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香りが思い起こさせる

いつの日からか、日中家にいると、時折お香のようなにおいがするのに気付いた。どことなくオリエンタルな香り、この前は玄関に入る前にも香っていた。ムスメも香りに気づいたようで「お母さん、これ何のにおい?」と尋ねてきた。「どこかのお部屋でお香でも焚いているのかもね、いい匂いだね」と何気なく答えていた。お香やアロマ、最近は手軽に香りの種類を楽しめる。

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近くで救急車のサイレンの音が止まる。ここ数か月、近所で救急車の音を耳にすることが増えた。サイレンの音は私の心を不安にさせる。周りで何が起きているのか恐怖が付きまとう。普段から持ち歩いている耳栓をバッグから取り出し、そっと耳をふさぐ。

小さな時からそうだった。自営業の父は車で出かけることが多く、多忙を極めていた頃は毎日3時間ほどしか眠れない慢性的な睡眠不足で顔色が悪かった。お父さんの車が交通事故にあったのではないかと勝手に想像しては震えるほどの恐怖を抱いていた。自分が救急車に乗るというイメージはなく、あくまでも私の周りの人に何かあったらどうしようという思いに駆られるのだった。

私の住んでいるこの辺りは文教地区とも呼ばれ、ここ数年古い住宅や歴史ある旅館を取り壊し、高層の分譲ファミリータイプが林立する地域でもある。新しい住民の数も加速度的に増加する中、長く根差している高齢者の数も多いのが特徴。

先日は顔見知りのおばあちゃんが朝から動けなくなり救急車で運ばれたと聞いた。その後大変だった話を聞いたが、一人暮らしのおばあちゃん、早めに自分で救急車を呼んだ判断は間違っていない。

引っ越してきた当初、体調もメンタルも絶不調だった私を温かい言葉で励ましてくれたラーメン屋さんの大将も病に倒れ、しばらく療養している。

救急車を呼ぶような命に係わる病気が、いつの間にか身近な存在になっていることに気づく。

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隣のマンションの1室、しばらく洗濯物が干されていない。引っ越しでもしたのかな。あれ?そういえばあそこはベランダ越しにお話したのはおばあちゃんだった。広いベランダではおじいちゃんがたまに遊びに来るお孫さんの相手をしていた。

あたたかくなると、その内また広いベランダに洗濯がはためくようになっていた。こたつ布団や毛布、洗濯一つ取って見ても季節の移り変わりを感じる。ベランダが広いって贅沢な干し方ができるのね、一度にあんなにたくさん、広々と干せると乾きもいいだろうね。それに引き換え、うちのベランダはコンパクト。ステンレスの物干しハンガーにはタオルや下着をぎっしり。毎日部活で汚してくるTシャツやハーフパンツ、さらに時間差で取り込んだスペースを生かし、2度目の色物洗いを干す。場所と天気と時間をかけ合わせて、なるべく早く乾く方法を考える。

そんなことを気にしながら、広いベランダに羨望のまなざしを送る。すると今までと洗濯物の様子が違うことに気が付いた。

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いくつもの点がつながり、現実が見える。お香、サイレン、一人分の洗濯物・・・

直接の会話はなくても暮らしの変化で見えてくるものがある。取り立ててご近所づきあいをしていたわけではなかったが、こんな時に意識する。

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幼い頃、人は誰でも大人になって年を取り、しわくちゃのおじいちゃん、おばあちゃんになったら死ぬんだと思っていた。

歳を重ねるにつれ、世の中はそんな理想的な死だけでない現実を知る。毎日のように流れる事件や事故、災害のニュース。世の中の理不尽な死を知り、過剰に反応する体調と心の揺れ。それでも追わずにはいられない。

つぶやいたところで何も変わらない。なにも守れない。

罪のない、何の落ち度もない宝のような子たちが巻き込まれ、命を落とす。現場に居合わせてしまった子どもたちが、事件を聞いた子が心に傷を負う。

その多くは加害者が大人である。守られ、大切に育てられるはずの子、大人に奪われてよい命なんてあるはずがない。

花や飲み物が供えられた現場の映像、ついこの間は違う事故でもこの光景を見た。皆やりきれない思いを抱え現場を訪れているのが分かる。

どうしたら、何をしたら守れるのか。私はムスメに、そして子どもたちに生きてほしい。

この世に生まれ、年老いて枯れるように死ぬ。

こんなことを望むのは、今の時代贅沢なんだろうか。


苦しい、心が重い。

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今日も故人を偲ぶ香りがする。

この間とは違った思いで香りを感じる私がいる。

答えはまだ見つからない、見つかることはないのかもしれない。












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