ハーバード見聞録(11)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


「お父さんは、鉄腕アトムの『お茶の水博士』になったみたい!」と東京に残してきた娘が私の写真を見て言ったと、妻が笑いながら教えてくれた。その写真とは、私がハーバード大学構内のハーバード牧師像の前で撮ったものだ。私は、その写真をアメリカに来る直前の妻にメールで送った。「帽子からはみ出した頭髪が、『お茶の水博士』そっくりだった」とケンブリッジに到着した妻が補足して解説した。

私は、退官するまでは、髪型は殆ど「坊主頭」を通した。今春、自衛隊を退官してからは、日本滞在中に1回だけ床屋に行った。再就職が決まって、会社に挨拶に行く前の日だった。その時は、民間人に「還俗」して、どのような髪型にするのか未だ決心していなかったので、「生え際」を整えるだけにした。

従って、それ以来、米国で写真を撮るまでの3ヶ月間、髪は伸び放題だったのだ。私の頭は、てっぺんが禿げているので、周りの髪だけが伸びて、帽子から「お茶の水博士」のように髪が溢れていたそうだ。

先輩自衛官たちが退官し、民間に「還俗」した際、最も明瞭な変化は髪を長めに伸ばすことである。私も「還俗」し、まず迷ったのは、髪形だったが、考えるのも面倒なので、3ヶ月近くも放置していたと言うのが真相だ。

6月末に家内がケンブリッジに到着後、二人で外出した際、床屋の前を通りかかった時、突然頭がむず痒い様な錯覚に襲われ、矢も立てもたまらず、床屋に飛び込んだ。

小さな床屋で席が四つあり、女性の理髪師が3名働いていた。この3人で、男の客も女の客も捌いている。すでに満席で、私の前にはインド人と思われる若者の男性一人が、椅子に座って待っていた。理髪席の周りには、ブラック、グレイ、ブロンド、ホワイトなど日本とは違う色の刈り取られた頭髪が散乱していた。これを見ただけで、アメリカの床屋に来たことを実感した。日本の床屋ならば、散髪が終わるたびに、床に落ちた頭髪を箒で掃いてお客の目から見えないようにする。

インドの若者の順番が過ぎて、いよいよ私の番が来た。私の担当は、60代半ばを過ぎたようなお婆ちゃんで、昔テレビでよく見た「肝っ玉母さん」の京塚昌子そっくりの肥って元気の良いヒスパニックの女性だった。

席に着くや否や、私の頭の上から「ショート?」と〝肝っ玉婆ちゃん〟の声。私も思わず「ショート」と、鸚鵡返しに答えてしまった。「定年後は長髪にしようか。でも、禿げた頭頂はどうすべきか?などと、あんなに色々と迷ったのに。つい〝肝っ玉婆ちゃん〟の声に反射して『ショート』と口走ってしまった。後から、悔いる気もないではなかったが、何となく踏ん切りがついたような気がした。

それにしても、〝肝っ玉婆ちゃん〟は、私が席に座った瞬間に私の禿頭に最適の髪型を判断し、私にまるで命令でも下すかのように、威厳を以って「ショート?」とのたまわったのだ。

私が未だ若い2等陸尉の頃、陸上自衛隊調査学校の初級英語課程の学生時代、確か「髪形」についての英会話を練習させられた。英語のテキストには、髪形についてのイラストが細かく書かれていた。たとえば、日本ではあまりお馴染みではない「Sideburns(モミアゲ)」の長さを指示するやり方まで教えてくれたものだ。その時は、エルビス・プレスビーの長いモミアゲがイメージにあり、「アメリカ人はプレスリーや日本の浮世絵に出てくる長いモミアゲが好きなんだな」と思った。

私は、この髪形についての英会話の記憶があるものだから、インド人の青年と一緒に順番を待つ間、髪型についての面倒なやり取りを想定し構えていたのだが。なんと、「ショート?」……「ショート!」という一瞬の「掛け合い」だけですべてが決着したのだった。

彼女は、電動バリカンに長目の「下駄の歯」状のアタッチをつけ、猛スピードで私の髪を刈り落とした。それもそのはず、私の場合は、他の人の頭の面積の50パーセント程しか髪が無いのだから。

次は短めの「下駄の歯」を電動バリカンに付け替えて「生え際」を整えてくれた。剃刀は一切使わない。アメリカ人が不器用なせいなのか。あるいは、剃刀で傷を付けるとエイズやC型肝炎ウィルスなどに感染する恐れがあるから禁止されているのか。いずれにせよ、私の場合は10分間くらいで終わってしまった。

式亭三馬の滑稽本「浮世床」のように会話を楽しむ余裕など、殆ど無かった。最も、もし会話があったとしても、私の会話能力では、〝肝っ玉婆ちゃん〟と十分に味のある会話は出来なかっただろう。

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