル・フォン・プーフェンドルフ)は『ゲルマニア帝国の状況』という著名な書物の中で、「ドイツ帝国は政治の原則で分類しようとすれば不規則で怪物に似たものと呼ぶしかないだろう」といっている。
(p152)

第10章「ゲーテの時代」


まず、意外だった話から。ドイツ全体で3万人の兵力と50万ポンドを、アメリカ独立戦争の時にイギリスに貸与したという。ヨーロッパ内で奴隷貿易時のギニア湾岸に少し似たことが行われていた、しかもそのうち2万5千人はそのまま戻ってこなかったという。

 (十八世紀の末まで)人は一生の間に一冊の書物を繰り返し繰り返し読んだのであって、ロルフ・エンゲルジングは、このような読書の形を集約的読書と呼んでいる。こういう読書の形は世界は変化しないものという前提の上で作られており、少なくとも十八世紀末までドイツの人々は世界は変わらないものだという意識をもっていた、とエンゲルジングはいう。この頃に集約的読書に代わって多読的読書が始まったというのである。
(p165)


十八世紀半ばに成人の10%だった読書人口(識字率とは違う指標?)が、1777年に25%、1830年に40%。そのため読書協会が作られ(ドイツ全土で270)、また農業技術改良協会、音楽協会、歴史協会なども作られた。ベートーヴェンの「合唱」はこうした協会なくしては演奏不可能であった。これが前章で言及したカントやゲーテの生まれる理由の一つ。
でも、ゲーテがもしイギリスやフランスに生まれたら、単なる宮廷詩人か議員でしかなかったかもしれない、と考えている研究者もいるらしい。
(2021 09/20)

ビスマルクの前に走るリスト


リストと言ってもドイツの経済学者、フリードリッヒ・リストのこと。
ビーダーマイヤー(正直者の意)→ドイツ関税同盟→ビスマルク
リストはドイツ関税同盟(同盟内部では関税なくす)と鉄道建設。

 ハンブルクからオーストリア、ベルリンからスイスと通商を行うのに一〇の国を横断し、一〇の関税精度を調べ、一〇回通関税を支払わなければならない
(p196)
 そんなこと(鉄道建設)をするくらいなら、窓から金を投げ捨てたほうがいい
(p197 これはリストの鉄道建設政策に対しての揶揄)


1850年代はドイツで一日の労働時間平均14時間とか言われる年代。この時期に故郷を後にして移民するドイツ人が多かったという。でも、前に別の本で見たイギリスの労働時間最大期はもう少し後だった気も。
ビスマルクといえば鉄血宰相とよく言われるけれど、この「鉄」と「血」の出どころは、実は愛国精神に溢れる詩から。シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争から普墺戦争まで。明日は普仏戦争の話題から。
(2021 09/21)

ビスマルク後からワイマール共和国まで


ビスマルク失脚後の方が、海外進出を積極的にして、義和団事件の際のイギリスとの揚子江協定や、ヘルゴーラント・ザンジバル協定(北海のヘルゴーラント島(英)と東アフリカザンジバル島(独)を交換する)、皇帝ヴィルヘルム二世がモロッコに直接出向いたモロッコ事件など。こうした中、バルカン半島でロシアとオーストリアがぶつかることで第一次世界大戦が始まる。水兵のクーデタで皇帝が亡命し、社会民主党が政権を獲得したりしていたけど、一部?のドイツ側の見方では「戦争には負けてはいない」観もあった。そこでヴェルサイユ条約の賠償が響いてくる。
(2021 09/22)

読み終わって、気になったところあれこれ。

順不同。
ナチスとカトリック(ヴァチカン)・プロテスタント(カール・バルト)との対応。ヴァチカンはファシズムともナチズムとも協力的。プロテスタントに対しては、ナチスは「改革」を要求したがプロテスタント側は抵抗しそこでカール・バルトも活躍した。

ECに至るまで。
フランス首相プレヴァンは西ドイツに再軍備させるのに、国軍ではなく西欧軍という超国家型の提案をした。条約には各国調印したがフランス国民議会が批准拒否したため、西ドイツの軍備はNATOに国軍を参加させることで対応した。一方1951年に「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」を発足させて、これがEC、EUの母体となった。

決闘とノルベルト・エリアス
市民階級の立場の国比較。西欧の他の国では市民階級が勃興し近代的市民社会が成立。ドイツでは貴族階級が残存し市民階級が不十分なため、貴族的価値観が市民階級にも伝播し決闘も残った、とエリアスは言う。そこで参照されてるはずのエリアスの本が「参考文献」に出ていないのは何故だろう?

アジールは日本中世は研究されているけど、現代日本ではまだない。亡命は日本では認められていない? 
ドイツ統一直後の東側の街の様子。1990年10月3日、ドイツ東西統一。阿部氏は友人と東側ミュールハウゼンに行った。その街を歩いていたのも、屋台を出しているのも西ドイツ人。東ドイツの人びとは押し寄せる西ドイツ人のために外出もできずじっと家で隠れていたという。
オランダとドイツの子供教育。オランダ人はドイツ人に比べ放任主義。ドイツでは軍事的モデルが家庭内でも見られる、という。
(2021 09/23)

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