公文式の思ひ出
先週やってたNHKの100分de名著。
題材が中江兆民の「三酔人経綸問答」。
指南役が劇作家の平田オリザさんで、
「平田オリザが三酔人経綸問答の解説するんだ」と興が湧いてぼんやり見ていた。
内容に関して少し考えたことは
また別途書くとして...
三酔人経綸問答
(サンスイジンケイリンモンドウ、と読む)
ふと蘇る若かりし日の寺子屋の記憶。
初めて三酔人経綸問答を読んだのは、
公文式の国語教材。中学生の時だったと思う。
当時、私は公文式に通っていて、
国数英の三科目を学習していたのだが、途中から何故か国語だけになっていた。
一般的に公文式というと、数学・英語がメインになる(イメージな)のだが、私の場合、何故か国語だけ続けて、いわゆる最終教材(その先の研究教材的なのもやったかは忘れた)まで終わらせた記憶がある。何故国語だけ続けたのかは、今となってはわからない。
教材のレベルが上がっていくにつれ、題材となる文章のレベルも上がっていく。古文や漢文の教材が登場し、評論のレベルも上がっていく。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」だとか、
丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』
だとかは、よく記憶に残っている。そんな中、出てきたのが「三酔人経綸問答」だった。
中学生時分の私には(知識の無さも相まって)中江兆民が何を言っているのかチンプンカンプンで、文章を読むだけでも何時間も掛かっていた。
通っていた教室は古い寺子屋みたいな公民館で、椅子はなく、文字通り低い机に齧り付くような姿勢で三酔人経綸問答を読んでいた。
そのレベルになると教材の問題も
『○○○○はどういうことか。200字以内で要約せよ』といった形になる。
これがまた難しい。そもそも、内容を理解していないのに要約もクソも、しかも200字だと?という状態である。
何度も何度も
読み返しては、書き、
読み返しては書き、を繰り返す。
私が通っていた寺子屋教室は先生に恵まれていた。その教室出身で京大やら阪大やらに入った学生がバイトとして入っていて、
わからないところはちゃんと教える体制が整っていた。
(公文式は基本的には自力で進めていく方針で、わからないところを聞きにいく、というスタイル)
その学生先生達はとても良い人たちだった。
熱心に色々教えてくれた記憶がある。
ただ、当時の私は(まぁ、今もだが)
“人に教えてもらう・頼る”ということが極端に苦手で、というか、当時は人と喋ることすら極端に苦手なのもあって
なかなか、先生の前に行くことができなかった。
小学生くらいでそのレベルの教材をやる子も全国に五万といるのだが、その場合、どうしても答えを書き写すような学習になりがち、というのを聞いたことがある。それが無駄だとは言わないが、やはり力として残るかは微妙かもしれない。
あのときの齧り付きがあったからか、今となっては、本を読むことを苦に思わないし、文章を要約したりする力はついたように思う。
なにより、あの時期にそれらの評論を読んでいたことも影響として強く出ているとは思う。
(良し悪しはともかく)
寺子屋スタイルの公文式。
改めて考えると、実に非効率的で、非合理な学習方法だったと思うが、そういった経験の方が後々残っていたりするものだな、と
そんなことをしみじみ思う。
(下野)
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