ハーバード見聞録(23)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


ポーツマス(6月20日の稿)

8月13日(土)、外務省ボストン総領事館の高島副領事ご夫妻にポーツマスを案内していただいた。階下の筑波大学教授鹿島先生も一緒だった。

ケンブリッジ市から95号線を1時間程車で北上し、高速道路から出たらすぐにポーツマスだった。案内所に立ち寄り車から降りたら、湿気をたっぷりと含んだ生ぬるい潮風が肌にまとわりつく感じだった。五島列島・宇久島育ちの私には、その潮風さえも懐かしく、海を見ると心が浮き浮きしてきた。

ポーツマスは夏の草花が咲きそろい、赤レンガや板壁を白く塗った建物が程よく混在した典型的なニューイングランド風の美しい町だった。人口約2万人だそうだ。生業は、観光業と海軍工廠に加え最近では近郊にハイテク産業が進出しているそうだ。

町は日露戦争終結の為の講和条約締結(1905年9月5日)から100年を迎えるというので、記念パレードのコースとなる目抜き通りには赤、青、白の三色に染め抜いた幕(日本だったらさしずめ紅白の幕)が沿道のあちこちの建物の壁に張られていた。

夏休みでもあり、町は大勢の観光客で溢れ、活気を呈していた。100年前の日露戦争終結交渉の時も世界中から新聞記者などが大勢押し寄せ、町のホテルには収容しきれないほどだったらしい。

高島氏が60歳過ぎのConnieおばさんにツアーガイドを頼んで、1時間半ほど日露戦争終結交渉に因む観光スポットを案内・説明してもらった。

Connieおばさんは、ピアセズ島の公園からピスタカーク川を挟んで1マイル足らずの向側に見えるシーベイ島にある米海軍工廠を望む位置に陣取り、日露戦争の経緯について簡単に触れた後、一つ一つの史跡などについて説明してくれた。

セオドア・ルーズベルト大統領は日露戦争が第一次世界大戦に発展するかもしれないとの懸念から日露の仲介に乗り出しました。

条約交渉の会場としては、一時、首都ワシントンが予定されましたが、ワシントンの酷暑を避け海辺の涼しいポーツマスを選んだといわれております。

ルーズベルト大統領は以前海軍長官を歴任しており、海軍のことを良く知っていて、海軍工廠の中ならば警備上も問題ないと考えたわけです。

あの向こうに見えるシーベイ島にある一群の建物が米海軍工廠で、講和条約はあの建物のうちの一つ第86号ビルの中で締結され、今は記念の博物館があります。

そのすぐ右の山の上のホテルのような建物は陸・海・空軍と海兵隊の監獄でしたが、『9.11』以降他の場所に移されて、今は空き家です。また、海軍基地・条約記念館への出入りも出来なくなりました。

そうだったのか。「9.11」以降米軍の監獄はどこか他の場所に移転してしまったのか。なぜだろう。万一囚人が暴動でも起こし、海軍工廠内の武器を奪い、停泊している原子力潜水艦に侵入してこれを動かしたら一大事になるからか。そう思って目を凝らして眺めると海軍工廠にある潜水艦専用のバースには原子力潜水艦らしいのが停泊しているではないか。

先日、当地のテレビを見ていたら、アメリカの国土安全保障省は、「9.11」のような「空からのテロ」の外に「海からのテロ」を想定しているという。例えば、石油満載のタンカーをアメリカの主要貿易港で爆発炎上させる、あるいは、コンテナ船のコンテナの中に核兵器を仕掛ける。などの例を挙げていた。

こんなことを考えると、囚人と原子力潜水艦を目と鼻の先に置いておくのは「ヤバイ」と考えるのは当然だろう。

Connieおばさんによれば、こんなに由緒ある海軍工廠でさえも閉鎖の候補に挙がっているという。ソ連崩壊後、ロシアの北洋艦隊も大幅に戦力が低下したことが理由なのか。ちなみに、公表資料(インターネット)によればロシア北洋艦隊は、各級潜水艦43隻、原子力ミサイル巡洋艦3隻、ミサイル巡洋艦1隻、戦列駆逐艦5隻、大型対潜艦5隻などで編成されているという。

一方台頭する中国海軍の近代化が顕著になりつつある。8月14日のニュースで、「中国がロシアから最新鋭の潜水艦を導入」という情報があった。

米海軍のトランスフォーメーション(再編成・改革)としては、「対ソ連から対中国」にシフトするため海軍戦力を「大西洋から太平洋」に転用する必要があるのだろう。そうなれば、大西洋に臨む海軍基地の一部は縮小・閉鎖せねばならない。人口約2万人のポーツマスにとって海軍工廠に働くシビリアン約2200人と軍人約1000人の雇用が無くなることは、死活的な問題だそうだ。

冷戦構造の崩壊、中国の台頭及び対テロ戦争の影響がこの日露戦争の歴史を刻む観光の町にも大きく作用しようとは夢にも思わなかった。
Connieおばさんは説明を続けた。

ロシア代表のウイッテはオランダ系の堂々たる巨漢で、広報(public relations)の修士号を持っていました。一方日本代表の小村は、150センチに満たない小柄な人だったそうです。

Connieおばさんから頂いた「Portsmouth Peace Treaty Trail」と題するパンフレットに小村、ウイッテとルーズベルトの写真が載っていたが、成る程体躯の差は歴然としている。

また史書によれば、ウイッテは得意の広報のテクニックを駆使し交渉内容を平気でリークし情報戦を展開したという。一方小村は、好対照に「新聞操作はやりたくない」と部下に漏らしていたという。

司馬遼太郎氏は好著「アメリカ素描」の中で「小村の不思議さは、小ささを感じさせないことだった。沈毅な性格で、周到な思考力を持ち、ロシア側も他のも者もまずその精神を感じたといわれる」と小村のことを書いている。

私も陸上自衛隊退官直前の今春、小村の故郷宮崎県飫肥を妻と二人で訊ねた。宮崎市に住んでいる防大同期の二宮成一君が案内してくれた。梅が香っていたから、2月ごろだったろうか。武家屋敷が今も大切に保存され、歴史を感じさせる小さな町だった。

あのような謂わば辺境の片田舎から、日本の運命を託すに足る傑物が出たのかと思った。また小村は、ハーバード大学の法学部で学んだそうだが、そこは奇しくも私の寓居ボーゲル邸から程近く、私のような愚凡の者でさえも、時を越えて、恐れながらも何か奇縁を感じる次第である。

司馬遼太郎氏は、当時の日本とアメリカ(少なくともニューイングランド)の精神的類似性を次のように指摘している。

明治も後期に入ったとはいえ、この時期まで、まだ江戸期で養われた潮流が流れて来ていたといえる。小泉八雲が見た日本人らしさといっていい。あるいは、中江兆民や陸羯南(くがかつなん)、正岡子規、夏目漱石、もしくは内村鑑三で代表される明治の心といっていい。

そういう気分を、徳目として換算すれば、質実さと節度、ものを冷静に見る認識力、公的なものへの謙虚さ、更には自助の心といった言葉を挙げることができる。

それらの明治的な徳目は、プロテスタンティズムに偶然ながら似ている。少なくともアメリカのニューイングランドに根づいて、19世紀のアメリカを展開する元になった新教の気分と、他人の空似ながらも似ていたように思えるのである」

この司馬氏が指摘する日米の精神的類似性について、私なりに考えてみた。

北海道大学に招聘されたクラーク博士(ニューイングランドの名門アマースト大学教授)の「少年よ大志を抱け」という遺訓が当時の日本のインテリ青年達の琴線に触れたという事実は、クラーク博士のスピリットを受け入れる十分な精神的土壌を当時の青年達が持っていたことを示しているのではないだろうか。

また、ジョン・万次郎の例もあると思う。土佐沖に漁に出て漂流し、アメリカの捕鯨船に救われた万次郎は、その船長ホイットフィールドから我が子のように可愛がられたという。

万次郎はアメリカのフェアーへブンの学校で、アメリカの進んだ識能(英語、数学、測量、造船技術など)を身につけ、その後明治維新においては日米の架け橋として活躍した。万次郎はインテリ青年ではなかったが、当時ニューイングランドの人々持っていた精神的な素地を、違和感無く受け入れる共通的の要素を持っていたのではなかろうか。

更に、当時(1900年)新渡戸稲造(1862~1933)が英文で「武士道」を著したがルーズベルトは刊行早々これを読み60部程買って友人に送ったといわれているが、これも司馬氏の説を裏付けるものと思われる。

小村は飫肥で育まれ、まぎれもなく「武士道」を体現していたことだろう。

司馬氏が指摘するように、当時の日米の精神的類似性が正しいとすれば、ウイッテが百万言費やして情報戦を仕掛けても、ルーズベルトの心は小村に与していたのではあるまいか。

日本のルーズベルトへの工作の糸は、かつて伊藤博文の秘書官だった金子堅太郎がハーバード大学留学時代ルーズベルトの同窓であるという一事だったと言われているが、この一本の糸を限りなく補強したのは、新渡戸稲造の著作「武士道」とニューイングランドに根づくプロテスタンティズムという「見えざる二本の糸」だったのではないだろうか。

100年前、ルーズベルトの仲介で、ロシアに「勝った」日本は、その30年後日露戦争仲介の労を取ってくれたアメリカとの決戦に向かって突き進むことになる。そして敗戦。再び「日米同盟」と、まるで「糾える縄」のごとき変転振りを、景勝の地ポーツマスで感慨深く懐古して見たのだった。


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