見出し画像

藤原さくらの『SUPERMARKET』を聴いてファンダムの交差について考える

2020年も終わりに差し掛かろうという10月の終わりに、藤原さくらが『SUPERMARKET』というアルバムをリリースした。

僕は彼女のファンであり、それなりに日々日々彼女の活動をフォローしていて、今回、このアルバムを聴いていくうちに考えさせられることがあったので書いていこうと思う。

まずはアルバムのサウンドについて

ここでアルバムにある全曲について触れたりしてもいいのかもしれないが、そういうのは他の方がやっているであろうし、彼女のアルバムのブックレットにきちんと各楽曲の制作陣とのインタビューも載っていて、そんなことをただのいちファンが改めてやっても野暮であろうからやめておく。
ただ、全体像については触れておきたい。今作は、多様なサウンドが詰まったアルバムであり、僕の知っている最近の日本語音楽の中でも、特にバリエーションに富んだアルバムであったと思う。

ここで留意したいのは、1アルバムに導入されたジャンルが多いといっても、「ジャンルレス」という言葉で形容されるようにいくつかのジャンルがるつぼのようにグチャグチャと混ざったものではなく、一曲一曲ごとに違ったジャンルが粒立ちよくインストールされているといったものであったということ。兎にも角にも、民族音楽からLo-Fi Hip Hopから少しSnobbishなインディーサウンドから彼女の既定路線であるアコースティックなサウンドから、本当に多様なアルバムであった。

僕の中では、先行シングル以外では"ゆめのなか"が特にツボな楽曲。


リリックについて

このアルバムの触れ込みとして確かに先行するのは先述のマルチジャンルな面であろう。しかしながら、そんなマルチジャンルなサウンドに載っけて彼女は何を歌っているのかについてもかなり重要で、きちんと2020年に私たちが経験してきたものがきちんと反映されている。
一つは、案ずるのに容易であるが、新型ウイルスの影響で一変した我々の生活について、まさに"生活"という楽曲の中で非常にナチュラルに歌われている。
インタビューもあるのでそちらも。

そしてもう一つの2020年の大きなトピックとして、彼女が取り上げていることは、Black Lives Matter(以下、BLM)の動きである。
そのトピックが中心となっているのが"Right and light"という楽曲。タイトルは英語を習い始めた中学生が最初に挫折しそうな発音の似た単語を並べただけのように感じられるが、訳せばわかる、「権利と光」という意味である。


この曲では、BLMとは何であるかというような啓蒙的なものではなく、日本という国に暮らし新型ウイルスの関係で少し海外との地理的遠隔性を感じながらも、ネット等で回ってくる海外の人権運動にもどかしさを覚え、どうにかならんかねと思っている状況がストレートに描かれている。
日本語を母語とするアーティストはその当事者性に欠けることもありBLMを話題にしないことも多いが、彼女は世界の色々な音楽や文化に目を向ける中で、おそらくながら無意識的にBLMを楽曲のトピックにすることを選んだのであろう。
この無意識的というのは、本当は意識してのチョイスなのかもしれないが、その音楽的な素材の候補として、BLMが視野に入ってくるのは彼女の音楽的なバックボーンや現在の音楽制作で関わっている人々の影響等を考えれば、割合自然なことというか先天的なことのように感じられる。

二つのファン層について

ここからは、僕自身がこのアルバムを聴いて或いは藤原さくらを追っかける中で得た至極主観的な断定のもとに論を展開していこうと思う。

一見して、彼女のアーティスト像には「これからはギタ女だ!」と踏んだ音楽産業が生み出した「ポストYUI的ギタ女」な側面があり、彼女はそういった一種のアイドル的な人気を持っているといえよう。これは彼女の認知度が月9の出演を機に上昇したという事実からも想像しやすい。

その一方で、先に少し触れたように、ベースをやってたお父さんにビートルズやザ・フーを教えてもらって小さい頃からギターを触り、というようなバックボーンの異質性、現在制作を共にする音楽仲間のタレント、そして彼女自身の歌のアトラクションやギターの巧さなどなど、彼女の音楽はどれをとっても「玄人好み」であり、エリート主義的な音楽オタクをも虜にしている

このように、①アイドルファン的なファン層②玄人好み的なファン層の二つが現在の藤原さくらを支えている(ような気がする...)。
ここで、双方のファンダムというのは人単位で区切られているというよりかは、ファン一人一人の心の中に、比率には個人差があれども、①のようにアイドル的もっと言えば疑似恋愛的もしくは同性の憧れ的に応援する心と、②のようにモノホンの音楽を愛でる感覚で彼女をフォローしようという心の双方が共存しているのだということは指摘しておきたい。

では、彼女のファンである自分はどういった気持ちで藤原さくらを推してるのかといえば、②のエリート主義的なファン心が強いように自認している。当然、既に指摘したように、自分の中にも①のアイドルのように崇拝するようファン心がないわけではないが、どちらかといえばというという話。つまり、彼女が奏でるサウンドや伝えるメッセージに惚れている部分が多く、いわば「楽曲派」である。

感じた違和感とファンダムの対立

2020年、アルバムのリリースを控えていたことや新型ウイルスの影響もあり、彼女は何度かインスタライブを行ったり、YouTubeで生配信を行ったりしていた。上記のツールでは視聴者が観ながらコメントを残すことができるわけであり、その配信に集まってくる人の多くは当然ながら藤原さくらのファン/フォロワーであった。
そのファンの一員である自分もリアタイでそれらの配信を観ていたのだが、その流れてくるコメントの中に、「かわいい」であったり、「ショート(ヘア)の方が好き」というような内容のものをみた時に、とても違和感を感じた
正直に言えば、そのいわば①彼女のアイドル的なアトラクションに魅了されたファンによるコメントに対して「このアーティストの魅力はそういうんじゃないんだって」と思ったのである。
つまり、いわば②音楽オタク的な視点でばかり彼女をフォローしている自分のような者にとって、①アイドル的なところばかりを称えているファンの存在に抵抗を感じ、もっと噛み砕いて言えば、「なんで彼女はこんなにも素晴らしい音楽をやっていて社会的なメッセージも発信しているのにもかかわらず、ファン以外の外野はまだいいとしても、ファンを自認する人の多くにさえも伝わっていないのか、、」と落胆したのである。
なんとなく、ここで僕は、上記の①と②のファン心の存在とその相性の悪さを認識した。

異なるファンダムが共存することの素晴らしさ

前述のように、藤原さくらというアーティストに全く色の違うファンダムがぶら下がっていることにもどかしさを抱えていた自分であったが、最近はそうでもないというか、むしろその状況こそ素晴らしいのではないかと思うようになってきた。
その素晴らしさについては上記の二つのファン心それぞれの視点から、各ファンダムにとって相手方のファンダムと交わることの何が素晴らしいのかという見方で説明していく。

まず、②の音楽オタク的ファンダムにとって①のアイドルファン的ファンダムと交わることがどのように素晴らしいのかを考える。
音楽オタクというのは一見して音楽を俯瞰的に見ているように見えて、実はとても盲目的。サウンドやら歌詞など楽曲ばっかりに目がいっていて、とってもエリート主義的なのである。
しかしながら、本来、アーティストや楽曲を好きになる上で、いちいちそのアーティストや楽曲にあるバックグラウンドだったりリファレンスだったりを気にするかといえばほとんどの場合は気にしない。
それに加えて、デビッド・ボウイがグラム・ロックと和名をもらう以前から何をやっていたのか、なぜ2010年代を形成したレディ・ガガ様がステージで下着姿になったのか、どうしてリゾはステージ上の曲間でフルートを吹くのか、などを考えればすぐにわかることであるが、外見やオーラにアトラクトされてその人を好きになるということも十分に素晴らしく、反対に表現者が「その人目を引く」ことに注力するということは、音楽をはじめ芸術に置いてめちゃんこ重要なことである。
しかしながら、②音楽オタク的ファンは上記の点を見落としがちになってしまう。
そこで、①アイドルファン的ファンダムと交わることによって、そう言った「ルックス」など別の彼女のアトラクションに気づくことができる
事実、少し前まで、自分自身は②音楽オタク的側面が強かったので、同性にしても自分とは違うジェンダーのアーティストにしても「ルックスでアーティスト(もちろんアイドルを含む)を好きになること」に抵抗があったのだが、上記のように藤原さくらの配信等についたコメントをみたり(あとはハロプロファンを名乗るようになったり)してからは、「その人のルックスを好きになってその人をコメント等を通して褒め称えたりして応援の気持ちを伝えることも絶対にそのアーティストの力になるよな」なんて考えたりするようになった。

では、反対に、①のアイドルを崇拝するように応援するファンダムが②の音楽オタク的ファンダムと交わることの、何が素晴らしいのか
これは手短に言えば、①アイドルファン的ファンダムがふと彼女の表現に疑問を持った時に、政治やそうじゃなくても身近な社会についてより深く考えるようになるということである。
これは多少偏った断定が入ってしまうが、①アイドルファン的ファンの多くは、アーティストの表現を受けて何かを考えるということをあまりしないのではなかろうか。僕もある批評家たちに出会う前は色々音楽を聴いてもただただ好むかこの好まざるかの判断ばかりで、そのアーティストが何を訴えているのかあるいは訴えてないのかについて全く持って関心を持っていなかった。
でも、やっぱり、アーティストはただただご飯を食べるために音楽をやっているのではなく、その時々で明確なミッションを持って作品作りやステージづくりを展開する。であるから、リスナー側も、そう言ったところに目を向けて音楽に触れた方がより楽しくなってくることは間違いない(もちろん、ハイコンテクストすぎると疲れちゃうけどね?)。
だからこそ、①のファンダムが②のファンダムと交差すること、具体的には、この藤原さくらというアーティストをテレビで見てルックスを好きになったりした人が、その後に、例えば、他の藤原さくらファンが書いている楽曲の解説を読んでみたり、あるいはもっと直接的に彼女の歌詞をみてBLMに関して考えるようになる、というようなことはとっても重要なのである。

みんな藤原さくらを聴けばいいのさ

結論はなんだと言われれば、それは「お前ら全員まとめてさくらちゃんの音楽を聴け!」のただ一点である

藤原さくらというアーティストは、評論家界隈からはどうしてもそのアイドル的な側面がチラついて言及されず、一方ルックス等を軸に音楽を聴くような人々からは「はいから過ぎて音楽が好きくない」とあまりリピートされないかもしれない。

でも繰り返すように、藤原さくらというのは、絶妙なファンダム同士のケミストリーを起こす可能性を秘めている、つまりは、音楽に対して色々なアティチュードを持って接している人がいる中で、リスナーめいめいに何かしらの気づきを与えることのできる、日本語ネイティブのアーティストでもかなり稀有なアーティストなのである。
これは、リスナー単位の話で言えば、リスナー一人一人の音楽の聴き方に新たな切り口をもたらしうるということである。
また、藤原さくらの表現自体で言っても、これらのファンダムの存在やその交差の様子を受けて、また何か面白い変革を遂げるかもしれないということである。(もちろん、ファンダムがアーティストを過度に規定するということは何も良いことは起きないという点には留意しておきたいが。)

だからこそ、藤原さくらは面白いし、これからもっと面白くなると思う。アルバムが出るまでは自分の中でそういう予感だけしていて確証はなかったのだけど、この名作『SUPERMARKET』を聴いて、それが確固たるものになった。

さくらちゃんを好きで読んでくださった方にはより深く彼女の音楽を聴いてほしいし、さくらちゃんをよく知らないで読んでくださった方には是非、藤原さくらの音楽を聴いてほしいと思う。

p.s.

2017年の作品である"Just the way we are"の本格的な音源化をめっちゃ待っている藤原さくらファンは僕です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?