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逃げ出したい、ここではないどこかへ【#私の好きな原田マハ】

すべて片がついたら、ひとりで旅に出よう。
誰も私のことを知らない場所。
そうだ、海辺の街がいい。
静かな波の音に耳を傾け、日がな1日海を眺める。なんて素敵なんだろう。
ずいぶん昔、私はそんなことを夢見ていた。

当時の私は、闘病の末、意識不明となってしまった母親を抱えていた。
フルタイム勤務の後に、物言わぬ母を見舞うため、病院へ向かう。
無力感と闘いながら、疲れた身体を引きずり洗濯物を抱え、父の待つ家へ戻り夕食を作る。
そんな生活を約4年続けた。
当時は、いつだって眠かったし、どこでだって寝られる自信があるほど、本当に疲れ果てていた。

そんな生活を終えて、かれこれ10年。
最近、原田マハ著・『まぐだら屋のマリア』を読んだ。

舞台は、小さな漁村の集落『尽果』。
訳あってこの地に流れてきた、若き元料理人の紫紋が、崖っぷちに建つ定食屋『まぐだら屋』に、たどり着くところから物語ははじまる。

ふと、かすかな香りが鼻先をかすめた。馥郁とした香りは、追いがつお。煮えたぎる湯に向かってさっと放てば、こんなふうに香りが花束のように広がるのだ。

この定食屋、絶対旨いに決まっている。
読者に、そんな期待を抱かせる。

定食屋を切り盛りするのは、美しき女店主マリア。
そして、そのマリアを『悪魔』と呼んで忌み嫌う、まぐだら屋の経営者、女将と呼ばれる老婆。

この物語は、行くあてもなく飛び出してきた者が、逃げ出した先での出会いを通して、ゆっくと癒され再生していく姿を描いている。

何も言わず受け入れてくれる、あたたかい人々。

しんしんと雪が降り積もる冬、熱中症で苦しむ過酷な夏。厳しい自然を間近に感じる集落での暮らし。

旬の食材をふんだんに使った、素朴だけど美味しい食事。

「死のう」として引き寄せられた。けれど結局、その思いは、いつしか「生きよう」という意思に変わっていた。


母を喪った私が、結局ひとり旅に出ることはなかった。
この作品には、逃げ出したかった当時の私が欲しかった非日常が、たくさん描かれている。

終盤、物語の中で明かされる、マリアと女将の過去は衝撃的だ。
だが、そのショッキングな出来事も、生き生きとした表情を見せる人物たちのおかげで、最後には不思議と明るさが感じ取れる作品となっている。
まるで月灯りのような、ぼうっとした淡いものだけど、とても柔らかい明るさだ。
光を浴びて、キラキラ光る海面が頭から離れないような作品だ。
読んでいる間中、幸せだった。

疲れ果てていた当時の私が、この本に出会っていたら、どうだっただろう。
読み終える頃にはきっと、また前を向いていこうと、勇気をもらったはずだ。




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