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「燃える平原」 フアン・ルルフォ

杉山晃 訳  岩波文庫  岩波書店


短篇集「燃える平原」の構造

この「燃える平原」という短編集は元々15編だったのが、「大地震の日」と「マティルデ・アルカンヘルの息子」を付け加えて17編にした。執筆は「おれたちのもらった土地」と「マカリオ」が初期で1945年雑誌掲載。付け加えられた2編が1955年。短編の並び見ると、後年の2編の後に「アナクレト・モローネス」が並ぶ。一番長い作品でもあるし、自信作でもあるだろうし、短編集の並びの計算上でもあるだろう。訳者杉山氏によると、この短編集の中で異色なのが「ルビーナ」と「アナクレト・モローネス」。「ルビーナ」は「ペドロ・パラモ」の原型? そして「アナクレト・モローネス」はユーモアたっぷりで庶民の文化を感じさせる。

「アナクレト・モローネス」、「おれたちのもらった土地」

最後の「アナクレト・モローネス」と、ついでに?一回読んだけれどよくわからなかった「おれたちのもらった土地」を読んだ。短編集の冒頭と最後。

その「アナクレト・モローネス」は、語り手ルカスの家に10人ほどの「婆さんども」がやってくるところから始まる。アナクレトとはペテンで奇跡を起こし、この女達はアナクレトの友人でもあるルカスに「アナクレトを聖人にしてもらう」ように依頼しに来た。という話なのだが、アナクレトやルカスもペテン師なら、女達もなかなか達者で、オチは実に鮮やか…
引用は結末近く、最後に残ったパンチャという女とルカスが石を集めているところ。

 で今パンチャは、やつの上にもう一度石の重しをのっけるのを手伝ってくれているのだった。その下にアナクレト・モローネスがいるなんて、想像もできなかったろう。やつが墓から抜け出して、またおれを困らせにくるんじゃないかと不安だったので、おれも一生懸命そんなことをやってたけど、あの女はおれのこの思いを知るよしもなかった。あんなずるがしこい男のことだから、きっとなにかうまいことやってまた息を吹きかえし、のこのこ出てきそうにも思えた。
(p269)


パンチャが「想像もできなかった」か「知るよしもなかった」かは考えてみる余地があるが、それは置いて、死者が生き返る死生観がまだ濃厚に残っている感受性の土地なのだな、と思う。

「おれたちのもらった土地」は、メキシコ革命で降伏した農民達が、武器を返却し農地の分配を受ける。しかしこの「土地」というのがかちんかちんの不毛の平原。農民達は歩いている。でも読者には彼らがどこへ向かって歩いているかは知らされない。ただ犬の遠吠えに挟まれた中の回想が続く…もらった土地の存在は「おれたちの」の「の」に明確に現れていて、決して「おれたちが」ではない(スペイン語ではどうなっているのかな?)。

解説から、エレナ・ポニアトウスカとの対談でのルルフォの言葉を引いておく。

 「祖母は誰とも話さなかった。人と話をするのは都会の人間のすることだ。田舎では違うんだ。私の家では話をしないんだ。誰も話をしない。…(中略)…それに、私も誰かと話をしたいわけでもない。日々起きることを納得したいだけだ。それで毎日、自分と話をするんだ。国立民族研究所へ行く道々、歩きながら話すと楽になる。ひとりで話すんだ。誰かと話すのは好きじゃないんだ」
(p273)


(2023 08/11)

「コマドレス坂」、「おれたちは貧しいんだ」、「追われる男」


「コマドレス坂」と「追われる男」はルルフォのテーマである復讐譚。「おれたち…」は農村を襲った洪水。
「コマドレス坂」は語り自体も読み応えがあるのだが、このコマドレス坂という場所自体が気になる。都市郊外のスラム?都市化され飲み込まれた農村?

「追われる男」は「コマドレス坂」よりもっと複雑な構成。追われる男、追う男、それぞれの今と回想(直近の殺害、そしてもっと前の回想)、それぞれが錯綜し読者の前に提示される。その後、第三者の羊飼いの男の証言が付く。この証言によると追う男の復讐は果たせたようだが、羊飼いは警察に連行されていく…

「おれたち…」は、洪水に持参金としての牛をさらわれたターチャという妹を思う語り手の話。この妹の姉二人は商売女となって家から出ている。牛が流されたことで、妹もそうなってしまうのではと語り手は考えている。

 その間にも、大きく盛り上がった川はどんどん水かさを増しつづける。そして、あっちから吹いてくる腐ったようなにおいは、ターチャの濡れた顔にもふりかかる。するとターチャの二つの小さな乳房は、しきりに上下に揺れはじめる。まるでいきなりふくらみだして、いよいよ堕落の底へと、ターチャをひきずりこもうとでもするかのように。
(p42-43)


この作品は歴史に語る場所を得られていなかった、後に貧しさ故に娼婦になっていく少女の宿命の瞬間を捉えた稀有な作品かもしれない。肝心なのは、このターチャがこの時全くの無垢とは言えない状態だった(無垢な少女というのは幻想でしかない)ことを示しているところだろう。
(2023 08/12)

「明け方に」、「タルパ」


「明け方には」は冒頭はルルフォには珍しいような自然の叙情性ある描写に始まる。その中を進んでいく牛飼いのエステバン爺さん。しかし結末は典型的なルルフォ。近親相姦、秘匿されていた暴力性、円環。フスト・ブランビラを殺したのはエステバンなのか否か、フスト・ブランビラがエステバンを殺す可能性とは紙一重ではなかったか。ルルフォの世界観、そして冒頭の鳥瞰した視線にしてみれば、どちらでも同じことであるのだろう…ある意味、ルルフォの極限まで進んだ作品なのかも。

「タルパ」でも俯瞰した見方がある。これもルルフォ文学の特質であるだろう。物語はタニーロという瀕死の男の妻とタニーロの弟が、聖母の街タルパへ連れて行く話。タルパへ行こうと言い出したのはタニーロ自身だが、この旅を実行したのは、この長旅にタニーロは耐えられないこと、そしてそうすれば妻と弟がつながることができるという思い。タニーロはタルパの教会で亡くなり、彼ら二人はタルパにタニーロを埋め、戻ってきて妻は母親の胸で泣く。作品冒頭はこの場面から。そして2ページ目で「おれたちはタニーロ・サントスを殺したのだ」とすぐに出てくる。ルルフォ作品では誰が殺したのか、そこを不明にしたまま筋を進めることが多いが、例外的なこの作品では、実際には殺してはいないところがまた興味深いところ。

 おれたちは群衆にもまれながら少しずつ進んでいった。人生の歩みがあれほどのろく、凶暴なものであろうとは夢にも思わなかった。人びとは太陽に焼かれながら、砂ぼこりの中を無数のうじ虫のようにうごめいていた。砂塵にすっぽり包みこまれて、おれたちはまるで囲い場へ追い立てられる家畜の群れのように街道を進んだ。どこを向いても砂ぼこりが舞っていた。
(p85-86)


この文は、タルパへ向かう街道に出たところの描写。語り手視線とそれに潜む直観的な哲学的気づきを拾い上げて記述するルルフォの視線が混じり印象深い味わい。そしてこれも俯瞰的な描写。
最後は「おれとナターリアは、タニーロの上にしっかりと土を盛り、石もいっぱいのせてやった」(p95)…ここでも「石」なのか。ルルフォ文学はこうした人々の怨念を描き封じ込める「石」のようなものなのか、とも思う。ただ、この妻と弟のその後は、離れていくか、もし仲が続いたらタニーロの記憶が付き纏って不幸になる一方かいずれかになるとも思う。最後の一文、上の文に続く、「ここ」がそうなると気になってくる。
(2023 08/13)

「マカリオ」、「燃える平原」


「マカリオ」はそういう名前の男の子の独白。でもなんだか近親?相姦的な匂いも…

「燃える平原」はメキシコ革命の戦乱の話。牧場燃やしたり、列車転覆させたり、語り手が所属する反乱軍もどうしようもない連中なのだが、この短編の結末はルルフォ作品にしては珍しく(というか唯一?)小さな希望が仄めかされたもの。戦乱の最中に攫っていった娘なのだけど、刑務所から出てきた語り手を待っていて、子供とともに新たに暮らし始める…
しかし、近親相姦、メキシコ革命、父と子、そして堂々巡りの復讐…とこの短編集の主題繋げればそのまま「ペドロ・パラモ」だな。死者の街へ入る、という外枠も、この短編集進めると出てくるみたいだし…
(2023 08/15)

「殺さねえでくれ」、「ルビーナ」、「置いてけぼりにされた夜」


「殺さねえでくれ」は典型的なルルフォの殺しと復讐譚。特にこれは、ルルフォの父親が理由もわからず殺された、という話と直結する。
それとこの話は「明け方に」との近さを感じる。殺し殺されの円環という意味でもそうだが、何かその殺すやり方が尋常ではなく執着している。解説によると「覚えてねえか」にもそんな箇所があるという。

「ルビーナ」は短編集「燃える平原」の中でも「アナクレト・モローネス」と並ぶ「異色作」。そしてこの作品の外枠が「ペドロ・パラモ」に援用されている。また、語り手がルビーナで見かける女たちは、ペドロ・パラモの町の亡霊の原型ではあるまいか。訳者杉山氏が「ルビーナ」の一言も口をきかない聞き手は実はルルフォ自身ではないか、という魅力的な解釈をしている。

 そこいらじゅう悲しみでいっぱいだ。風が吹くとその悲しみがぐるぐるかきまわされるだけで、どこかへ行っちまうってことがない。
(p157)

 夢を抱いてルビーナへ行ったはいいが、老いさらばえてぼろぼろになって帰ってきた。で今度はあんたがむこうへ行くってわけだ… 昔を思いだすな。あの時はあんたじゃなく、このおれだったんだが…
(p159)


悲しみが円環し、聞き手と語り手が入れ替わる。これも「ペドロ・パラモ」に引き継がれる。

「置いてけぼりにされた夜」は戦いに敗れたらしい3人が落ちのびていく。その中で異様に眠くなってしまう視点人物は置いてけぼりにされる。ただ、彼が追いついた時には、先の二人は処刑された後だった…
(2023 08/16)

「北の渡し」、「覚えてねえか」


この2編もルルフォからしてみたら結構「異色」の方ではないか。特に前者。父と子の対話という意味ではルルフォなのだけど、ユーモアというか宿命の度合いを薄くした感覚というか。それにどうやらアメリカに密入国しようとした、という世界の広がりも感じられる。後者は、宿命の度合いはルルフォそのものなのだけれど、「覚えてねえか」と続ける語り口がそれを和らげる。でも先述したように、過剰な暴力性がここでも見られる。
(2023 08/17)

「犬の声は聞こえんか」、「大地震の日」、「マティルデ・アルカンヘルの息子」


「犬の声は聞こえんか」。悪行を繰り返し瀕死の傷を負った息子を背負って山向こうの町へ歩く老人。息子はほとんど喋らないので、実質父親の一人語り。最後に町に着いたとき、息子は既に死んでいた(と思うけれど、明言はされていない)…

「大地震の日」は、大地震の震源近くの町に州知事が訪れる。地震で大変な中、州知事一行はパーティらしきものを開いて飲みふける。そのうち「その通り」と叫んでいた男が、州知事の演説中に突然ピストルを乱射し出す。会場の外でも鉈で斬り合う二人がいたり、そんな中でも楽団は演奏し続けるという騒ぎ。その騒ぎの周りでは住民が苦しんでいた。結末は語り手にそれを思い出させる場面。

「マティルデ・アルカンヘルの息子」はまたも父-息子もの。今度は、息子の母親の死に対する恨みで、両者ともいがみ合う。父親は息子への暴力でそれを日夜はらしているが、息子の方は…息子が吹くハーモニカの音の使い方が巧みな作品。まだこの作品が「燃える平原」に収録される前、診療所の待合室にあった雑誌で見たガルシア=マルケスが讃嘆したという作品。
(2023 08/18)

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