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#2 「違い」と「同じ」の境界線。その先を見たくて、表現し続ける

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もしかして、「違い」って意外と優しいものなのかもしれない。
そう思った。
デザイナー・はるさんが語る言葉には、やわらかさが満ちていたから。
包むようなまなざしで見つめてみると、違いには思いがけない輪郭が浮かんでくる。

キーワードは「同じの中の違い。違いの中の、同じ」
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自己紹介:yamamoto hayata 山本 隼汰
共創サークル『不協和音』と、このメディア『対岸』のオーナー。

自己紹介:はる
デザイナー。Web、映像、グラフィック、イラストレーションなど、領域を問わず幅広い表現領域で活動している。仕事以外の創作活動では「サンタ描き はる」として、季節を問わずサンタクロースをモチーフとした作品を発表している。

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デザイナー/サンタ描き:はるさん

「正解」から解放されたら
そこには豊かで魅力的な自由がある

はるさんは、デザインの領域で多様な仕事を展開している。
世代や価値観も異なる人たちとかかわるなかで育まれてきた、「違い」に対する考え方を問いかけていきたい。

山本さん:この対談のテーマは「違いって、おもしろい」なんだけど、はるさんはそもそも「違い」をどんなものだと捉えてる?

はるさん:言葉が持っている意味ほど良し悪しで考えるものじゃない、と思ってるかな。
たとえばテストだったら、正解か正解じゃないか、が大事だよね。正解じゃないものは「違う」になる。でも、表現や創作活動だったらどうだろう? 別に必ずしも発想に正しさってないし、むしろ違う方がおもしろいことも多いよね。
「正解」ってさ、誰かが決めた答えのひとつでしかなくて、いわば“点”なんだと思う。あえて分けるなら「正解」と「それ以外」だけど、「それ以外=違い」なら、違いって考え方や受け止め方の幅を思いっきり広げていいよ、ってことになるんじゃないかな?

山本さん:確かに、正解は何かと何かを1対1で規定するけど、違いは「正解以外の全部」なんだよね。だから幅広いし、自由度が高いってことか。

はるさん:そうだね。やっぱり、創作活動だったら自由に表現できる方がおもしろいでしょ。いろんな人が、いろんな考え方のもとに表現して生まれる「違い」は、すごく豊かで魅力的だと僕は思ってる。

山本さん:たとえば、アートやデザインのイベントに行くと、正直に言って「もう…意図も手法も何もわからない」っていう表現やアーティストに出会ったりするじゃん?
僕はそういう時に「僕の価値観とは違うな」と思うと同時に「だから、おもしろい」って思うんだよ。違うのが魅力的というか。

はるさん:うん、いろんなかたちになっていていい、と僕も思う。
でもね、確かに多種多様な見え方をしているかもしれないけど、自分の思っていることをかたちにしていく、表現していくプロセスは同じだ、とも思ってる。一般的に理解されるか、受け入れられるかは別の話だよ。誰かが純粋に想いを表現しようとして、少し変わった仕上がりになるのは悪いことじゃないし、おもしろい…って感じかな。

山本さん:やり方やアウトプットが違うだけで、表現の本質まで突き詰めたら根っこは同じ…ってことなのかもしれないね。

点を見るか、面を見るか。
そして「正解じゃない」と思うか「めちゃくちゃ自由だ」と思うか。
捉え方ひとつで、違いは思いがけない一面を映し出す。

仕事にメールを使わなかった時代の人たち
タブレットでデッサンを学び始める人たち

山本さん:はるさんはどうして、そんなふうに違いをおもしろいと感じるようになったんだろう?

はるさん:長く表現の仕事をしてるけど、いろんなコミュニティで個性的な人たちと触れ合ってきた影響は大きいかもね。いろんな世代のいろんな人たちとかかわってきたから。
今は仕事で60代70代の方とやり取りすることが多いんだけど、彼らは基本的にオンラインツールを使わない世代の人たちなんだよね。今は使ってるかもしれないよ。でも、そういう手法や考え方が存在しなかった時代も知ってる人たち。そうすると、やっぱり同じ価値観を共有してるとは言えないし、そこにある違いを受け入れていく必要性は感じるかな。
あと、専門学校で講師の仕事もしてるんだけど、逆に今の学生達はクロッキー(速写)やデッサン(素描)をタブレットみたいなデジタルツールで学び始めるの。僕が学んでいた頃は紙だったから、そこも違うよね。
どっちに対しても「違い」はあるけど、だからってそれが相手を否定する理由にはならない。むしろおもしろいから。
たとえば、デジタルツールのデッサンと紙でのデッサンって違うんだよ。

山本さん:どういうこと?

はるさん:紙に鉛筆で描いた線って、どんなに丁寧に消しても完璧には消せないよね。だから、どうしても描いた後に線を消すことを考えながら線を引くことになる。
でも、デジタルだったら完璧に消せる。何なら、消したのをなかったことにして戻すことさえできる。だから、最初からそういうツールで描き始めた子たちは、自分の描くイメージに対してためらいなく大胆な線を描けるわけ。そこに、僕は違いを感じた。おもしろいなと思った。

山本さん:それは、出来上がりにも影響するもの?

はるさん:いや、あまり関係ないんじゃないかな。最終的な完成型では、どんなツールから始めたかより、作者自身の技量や想いの方が色濃く出る気がする。
それもおもしろいと思わない?
最初の一歩が違うから、たどるプロセスが違う。でも、出来上がったら、どの入り口からどの道を通ってきたのか、関係なくなる。違うように見えて同じ場所にたどりついてしまうのは、最初に言った通り、表現の根っこが同じだからなんだと思ってるよ。

個性をかたちづくるのは
一人ひとりが紡いできたストーリー

山本さん:違うように見えて同じ。同じになるのに、比べるとやっぱり違う。それ、めちゃくちゃおもしろいね。
うがった見方になるかもしれないけど、たとえば若い世代がタブレットでデッサンするのって、必ずしも違う世代の誰もが受け入れられることじゃないと思うんだよね。はるさんは「線の描き方が違っておもしろい」と思ったかもしれないけど、人によっては「デッサンは紙で描くべきだ」という発想になるかもしれない。でも、はるさんはどうしておもしろがれる方になったんだろう。昔からそうだった?

はるさん:そうでもないよ。30代後半くらいからかな。

山本さん:何かきっかけがあったとか。

はるさん:うーん…正解だけを求めなくなった時期だったのかもしれない。
仕事だったら、ターゲットのニーズに的確に応えないといけないよね。デザインには一定のルール、型みたいなものがあって、そこに当てはめる考え方になっていく。それは悪いことじゃないよ。仕事では大切だから。
でも、逆に仕事を離れて、いわゆる型にはまってないものって何だろう? って考えると、それは表現者の個性かなって。仕事や良し悪しの枠を取り払って人それぞれの個性を見たら、人生とか経験とか感性が浮かび上がってくる。当然、一人ひとり違うストーリーとバックグラウンドを持っているわけで「なるほど、だからこんな表現なのか」って思うと納得できる。すると「違い」がおもしろいものに見えてくるんだよね。
仕事じゃないものは型や枠の外側でその人が純粋に表現したものだって思うと「全部ありなんじゃないか」と思えるようになったのかな。

個性に正解なんてない。正解という型にはめる必要がないものだから。
“全部あり”だと肯定する価値観は、とても懐が深くて、あったかい。

本気で自分勝手に表現を追求できるなら
周りの評価なんて気にならない

山本さん:表現、そして「違い」がパーソナリティと関わるものだとすると、はるさん自身もそういう意味ではわりと“違う人“だよね。
創作活動の話だけど、はるさんはどうして一年中サンタを描いてるの?

はるさん:卒業制作で扱ったのがはじまりかな。サンタクロースって冬、クリスマスの象徴的なモチーフだけど「そこに限らなくてもいいんじゃない?」と思ったから。ずっと思い入れを込めて描き続けていたら、いつのまにかそれが自分の個性になっていた気がする。

山本さん:「サンタは冬だけじゃなくてもいいんじゃない?」っていう発想の裏には「サンタは冬のものでしょ」って前提もあるよね。周りははるさんの発想に対して、「それ、違うんじゃない?」と思うかもしれない。だけど、はるさんが、自分の気持ちをまっすぐ受け止めて創作活動を続けている理由を知りたい。

はるさん:それはね、一言で表すなら究極の自己満足。本気で自分勝手にやってるだけだから。
仕事にはクライアントがいるけど、僕がサンタを描く時、描き手もクライアントも自分自身なんだよね。だから、周りがどう思おうと、あるいは何も思わなかろうと、自分さえ満足していればそれでいいわけ。

山本さん:なるほどね。
たとえば、表現したいものが個性的で、一般的なものとの違いや周りの評価が気になってできない…って人がいるとしたら、同じことを言う?

はるさん:逆に「何で迷う必要があるの?」って返しちゃうかも。自分の気持ちに対してさえ本気で「やりたい!」って言えないんだったら、たぶんそれは本気でやりたいことが別にあるんじゃないかな。

山本さん:そっか。自分がやりたいと思っていたことが、実は本当にやりたいことじゃないのかもしれない、ってことだよね。違いって、多くの場合は自分と誰かの間にあるものって考えがちだけど、ひとりの中にも存在しているのかもしれない。
ニュートラルに見つめるのって難しいな。自分でさえ、自分自身を正しく見つめられないことがある。同じように見えて違うもの、違うように見えて同じものを、正しく捉える目を持てたらいいのにね。

違いは、自分の内側にさえ息づいている。
本気で向き合える輝きを放っていれば、違いは“個性”という名前を授かることになる。

拒絶の先は何もない
保留する優しさが「違い」をおもしろくする

山本さん:どうしてもおもしろいと感じられない違いに出会った時、どんなふうに受け止める?

はるさん:対処法は個人の自由だと思うけど、僕は「おもしろくないと感じているうちは、おもしろさに気づいていないだけ」って思ってる。一旦、保留。知識として知っといて、いつか興味を持てる機会があったらいいな、くらいの温度感。

山本さん:でも、保留って難しいよ。同じだと思ったら違いを受け入れにくくなるし、違いを感じたら同じ部分が見えにくくなる。
どうしてもどっちかに振れそうになるところを“保留”にできるって、すごくない?

はるさん:すごいかどうかはわからないけど(笑)おもしろくない、わからない、理解できないいからって「違い」を否定するのって、もったいないよね。僕は、拒絶したくないの。拒絶の先には何もない。わからないから嫌い、受け入れられないって思ったら、つまんないし。
もちろん、僕が自分と違う価値観におもしろみを感じるタイプなのは関係してると思う。でも、こう考えてみるとどうかな。今はその違いの良さがわからないかもしれないけど、たとえば相手のパーソナリティを知ったらわかるかもしれない。もしくは、時間が経ったら自分の方が変化して違いのなかに共感を見つけられるかもしれない、ってね。その可能性を最初から捨てたくないんだよね。

山本さん:わかるかも。拒絶って、自分の価値観で何かを断罪してる感じがする。たとえ無意識だとしても。「理解できないから嫌だ」って拒むと、確かにその先にはたぶん何にも生まれないよね。
創作や表現だったら「自分にはちょっと理解できないです」まではいいけど、「だからこの作品はダメだ、嫌いだ」は良くないよね。論理が通らないし、価値観の衝突を回避できなくなるはるさんが言ってたことって、立ち止まれる優しさみたいなものを感じるよ。

はるさん:どんなに違いが多く、大きくても、理解のための壁が高そうに見えても、僕には拒むっていう選択肢はない。違いの中に同じだと思える部分が見つかれば、それが理解の突破口になるかもしれない。違うこと自体を楽しめたら、逆に「こんなに違うのにここは同じだ」っていう楽しみ方もあるよ、きっと。
隼汰君が言った通り「立ち止まる」って的確な言葉で、後からまた歩み寄る選択肢があるといいし、一歩横にずれてみるだけで見え方が変わるかもしれないよね。

山本さん:見る場所を変えてみたり、想像したり、歩み寄ったりしたら、全然違う世界が見えるかも。どこかに同じポイントが見つかるかも。そう考えると、やっぱり「違いって、おもしろい」んじゃない?

はるさん:うん、そう思うよ。その可能性もまるごと、僕は楽しみたいなと思ってる。

山本さん:「違い」と「同じ」の味わい方が深まった気がする。ありがとうございました。

判断しない、という優しさがある。未来に委ねる…と言い換えても良い。
「違い」と「同じ」の間にある境界線。
いつか、ほどける瞬間が来るかもしれない。
包み込むようなやわらかさで未来を期待する心を持てたら、遠いと思っていた対岸につながる橋を架けることだってできる。

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メディア『対岸』では、”違いって、おもしろい”をコンセプトとし、魅力的な個人との対話を通して、その人にとっての違いや、違いの楽しみ方を記事にして発信していきます。
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