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「バクトリア王国の興亡 ヘレニズムと仏教の交流の原点」 前田耕作

ちくま学芸文庫  筑摩書房

バクトリアという場所の特異性…

 東の中国文明よりすれば西辺、南のインド文明よりすれば北辺、西のイラン文明よりすれば東辺、それぞれの大文明の辺境にありながら、地理的にはアジアの臍(オンパロス)に位置するというバクトリアのこの特異性、辺境と中心とを合わせもつバクトリアのこの多極性が、バクトリアの歴史に不思議な彩りの深さを与えている。
(p14)


あと、どうでもいいけど、自分はどうしても「バクテリア」と響きからイメージが交差してしまう(笑)
(2022 04/17)

アケメネス朝ペルシアでは、創始者キュロスからダレイオスなどバクトリアとつながりのある王が多く、また反乱派とか別派がよく(肥沃である)バクトリアを中心にするという。
また、ダレイオス1世を選出した遠乗りで日の出とともに嘶いた(いなないた)馬の主にするアシュバメーダ(馬祀祭)が、ヴァージァペイア(力飲祭)とともにインド・イラン系の文化伝統に基礎を置く。
また後年、アレクサンドロスがペルシアを攻めた時に「ペルシアからギリシア系に支配者が変わる」と記した石板が水の中から出てきたという伝承も、先の馬の嘶きの例と同じく、デゥメジルが指摘(もっとデゥメジル読んでおけばよかった)。
(2022 05/19)

上記補足:著者前田氏はなんかデゥメジルに異様に詳しいなあ、と思っていたら、前にギンズブルグとの兼ね合いで借りるだけ借りて、全くの未読で返却してしまった、ちくま学芸文庫のデゥメジルコレクションの編者の一人でもあった。
補足終わり。

ギリシアとペルシア


さて、アレクサンドロスの東征の続き、バクトリアでの反乱軍を制圧しねぎらいの為の宴を開いていた時、似たような事件が連続して起こる。クレイトス事件とカッリステネス事件。
前者クレイトスはアレクサンドロスのペルシアとの初戦で命を助けた古参の将、後者カッリステネスはアリストテレスの甥でアリストテレスとともにアレクサンドロスの教師となった人物。両者とも、アレクサンドロスが「ペルシアかぶれ」「神」となったことに対し鬱憤を持っていて、宴の際それを口走って最終的に殺されてしまう。日本からすれば、戦勝の宴でこのような議論をしていることに驚くが、アレクサンドロス側からすれば、既にそれは考え済であって、余計な注文であった。

 それに征服者であるマケドニアと被征服者であるペルシア、とりわけペルシアの支配をうけてきた属国ソグディアナやバクトリアの人びとが対等な儀礼で結ばれるということなど夷狄と自分たちとを厳密に区別してきた者たちにとってはカッリステネスの発言はきわめて自然であったとさえいえるだろう。
(p70-71)


こういう対立の構図はいついかなる時でも見つかるもの、古代ギリシャのポリス対バルバロイ(野蛮人)から、ヘレニズム時代の世界市民社会への流れで起きた歪みと言えるだろう。
(2022 05/20)

アレクサンドロス大王の死後のヘレニズム時代

セレウコス朝のセレウコスから孫まで。

アレクサンドロスの末期に、麾下の諸将はアジア系の娘と結婚させられた…多くはその後、離れるが、セレウコスとバクトリアの娘アパメはずっと続いた。
その子供アンティオコスは、父の新しい結婚相手に横恋慕して恋煩いをするという展開で、この相手を父から譲り受け一番の安定期を気づいた。父子とも西側での争いに力を注ぐため、東側の新興勢力マウリア朝とは講和を結び大使も送った(この大使の書いた「インド誌」は散逸しているが、引用している様々な文献から一部は推察できる)。
しかしその子供アンティオコス(Ⅱ世)の時代には、東方も黙ってなくバクトリアでディオドトスが独立し、この2代でグレコ・バクトリア王国の礎石を築いた、と前田氏はしている。
(2022 05/23)

パルティア王国(安息)

主題であるバクトリアの西隣。セレウコス朝の東隣。

セレウコス朝ではアンティオコスⅢ世、パルティアではミスラダテスⅠ世の時が盛期。この時代より後になるとよく理解できなくなってくる。そして張騫とか中国(漢)そしてローマとの接触もこの辺から始まってくる。パルティア東辺での仏教の広がり(ゾロアスター教の土台は揺るがされなかった)、そして「ニサのヴィーナス」という彫像などのギリシャ文化。パルティアの僧も後漢時代に訪れていたという。

 セレウコス朝によってヘレニズム化された非地中海的な内奥アジアを、バクトリアとパルティアが分有したことの文化的意味はやがて改めて問うこととなろう。
(p155)


なんだろう。今思いつかないからかなり気になる…
(2022 05/24)

バクトリア王国のコイン

上記(p155)の件、今日読んだところから一つ。

 中央アジアのヘレニズム化した土地と、セレウコス帝国のあいだに割って入り非ギリシア国家をそこに介在させたパルティアの出現以後ではこうした移住は不可能と思われる。
(p158)


バクトリアの王エウテュデモスの移住。パルティアを通る移住ができなくなったから、このエウテュデモス家の移住はそれより前すなわち父の時代であったとする。
このバクトリア王国、各王がどちらかというと東へ向かいタキシラ・ガンダーラからインドへ遠征している。マウリア朝はアショーカ王亡き後衰退し始めていたし、この頃のコインにはギリシャ文字とカロシュティー文字の2国語併用のコインが多い。このカロシュティー文字というのは、インド北西部の言葉。
なおかつもう一つのバクトリア王あるあるは、東側の侵攻をすると西側では、ギリシア勢力や留守居番が隙をついて反乱するという展開が多いというところ。
(2022 05/25)

ミリンダとナーガセーナ

第12章。マウリア朝を倒してヒンドゥー再興仏教迫害をしたシュンガ朝のプシュヤミトラと、河を隔てて対峙するメナンドロス。「ミリンダ王の問い」でのミリンダ王とは彼のことであり、仏教尊者ナーガセーナとの対論がそこには描かれている。

 ソクラテスとアルキビアデスにとっては「自己」(アウトス)とは、問いかける主体であり、語る主体であった。これこそギリシア思想のゆるぎない出発点であったのである。ミリンダ王にとっても自明の前提であっただろう。ところがナーガセーナの返答はことごとく「大王よ、そうではありません」であった。「我」(アートマン)の非在を説くナーガセーナの言説は、ソクラテスとミリンダにとって明証であったものと鋭く対立するものであった。
(p226)


仏教に帰依したかは不明だが、プシュヤミトラの迫害のあと保護したので、後々まで物語が伝えられた。
第13章。匈奴→月氏(移動したのが大月氏と呼ばれ、しなかったナーガセーナが小月氏と呼ばれる)→サカ族(塞)シンド地域からインダスを遡り、インド・グリーク王国を滅ぼす。たぶんそれは次の第14章。
(2022 05/27)

とりあえず読み終えたけど、まとめは明日…
(2022 05/28)

バクトリア王国の発掘史

第14章は考古学的にわかっているところだけを箇条書きしている感じ。資料はまたしてもコイン。王の系列と地域を分類し、その関連を求める。
第15章は今までの通史的記述から、発掘史の記述となる。
とりあえず一箇所だけ引用しておく。

 ヘリオスの胸像と有翼のニケ、前足を一本高くあげて堂々と歩む獅子と権威を象徴する傘、遠近法の消去と女神や祭官の固定的な姿勢、それらはそれぞれにギリシア、西アジア、オリエントの混成的な寄与を示すものである。アイ・ハヌム(遺跡の名前)はヘレニズムの圧倒的な主導のもとにありながらも、なおギリシアとアジアの文化が混り住む多元的な世界の構成の努力を放棄することはなかったのだ。
(p293)


アイ・ハヌム遺跡は、現在のアフガニスタン、タジキスタンとの国境の川の合流点にある。タジキスタン側でもタフティ・サンギン遺跡などが発掘されている。
最後にあとがきから。

 クシャンはグレコ・バクトリア王国の歴史が暮れて羽ばたく梟である。しかし飛び立つには〈思考が溺れてしまう無限の波間〉(アガンベン)をかい潜らなければならない。
(p323)


クシャン(クシャナ朝、カニシカ王の時代が盛期)の盛衰を描くための序章として、この本を位置づけている、と前田氏はしている。
(2022 05/29)

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