「目眩まし」 W・G・ゼーバルト
鈴木仁子 訳 ゼーバルト・コレクション 白水社
メクラマシとメマイの違いって?
今日は何読もうか迷ったが、ゼーバルトの「目眩まし」にしてみた。4部構成で、第1部のアンリ・ベール(ということはスタンダール)のイタリア行き、第2部のゼーバルト自身の(今のところ)ウィーンからヴェネツィアの旅と読んでいる。
印象が強過ぎて、実際のものより変形してしまった記憶…その体験をメマイと表現しているらしい。が、今年春に読んだカネッティもこちらのゼーバルトも、実はどっちも「眩暈」という意味のタイトル。こちらでは、訳者鈴木仁子氏がそれを「目眩まし」と(やや)意訳してみた、という。
あと、この小説はカフカの引用が多いという。
(2010 09/17)
狩人グラフス
小説内で泊まったホテルのおかみに「今書いているのは推理小説です。その中にはこのホテルもそれからあなたも出てきます」と語っているゼーバルト「目眩まし」。作品内で作品自体を語ることは直喩・暗喩問わずよくあるが、ゼーバルトの場合はなにかそれもちまたにあるテクストを拾って使ってみた…ってな感じ。
この小説の推理小説的要素は、例えば監視しているような二人の男とかなのだが、それも含めこの小説の中にはカフカの短編「狩人グラフス」の要素が織り込まれているという。これなど、バルトの言う「テクストの快楽」を作品にするとこんな感じなのか??…自分では全てわからないのが残念だが…
そいえば、ゼーバルトの名前の中にバルトが織り込まれている(笑)。
船と二人の男
ゼーバルト「目眩まし」を読み切ってしまった。
頻出したイメージは船の航海と、それから前にも書いた二人の男。
船の方は無理やりとも思える場面でも、比喩としてイメージを重ねていく。一方、二人の男の方は時にサスペンス的に、また時にはカフカの子供時代そっくりの双子として、また別の時にはゼーバルト自身の回想でバイクに乗った司祭と医者の老人コンビだったり、と現れる。
第1の船の比喩が固定観念として割り込み、第2の二人の男は軽やかに様々に変奏する。そんなフーガの技法みたいな?作品だが、その二つのイメージが重なり合うと、狩人グラフスの像となり、それが何を表すかといえばそれは葬送のイメージ。棺の中には狩人グラフスが入っているが、それはひょっとしたら自分なのかもしれない…そう考えたら目眩が…
で、実は自分はカフカの「狩人グラフス」なる短編を読んでいない(あらま)。或いは、読んだけど今は忘れているのかもしれない…それなのにこんな文章書いている自分に目眩が…(笑)…
(2010 09/20)
(このあと、ちくま文庫の「カフカ・セレクションⅡ」所収の「狩人グラフス」読んでいるはずなのだけれど、そこに記載が全くない(笑)・・・宿題かな・・・一応関連書籍には入れておく)
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