ハーバード見聞録(56)

「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

 以下の稿は、ロバート・ロス教授の論文『平和の地政学、21世紀の東アジア』の「要旨と若干の所見」に引き続き、「抄訳」を7回に分けて紹介するものである。今週はその第2回目で「第2節 東アジアにおいて台頭する国」の抄訳を掲載する。


第2回――「第2節 東アジアにおいて台頭する国」(2月6日)

第2節 東アジアにおいて台頭する国

冷戦構造崩壊の中から東アジアにおいては(米・中の)二極構造が出現した。地政学的な条件がこの二極構造を揺るがす第三国が出現する可能性は有り得ないことを決定付けており、この構造は極めて安定的である。米中のほかに「極」となりうる可能性がある国はロシアと日本である。しかし、地政学的な制約から、日本・ロシアいずれも「極」にはなり得ない。両国は、当該地域のバランス・オブ・パワーに影響を及ぼす程度には強力であるが、「極」とはなり得ない。むしろ、日・ロ両国は第二級の強大国またはランドルフ・シュウェラーの表現を借りれば「格落ちの強大国」――これらの国々の安全保障は「極」となる超大国との同盟に依存する――に留まるであろう。

・東アジアに於けるロシアの評価――従来通り「超大国の予備軍」に過ぎない

欧州のみならず東アジアにおいてもロシアという大国が存在しているにもかかわらず、西欧ロシアから隔絶した極東ロシアは、生存しにくい地政学(自然条件)にあるという主たる理由で、当該地域は「極」となるには従来からパワーが希薄であった。

ロシア人は多数の者が東方に移住したことはたかった。ロシア極東地域の南東部では農業を営むことが出来るものの、当該地域は西欧ロシアの人口と産業から隔絶しているために、人口を維持し経済を振興するためのインフラ開発が妨げられてきた。

ロシアが、極東と連結する頼りになる鉄道の建設が最終的に成功しなかったのは、ロシア極東の中核地域が寒冷で不毛であるという障害・ハンディがあるからだということを如実に示している。シベリア鉄道権建設が成功しなかったのは、労働力と天然資源の慢性的な不足が原因であり、これら二つの要素は外国の資材に頼ることなく北太平洋に大規模なロシア軍のプレゼンスを維持するのに必要なものである。

このような傾向の唯一の例外は、19世紀後半から20世紀初めにかけて、ロシアがロシア極東部と満州に勢力を拡張したことであった。とは言うものの、このロシアの東方拡張の成功は、ロシアのどの基準から見ても中国が異常に弱体であったことが原因であった。当時ロシアの軍隊は、極東に拡張し過ぎており、もし中国がその事に気付いておれば、中国はセントペテルスブルク(ロシア)の東方進出を簡単に覆せたかもしれなかった。

その後、他の強大国との係争に中国が没頭していたことにより、中国はロシアが同国の領土を占領するのを黙認することを余儀なくされた。しかし、中国の弱さに関わらず、ロシアの国境は中国人の移民に国境は開放されたままだったし、また、ロシア極東の経済は外国の補給に依存したままであった。

19世紀の最後の四半世紀(1875~1900)の間は、ウラジオストックの市民の80パーセントは中国人と韓国人であった。1877年ロシアの太平洋小艦隊は、ウラジオストックの外国商人に完全に依存するのを避けるために、石炭をサンフランシスコで調達し、日本の修理施設を使用した。1885年においても、冬の停泊地として長崎を使用すると共に、未だ輸入石炭に頼っていた。

遅まきながら、1912年、ロシア人はウラジオストックの人口の中でかろうじて多数市民となった。これらの資源及び補給上の困難性が1904から1905年の日露戦争の間の日本に対するロシア全体の物質的優位を相殺するものであった。

セントペテルスブルク(ロシア)は、日本海軍の旅順港に対する海上封鎖に対し、陸路により旅順に封鎖されたロシア陸・海軍に再補給することにより対抗することが出来ず、これが引いては、日本陸軍の中国大陸への上陸とロシア陸軍の撃破を容易にした。これに対し、日本海軍は、ロシアのバルチック艦隊を撃破するため直ちに軽易に使える港湾、補給所及び石炭補給施設を活用した。

ロシアの北東アジアに於ける戦略的な地位は、第一次世界大戦及びこれに引き続く1917年のロシア革命・内戦により急速に損なわれた。早くも1925年には、中国は極東のほとんどの地域で小売貿易をコントロールし、日本は極東地域の銀行業、海運業の支配権を確立し、漁業の90パーセントを支配した。1920年には、日本軍は南樺太に進出し、1925年ソビエトが樺太の天然資源に対する日本のアクセスを自由にできることを認めた後にようやく撤退した(訳者注:シベリア出兵のことを指すものと思われる)。

19世紀及び20世紀前半に於ける東アジアでの主要な国を相手にした戦争で、ロシア・ソビエト軍の唯一の勝利は1939年の日本と戦ったノモンハンだけである。ソビエト陸軍は東アジアで戦う予定では無かったが、満州国境及び内アジアの外蒙古においては、モスクワは後方連絡線及び資材の面で恵まれていた。一方、日本軍は遠隔地に展開しすぎていたものの、東京としてはこれらの障害を克服できるはずであったが、1939年には日米関係の悪化と戦いつつも、南部中国の内陸部で日本軍は中国軍と大規模な戦争を行っており、ノモンハンにまで手が回らなかった。こうして、日本の指導者達は、ノモンハンに第二級の優先順位を与えた。東京(陸軍参謀本部)は承知の上で、ノンモンハンの日本軍に対し、ソビエトと戦うために要求される最低限の兵力と物資を供給することを拒否した。東京は、その代わりに、成功はしなかったものの、ノモンハン地区の日本軍の首脳達に戦闘することよりもソビエト軍に土地を譲ることを勧めた。日本が、ノモンハンよりも更に差し迫った諸懸案に没頭していたため、ソビエトは、孤立し準備不十分な外蒙古の日本軍を撃破するために、日本の警戒心を高めるほどの巨大な軍事力の移動・集中を必要とはしなかった。

実は、1950年代後半になって、モスクワはようやく極東に強力な軍事力のプレゼンスを確立し始めた。1970年代にはバイカル・アムール鉄道事業を再開したが、ソビエト連邦終焉の時まで、この鉄道を全面操業する事は無かった。1980年代になって、モスクワは巨大な軍事力を東アジアに確立しようと目論んだ。モスクワは、太平洋艦隊を展開・運用するためにウラジオストックを活用するとともに、中・ソ国境地域に陸軍の45個師団を展開した。しかし、ウラジオストックは、西方の(欧州の)ソ連から孤立したままであった。 

ソ連極東艦隊は、その補給を脆弱な鉄道システムと海上・空路経由の輸送に頼っており、ソ連全艦隊の中で最も危険に晒された艦隊であった。北東アジアの海洋の地政学は、ソ連の外洋(ブルーウォーター即ち太平洋)へのアクセスを制約し続けている。従って、米海軍第7艦隊は、ソ連海軍が日本海から退去する前に、これを攻撃し撃破することが出来る。ソ連太平洋艦隊は、米国第7艦隊と戦力がパリティーになった事はなく、モスクワは極東に配備する計画のおおむね半分だけの戦力を維持したが、それでも極東への戦力展開の重荷はソ連全体の過度の戦力展開に拍車をかけ、ソビエト帝国の崩壊に寄与した。

現在の極東におけるロシアのプレゼンスは歴史的に見て、標準値に近いものである。ロシアの極東の経済は、ウラル山脈以西の経済に比べ幾分貧しい。モスクワは国境周辺部をパトロールすることが出来ず、19世紀と20世紀のほとんどの期間と同じ状態であり、中国の(不法)移民と貿易にとっては、中・ロ国境は引き続き侵入しやすい状態になっている。中国の強力な商業上のプレゼンスは、極東ロシアを含む極東経済の統合化を促している(極東ロシアは、中国経済に飲み込まれる恐れがある)。

要するに、今日では、中国はもはや「弱い国」ではなく、国内が分割されている訳でもない。北東アジアにおいては、農業と同様に巨大な人口と工業の中核地域を有する結果として、中国はロシアに対して優位を保っている。これらの標準的な地政学・戦略的環境の中では、ロシアは従来通り「超大国の予備軍」に過ぎない。モスクワの現政権がその支配を安定化させ、経済を大幅に改善したとしても、東アジアの「極」になるために相当の資源を投資する事は無いだろう。むしろ、限定された資源は、第一に前ソビエト連邦の原状回復のために、次いで東欧に於ける米国のプレゼンスの拡大に対処するために投資されるであろう。

ソ連の北東アジアに於けるプレゼンスにとって、引き続き、地政学上の問題が大きな障害となり続けることであろう。中国が万一、再び、分裂せざるを得ない羽目になれば、ロシアは戦力を極東に拡張する上で、中国に対し、相対的な優位性を持つことになる。しかし、現実は、中国が分裂する可能性よりもロシアが分裂したままである公算の方が高い。

・日本――島国で第2級の力を有する国

日本も地政学的な制約に直面している。しかし、日本にとっての地政学上の問題は天候・気象や国内インフラではなく、その国土の大きさである。日本にとって、その経済や技術的能力を軍事という能力に変換しようとすれば、その野心を上回るものが必要となる。

日本が、北東アジアに於ける「極」になるためには、同地域をカバーする軍事的な展開を支援する自前の能力を持たねばならない。しかし、自給自足(self-sufficiency)よりは依存(dependency)の方が、日本の歴史から見て理に適っている。 

20世紀の歴史を通じ、東京政府は巨大な競争相手国・アメリカに依存することを辞めるためには、日本の固有の資源では不十分であることを痛いほど知っている。第一次・第二次世界大戦間の日本の領土拡張主義及び地域的覇権を求める推進力の主たる動機付は経済圏を作ることであった。第二次世界大戦開始前までに、日本は韓国、中国の相当部分及びほとんどの東アジアを占領してしまった(究極的にはアメリカによって返還させられる訳だが)。
 
しかし、日本のこのようなアジアに於ける勢力拡大の成功は、東京がユニークで再現不可能な超大国としての地位から利得を得る限りにおいては、ロシアの版図拡大の成功に似ている。日本の力が相対的に強くなったのは、日本がその競争相手国に追いつく為に必要な資源を活用したことによるよりも、その他の勢力(国々)の力が衰えたことによるものだった。

20世紀初めには、日本が領土拡張政策を開始するには好都合な時期だった。国内分裂の憂き目に会っていた中国のみならず、極東の支配勢力たる大英帝国も相対的な国力の衰えを経験しつつあった。東アジアにおけるロシアとフランスの海軍戦力拡張に遭って、英国は大西洋と東アジアの二正面で二つに戦力を維持することはもはや出来ず、ロンドンは1902年に日英同盟を締結した。

これにより日本は、ロシアが満州と朝鮮に進出するのを阻止するための力を得る一方で、中国に於ける英国の権益の防衛にも日本が協力することを確実にした。米国は、まだ軍事的潜在力を動員しなければならなかった(軍の建設途上にあった)。このような情勢で、日本の北東アジアに於ける唯一の障害はロシアであった。英国の支援とアメリカの賛同により東京は1904年から05年の日露戦争においてロシアを破り朝鮮と満州に地歩を確立し、同地に有していたロシアの鉄道、基地及び条約上の権利を要求した。

第一次世界大戦及びロシア革命の間に、日本は中国に於けるドイツの権利と基地を獲得し且つ満州に於ける統制を強化した。日本による1930年及び1940年台初めの中国及びインドシナに対する進出は、中国の不安定さとフランスが欧州に於ける戦争に専念している機に乗じたものだった。

日本の進出は目覚しい結果を達成した。それにもかかわらず、ロシアの極東における経験と同様に、日本が最も勢力拡張に好適な時期においてさえも、日本は地政学を克服することが出来なかった。分裂した中国に対するそれぞれの新たな侵略は、日本の策源基盤を安定させるよりも、戦線を拡大し、海外からの資材輸入への依存度を高める結果となり、これが更なる資源の必要性を満たすために一層の戦線拡大へとつながるのであった。

開戦直前の1939年、東京は軍需物資の91パーセント以上を輸入しており、そのほとんどが米国から入ってきていた。日本は、屑鉄、アルミニウム、ニッケル及び石油製品を危険な程度にまで米国に依存していた。このような日本の海外依存性が、日本の絶え間ない海外進出・拡張につながり、東南アジア占領で頂点に達し、引いては、太平洋正面に於ける第二次世界大戦へと発展していった。

日本の自立(大東亜共栄圏の建設)の企ての失敗は、国際環境が最も好都合であったのみならず、日本の国内システムが特異なことに戦略的拡張に方向付けられていた時期に起きた。拡張の絶頂期において、日本政府は戦略物資と戦略製品に対して、前例の無い程の統制を実施した。それにもかかわらず、日本は、自給自足経済圏(アウタルキー)の拡張・確立と米国との競争を同時には出来なかった。日本の超大国になろうとする企ては、究極的には、自らの崩壊につながった。ロシアの経験同様、日本の海外拡張が、更なる力量を有する米国と競争することを余儀なくし、このため日本は第二次世界大戦において完敗する事になった。

日本は、21世紀においても、完全な条件を整えた超大国になろうとする企図は実現することは出来ないだろう。1930年代においては、中国は超大国にはなれなかったし、米国も未だ超大国になるという方針を決定していなかった。

将来四半世紀を見通した場合、米中両国が1930年代の状態に逆戻りすることはありそうも無い。内政的に見て、日本経済は1930年代に比べ遥かに地方に分散されている。さらに言えば、日本は米国との貿易黒字より、米国市場へのアクセスに依存するようになる。日本の石油を含む輸入エネルギー資源への依存も同様な脆弱性を作り出している。これらの輸入エネルギー資源は米国の同盟国からのものであり、しかも米国がコントロールしているシーレーンを通り日本に輸送されている。

日本は、航空戦力の分野においても、「極」となるうえで地政学上の障害に直面している。航空機が開発される以前には、イギリス海峡は敵の攻撃から英国の資産と工業基盤を防護する濠として役立った。しかし、ドイツの爆撃機やミサイルの出現により、イギリス海峡は英国の戦略的資産を守るためのバッファーゾーンの役割を果たすにはもはや十分な幅を持っていないことが明らかになった。日本も同様に戦略的なバッファーゾーンの欠如に直面している。日本の経済及びインフラは第二次世界大戦の際、空母及びサイパン、グアム、テニアンそして最終的には沖縄からのB-29大型戦略爆撃機による海洋からの攻撃に対し脆弱であったのと同様に、1980年代には極東のソ連の地上配備の航空機に対しても脆弱であった。そして、更には、将来中国の航空機にも脆弱であろう。「日本の国の大きさ(サイズ)と東アジア大陸にある諸勢力・国家と距離の上で接近していることが、日本が超大国家になる可能性を低下させている」――という1900年に提示されたアルフレッド・マハンの観察は、特に21世紀の今日においても当てはまる。

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