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金子勇とWinnyの夢を見た 第15話 未踏

※この記事は、Advent Calendar 2023 『金子勇とWinnyの夢を見た』の十六日目の記事です。

岸田孝一

 岸田孝一は、1967年にソフトウエア・リサーチ・アソシエイツを仲間7人と設立した。いち早くオープンシステムを提唱し、「ソフトウエアの教祖」「日本におけるUNIX史のエスタブリッシュメント的存在」と呼ばれた。また、名前のイニシャルから「K2さん」とも呼ばれた。

 ソフトウエア開発がビジネスとして認知されていなかった当時、「構造論的プログラミング」を提唱し、ソフトウエア・エンジニアとしてのプロフェッショナリズムの確立を目指した。

ソフトウエアスペシャリストとしてのわれわれの問題意識は、特定のシステムを完成させるだけでは決して満足することができず、その論理構造や設計、具体化のアプローチが、与えられた特定の処理内容から離れて、他のどのようなシステムに応用できるかを考える方向に進んでいく。それこそが、ソフトウエアの世界におけるエンジニアリングという言葉の真の意味であり、ソフトウエアハウスに課せられた社会的使命でもある

『日本のソフトウエア産業史と人たち』より(※1)

 つまり、コンピュータによるデータ処理の結果のみに関心を向けるコンピュータユーザーや、コンピュータを売るためのソフトウエアに関心を持つコンピュータメーカーとも異なる、ソフトウエア企業独自の思想を持つソフトウエア産業としての意味を求めた。

 1981年、SMEF(Software Maintenance Engineering Facility)プロジェクトのテクニカル・ディレクタとして、このプロジェクトを指揮した。汎用機のアプリケーションソフトウエアのメンテナンス支援環境をUNIX上に構築するというプロジェクトであり、様々な会社から出向したソフトウエア技術者をまとめて、これを成功させた。

 メンテナンス支援とは、単に予算を獲得するための方便であり、真の目的は、UNIXプログラミング環境のOJTを通して、日本のソフトウエア業界に先進的なソフトウエア開発環境の概念を根付かせることにあった。

 このプロジェクトの成功よって、UNIXベースの分散環境での分散開発を試行する∑(シグマ)プロジェクトが計画された。

∑(シグマ)プロジェクト

 1985年度の通産省の予算計画で、ソフトウエアを工業的につくることを目指す「シグマ計画」が始動することになった。

 別名「ソフトウエア生産工業化システム」と呼ばれ、
(1)ソフト生産の自動化
(2)欠陥のないモジュールやツールの提供
(3)ソフトの開発状況、公開状況がわかり、重複開発を防止
など、ソフトウエアの効率的開発、技術者教育の効率化を目指す。

 プロジェクトは、コンピューターメーカーが仕切るようになると、自分たちの時代遅れのコンピューターを売り込むようになり、通産省もそれを黙認していた。岸田氏の意図した分散環境の分散開発の計画は退けられ、代わりに、東京に大規模な情報センターが建設され、旧来のメインフレーム・コンピュータを4台設置された。

 岸田氏は、プロジェクトを降りた。そして、日本のインターネットの起源であるJUNetの実験に協力し、IIJの設立を助けた。

 プロジェクトでは、通産省の役人は「来るべき、ソフトウェア技術者不足に確実に対応するための、計画だ」と話し、その後の会議では導入するコンピューターの話に始終し、「∑(シグマ)ワークステーション」の規格を作成した。メーカーは勇んで∑(シグマ)の名前を付けて製品を販売したが、既に海外の同類の製品に性能面で大きく遅れを取ったものだった。

 この失敗は明らかなものだったが、1990年12月21日号の日経コンピュータに組まれた特集「Σ計画の総決算--250億円と5年をかけた国家プロジェクトの失敗」に載るまで、誰も口にしなかった。

竹内郁雄

 竹内郁雄は、1946年生まれの日本の工学者です。日本におけるLispの草分け的な存在であり現役のハッカーで、多くのLisp処理系を実装した。

 竹内は、情報処理推進機構 (IPA) の「未踏ソフトウェア事業」、特に30歳未満のプログラマを対象とした「未踏ユース」のプロジェクトマネジャーを務めており、過去に『SoftEther』の登大遊などを発掘した。さらに、2010年度の日本OSS貢献者賞・日本OSS奨励賞の審査委員長も務めた。現在はIPA未踏事業統括プロジェクトマネージャ、一般社団法人未踏代表理事などを務めている。

 後進の教育に非常に注力し、「プログラミングの心」を育てることを大切にする。未踏事業のほか、IPAの「セキュリティ・キャンプ」や、産学連携の学生向けハックイベント「JPHACKS」で組織委員会副委員長としても活躍している。


未踏ソフトウエア創造事業

 米国は1980年頃からコンピュータサイエンスの重要性を提唱した。多くの米大学が電気工学科などを縮小し、コンピュータサイエンスの学部を立ち上げていた。

 日本では、ソフトウエア開発の効率化と開発者のネットワーク作りを目指した∑プロジェクトは、結局メーカー主導によるハードの選定止まりになったことが公表され問題になっていた。1999年度の貿易統計によれば、PC関連のソフトウエアの輸入額は輸出額を80倍も上回っている。IPA技術センター所長の前川徹は、「ソフトウエアは人なり」「日本にもスーパーハッカーを生み出せるような仕掛けをつくるべきだ」と経済産業省に進言した。

 2000年、小渕総理は「ミレニアム・プロジェクト」を発足させた。通商産業省の管轄する「未踏ソフトウエア推進事業」には25億円の予算がつくことになった。

 1999年、与謝野馨通産省大臣のもとで、「スーパーハッカー計画」を立案していた。この新事業は、「型破り」な内容だった。しかし、国の予算が個人の支援にまわることの抵抗は並大抵ではなかった。また、この事業を情報処理推進機構(IPA)に丸投げし、民間から選ばれたプロジェクトマネージャー(PM)という個人の裁量に委ねることにも大きな抵抗があった。その軋轢を乗り越えて、「未踏ソフトウェア創造事業」は開始された。実際に配布された予算は10億/年だった。

 この事業は、ITを駆使してイノベーションを創出することのできる独創的なアイディアと技術を有するとともに、これらを活用する優れた能力を持つ、突出した人材を発掘・育成することを目的としていた。

 未踏の事業スキームは、以下の5項目である。

  1. 企業ではなく、ソフトウエアを開発する個人または少人数のグループ(現在はクリエータと呼ぶ)を支援する。

  2. 成果の権利は国ではなく、クリエータに帰属する

  3. 提案の採択、予算の査定、助言、評価は個々のPMが個人の裁量で行う

  4. 提案が採択されたクリエータには、開発に全力を尽くしてもらうため、事務、経理、報告書作成などを支援する組織がつく

  5. 委託契約の方式-予算の大半が概算で前払いされる。原則として債務は負わない

 開始当初は知名度が低く、公募形式だったので実際に応募してきてほしい人々へなかなか伝わらなかった。大学の主要な外部資金であった科研費との違いも理解されにくかった。そして、成果は論文ではなくソフトウエアでなければならなかった。

 また、開発したソフトの権利が作成者に帰属するというのは、日本で1~2番目の例だった。

 金子勇は、2000年「双方向型ネットワーク対応仮想空間共同構築システム」、2001年「双方向通信型3Dワールドシミュレーター」に参加し、物理シミュレーションと3D空間の可視化のプログラミングをしている。和田健之介がリーダーとなり、「サスライの変人プログラマ」たちによる比較的大きなプロジェクトだった。

 このプロジェクトの成果の凄さは、簡易な割にリアリティの高い物理シミュレーション。オブジェクトに付加できるスクリプト。自律エージェントの仮想センサ・知能エンジン・進化エンジン。さらにはネットワーク経由で複雑な仮想世界を共有するための通信制御が融合していた。

 PMは、竹内郁雄が担当した。

 また、「金子勇氏を支援する会」を設立し、1ヶ月で1,600万円を超える支援金を集めるなどの支援活動の中心となった新井俊一は未踏のスーパークリエータだ。2001年に「WWW によるコミュニケーションを支援する情報集約システム」、2002年未踏本体で「演奏情報処理を応用した教育と芸術のためのソフトウェア」に取り組んだ。どこかで金子勇と面識があったのかもしれない。

未踏ユース

 IPAの羽鳥健太郎が「未踏開発者育成小規模支援事業」を提案した。スーパーハッカーの育成に焦点を当てたもので、2002年から未踏のサブ事業として始まった。

 ポイントは以下の2つ。

  1. 未踏ソフトウエア創造事業に採用されるレベルまで開発能力を高める

  2. 開発を通じて予算などをどう管理するのかを体験させ、実践的なコスト意識を身に付けさせる

 つまり、未踏ユースは「未踏本体の登竜門」だった。(それまでの未踏事業は「未踏本体」と呼ばれるようになった)

 当初の年齢制限は30歳未満、各プロジェクトの予算は大卒の初任給以下という基準で300万円となった。2003年度は28歳未満に、2006年度には25歳未満に引き下げ、若い人が応募しやすくなった。

 未踏ユースは、竹内郁雄氏一人が2年間PMを務めた。PMが一人だったこともあり、この実験的な試みは大きく変化していく。2004年には、早稲田大学の筧捷彦かけひかつひこが加わり、二人体制になった。

 一方の未踏本体は、2004年度から2期制となった。未踏ユースの方も増強のため、2006年度から2期制になることになった。これによって、不採択になった案件も、手直しして再挑戦できるようになった。

 未踏ユースでは、全員参加のブースト会議を開く。この会議にはOBも参加する。横のつながりと縦のつながりを作ることが目的だ。

踏IT人材発掘・育成事業

 当初は、ソフトに重点を置いたが、未踏ユースの成功もあり、2008年には、若い人材の発掘・育成に重点を置くように事業が再編され、名称も「未踏IT人材発掘・育成事業」に変わった。

 さらに、ITを活用した革新的なアイディア等を有し、ビジネスや社会課題の解決につながる人材を育成する「未踏アドバンスト事業」、次世代ITを活用して世の中を抜本的に変えていける先進分野の人材を育成する「未踏ターゲット事業」も始まった。

 未踏は、将来性の高い若者の発掘と支援に充填を移してきた。その中で、竹内郁雄は、人材を育てる人材として、その大きな役割を果たしている。

 IPAは、更に若い学生を対象とするセキュルティ・キャンプなども連携し、一貫したIT人材の発掘・育成、さらには熟成にもっていく事業として形成する。IPAにとって、未踏は看板になっている。


参考

※『ソフトウエアな人たち ICT産業の未来』

※『Σ(シグマ)計画』, 水天工房 升孝一郎,

※『未踏11年の歴史』, 竹内郁雄, コンピュータ ソフトウェア 28 巻 (2011) 4 号, 2011-10-25, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssst/28/4/28_4_4_3/_pdf

※『未踏ソフトウェア創造事業̶組織力から個人の才能へ-』, 竹内郁雄, IPSJ Vol.43 No.12 (2002) pp.1353-1361, 2002-12-15, http://altmetrics.ceek.jp/article/id.nii.ac.jp/1001/00064690/


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