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「月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集」 ルイジ・ピランデッロ

関口英子 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

ピランデッロの作品、今年はもう一冊「カオス・シチリア物語」(白水社)も出たらしい。
(2012 12/02)

「月を見つけたチャウラ」、「パッリーノとミミ」


1話読了。チャウラが見た月は生の象徴か死の象徴か?
(2012 12/04)

 その動作をしたのが自分自身であることが、奇妙に思え、生きている自分をただ眺めているのだ。
(p309)


自己というものへの虚構感、不信感というものをずっと持ち続けていた人らしい。それはやはりずっと精神疾患を病んでいた妻の介護をしていたことが影響しているのだろう。
今日は第2話「パッリーノとミミ」を読んだ。前に第3話のカラスの話も読んだ。物語の筋がどっち転んでも暗い裏があって、一筋縄のハッピーエンド(あるいは気の効いたオチ)に最後まで至らない作品。といっても、読後感は「まあ、こんなもんだよね」という感じで暗くはならない。それかウモリズモというものなのだろう。
(2013 01/06)

「ひと吹き」、「甕」

昨夜は「ピランデッロ短編集」から「ひと吹き」を読んだのだが、ピランデッロが一貫して追い求めたのは自己のアイデンティティーというものではなかったか、と考えた。語り手が鏡像の世界に入り込んでいきたいと思うところなど。あと、解説にはこの作品は不条理がテーマだ、ということが書いてあったけど、確かに「死神」が語り手?というなんか無茶苦茶な設定と筋だが、ブッツァーティなどの不条理とはまた違う気も。必然の王国が現時点では通り越して不条理に見えてしまうような…なんか違うかな?読んだ直後の考えより…
(2013 01/08)

昨夜読んだピランデッロは「甕」。今までのどうにもならないところを突き抜けたユーモアではなく、通常の?明るいユーモア的な作品。ピランデッロの作品って結構映画化されているみたいだけど、これもしてみたい、見てみたい作品の一つ。
(2013 01/09)

自己から抜け出して自己に入る


ピランデッロ短編集から昨日は「手押し車」。地位のある立派そうに見える紳士が実は自宅でペットを虐待(手押し車のように引きずって)していた、というなんだかまあ前の世紀からよくあるような話なのだが、ピランデッロの場合、問題はそこにあるのではなく、自宅に帰ってきてもそこに自分というヤツがのうのうと生きているのが見えるという自己同一性の不安定さが問題になっている。自己に自己が入ってもう一つの何らかの生を生きる…あんまり関係ないかもしれないとは思うが、自分はボルヘスの「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」をちょっとだけ思い出した。両方とも何かに侵入する話だが、ボルヘスの方は既存の物語に入って結局一字一句同じ作品になってしまうのに対し、ピランデッロの方は自分自身に侵入?して別の何かをしている…どちらも近代的自己確立の盲点をついているのは確か。
(2013 01/10)

一本の草


ピランデッロ短編集より「使徒書簡朗唱係」。タイトルは主人公のニックネーム。信仰も失った善良というか無気力なのか繊細なのか…な主人公がずっと見守ってきた一本の草を、通りがかった若い女が折ったことによって罵声を挙げ、その女の婚約者と決闘して殺される…という話。作者の視線は一見そういう主人公に寄り添っていそうで、実は若干は突き放しているような…
(2013 01/12)

「貼りついた死」と「紙の世界」


昨日夜読んだ「ピランデッロ」短編集から「貼りついた死」と「紙の世界」。

 人生には味というものがあるんです。たしかにある。誰もが、このあたりで感じている。まるで、喉にひっかかった不安感のようにね。ですが、誰もそれに満足せず、けっして満足することもできないのです。なぜなら、人生は、それを生きるという行為そのものにおいて、つねに自らに貪欲であり、味わわせてくれないのです。 
(p165)


まずは、「貼りついた死」から。ちょっと長くなってしまったが、前半の喉とかいった辺りの身体にまとわりつく比喩の巧みさと、後半の常に前に未来にへと向かってしまうわれわれ人間の志向への指摘、両方言及したかったので・・・味は過去にあり、とこの後すぐに述べているが、それを反芻動物のように味わい尽くしたのがプルーストなのか。 

 ここはわたしの世界なのだ。だから、もぬけの殻ではなく、誰かがこの中で生きているということを知るだけで、心が慰められる。 
(p187-188)


続いて「紙の世界」。生涯ずっと読書しかしてこなかった老紳士の陥った苦境(この狂気じみた書物への愛はカネッティの「眩暈」を思い出させる。また、部屋が乱雑になっているという描写は、なんか自分も耳をふさぎたくなってしまう)。ついに目が見えなくなってしまったのだ。んで、書物の整理とか、朗読とか他人にやってもらうのだけれど、当然?うまくいかない。上の文章は、朗読しにきた若い女性に言った言葉なのだが、そういう書物狂でも、生きている実感というものは必要だったんだな、と思わせる文章。その実感は各個人でいろいろ微妙に違ってくるものなのであろう。この老紳士の場合は、それが隣で自分の本を黙読(朗読はいかん!のだそう)するのを眺める、というかなりねじ曲がったものになっているけど。 
(2013 01/14)

「自力で」と「すりかえられた赤ん坊」

まずは前者。何が自力なのかというと、墓場に行くのがということ。というわけで、表面的にやってることは墓場に自殺しにいくことなんだけど…居眠りしている墓守を主人公が死人の立場で?見ているところが皮肉めいて楽しい。
(2013 01/16)

続いて後者。シチリア・分身と、ピランデッロお得意の分野なのだが、「魔女」の頭のよさというかずーずーしさというのをある程度は作者は評価しているのだろうか?
(2013 01/18)

人間を巡るアルキメデスの点


「ピランデッロ短編集」残りの4作品のうち、今朝は2作品。「登場人物の悲劇」と「笑う男」。この2作品、ストーリー的には違う分野ながら、かなり共通するものもある。それは実際の人物と登場人物(まあ、前者も作品の登場人物なのだが…)、あるいは起きている時と夢の中、それらを見渡す自由な、というよりひょっとしたらもっと受身で流動的かもしれない作者の視点。
そういう主体なるもの移動する点をアレントの「人間の条件」の中での言葉を利用して、「アルキメデスの点」と言ってみたい気にさせる。特に「笑う男」の、自分では把握できない夢の中のなにものか、はとても気になる(でも、それがとても低俗的な笑いだったというところが、また哀しい…でも、本当にそんな夢だけだったのだろうか?)。
あと、共通するところと言えば、両者に自己を宥める「哲学」が出てくるところ。これらも作者のからかいの対象になっているのですが、そうしたものを持たないと生きるのが難しい…というのも、また人間というもの。

ある一日を読んだ一日


というわけで、「ピランデッロ短編集」をなんとか読み終えた。

それから手で自分自身に触れ、自分がどんな姿をしているのか、身体をまさぐってみる。というのも、自分が本当にそこに存在しているのか、いま自分に起こっていることが事実なのか、もはや確信が持てないのだ。
(p279ー280)


前も似たような箇所を引用した気もするが、「ある一日」の冒頭の方から。知らない街にいきなり来てしまった、というなんだか「エペペ」みたいな始まり方から、イタリア作家お得意の人の一生の戯画みたいな後半へ。息子達の白髪の伸びる速度に象徴されるような斬進的加速感があってかなり好みな一篇。上記文はコギトすら信じられなくなった状態。この短編「ある一日」はピランデッロの死去数ヶ月前に書かれたものらしい。
(2013 01/29)

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