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【エッセイ】 「そぉっと置く」ことのできない可哀想な人たち 〜やっぱり今でもカルチャーショック〜 たかだかスーパーマーケットなのにカルチャーショック

 ハリウッド映画の中で、スーパーマーケットでの買い物シーンを観かけることがある。しかし、観る度に決まって、私に大きな違和感と不快感を与えてくれる。それらのシーンは、まさしく私の日常でもあり、実際、近所のスーパーマーケットで毎回見かける買い物客たちの行為と同じなのだが、私はどうにもこうにも好きになれない。買い物客が陳列棚から商品をひったくり、大きなショッピングカートへ「ボン」「バン」と、音を立てて叩き入れる行為だ。
 どういうわけだか、欧米諸国のスーパーマーケット内で、実際に人々の買い物シーンを観察していると、この手のタイプが非常に多いことが分かる。多いというより、私たち夫婦以外の全ての人がこのタイプだと断言できるのではないかと思うほどだ。
 何故、そんなに鬼の仇のように商品を投げ入れるのだろうか?
 買おうとしている商品がそんなにも憎たらしいのか?
 そんなにその商品が嫌いなら、買わなけりゃいいじゃないか。
私はいつもそう思いながら眺めている。
 商品棚から引ったくる時点から既に乱暴でガサツでぞんざいな手癖だ。
 仮にも、自分で持ち帰るものでしょう?
 自分が食べるものでしょう?
 何故、そんな扱いをするの?
 それとも、そんなに不機嫌なのか?イヤなことでもあったのか?
相談に乗ってあげたい衝動まで湧き上がって来る。
 
 食べ物を大切にする日本の文化では、「食べ物を無駄にしない」「食べ物を粗末にしない」「食べ物で遊ばない」「食べ物の上を跨がない」「食べ物を床に置かない」などなど、食べ物に対するタブーがたくさんある。
 それは、私たちが口にする食べ物はたくさんの命の犠牲によって出来たもので、有り難く尊いものだと、昔から日本人は感謝して来たからだ。私たちの食べ物になった全ての命に感謝するからこそ、その心を表現するために大切に扱うのだ。
 食べ物が無くては私たちは生きてはいけない。だから、感謝する。そして、大切にする。日本人には当たり前のことだが、そんな常識、欧米諸国ではまるで通じない。欧米諸国の人々の食べ物の扱い方はまるで日本人の扱い方とは違い、私は未だに、驚かされ、不愉快な気分にさせられる。一向に慣れない。
 
 最近では、加工して箱にいれられていたり、パッケージされていたりして、一見では食物や動物の命に見えないものも多い。食べ物に見えなくても、商品自体、どんなものであっても乱暴に取り扱うのは、人間としての品位を欠くようにさえ私には思える。性格上も乱暴でガサツでデリカシーのない人のように思えてしまう。そもそも、物を乱暴に扱う行為を見て、私は快く感じない。
 ところが、きっと欧米諸国の人にとっては、違った感覚なのだろう。わざわざカートに投げ入れて大きな音を立てるのは、「カートに入れたぞ」という確たる認知が必要な為なのだろう。大きな音がコンファメーションになっているに違いない。通りすがりに自分がふと落とした商品が床に落ちた音すら気がつかずに、拾わずに去っていく人々は、音にとても鈍感なのだろう。だから、わざわざカートへ向かって商品を放り投げ、大きな音を立てなくては、「カートに入れた」という頭の中の認識ボタンがオンにならないのだろう。そう思うことにする。私には頂けない行為だが、しょうがない。世の中にはいろいろな人がいる。私の常識や私の正義は私のものでしかない。大半が大きな音を立ててカートへ投げ入れているのだから、それが出来ない私の方が、もしかしたら非常識なのかもしれない。
 夫も昔はこの手のタイプだった。こちらのスーパーマーケットで見かける人たちほどひどくはなかったが、日本人のレベルにはほど遠かった。だから、スーパーマーケットへ行く度に私はいちいち夫に文句を垂れた。
「優しく入れて」
「投げない、そぉっと置くの」
 
 ある時、私は、欧米人は「そぉっと置く」という行為ができないのだと気がついた。
 日本には「所作」という言葉がある。自らがする一挙手一投足に集中し、気を配り、心を込めて行う所作のなんと美しいことか。欧米諸国で「マインドフル」という言葉が流行り出すずっと昔から、日本仏教の禅が私たちにその基本を教えてくれていた。お茶碗を置くというただそれだけの行為を、全身集中して全力で行う。音を立てずに、優しく、しなやかに。
 あぁ、日本文化はなんて美しいのだろうか。
 そんな美しい文化の中で育った私はなんて幸運なのだろう。そうでなかったら、きっと私もあぁなっていたことだろう。何だか、あぁなっていた自信まで湧いて来る。すると、近所のスーパーマーケットでの買い物客の買い物シーンを見ながら、自然に感謝の念が湧き起こる。きっと、乱暴でガサツな人たちも、日本の文化に触れていたら、世の中には「そぉっと置く」という行為が存在することを知ることができただろうが、知る機会が無かったために、あぁなってしまったのだろう。そんなことを考えていたら、乱暴でガサツでぞんざいな人々が可哀想に思えてきて、怒りが消えて行った。そうだ、これからは「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちだと思うことにしよう。
 「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちはもちろん買い物客だけではない。スーパーマーケットの店員だって、「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちだ。寧ろ、スーパーマーケットの店員は「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちの模範ともなるようなレベルの乱暴ガサツ振りだ。きっと「そぉっと置く」ことができない可哀想な買い物客たちの憧れの存在に違いない。食品の陳列だって、生半可な乱暴振りではない。「投げる」「放る」「叩きつける」は当たり前だ。傷つけようが、ダメージを与えようが、お構いなしだ。彼らの仕事ぶりを見るにつけ、売られている商品がなぜいつも傷ついていたり、凹んでいたりするのかが理解できるようになる。レジでのスキャンだって、生半可な乱暴振りではない。「プロフェッショナルだもの。買い物客の乱暴さなんかには負けないわ」ってなもんだ。
 
 そんな日常のお陰で、私は日本へ帰国する度に、日本のスーパーマーケットでカウンターカルチャーショックを受け続けている。しかも、そのカウンターカルチャーショックは私の心をいつも優しく温かくしてくれる。陳列棚に並べている店員さんたち、レジ係の店員さんたちの優しく丁寧な商品の取り扱い方に、感動するあまり、足を止め、見入ってしまうこともしばしばある。一緒に買い物をする両親と夫に、呆れられるほど、佇んで見入ってしまうのだ。こんな些細なことで、私は大きなカウンターカルチャーショックを受けて、感動できるのだから、欧米諸国の「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちに感謝しなくてはいけない。
 お礼のついでと言ってはなんだが、欧米諸国のスーパーマーケットの定員たちに、日本のスーパーマーケットの店員さんたちの爪の垢を持って行って、煎じて飲ませてあげようかしら。そうしたら、「そぉっと置く」ことができない可哀想な人たちが、「そぉっと置く」ことに目覚めるかもしれない。なんなら、日本のスーパーマーケットの店員さんたちの爪の垢を瓶詰めにして欧米諸国で売ろうかしら。そうすれば、欧米諸国のスーパーマーケットで、少なくとも私は乱暴ガサツな人たちを見ないで済むようになる。
 いや、その前にきっと面白いだろうから、日本のスーパーマーケットの定員さんたちに、是非とも欧米諸国のスーパーマーケットの様子を見せて差し上げたい。「ボン」「バン」とカートへ投げ入れる買い物客だけでなく、乱暴ガサツな店員たちの商品陳列の仕事ぶりやキャッシャーのレジ係の仕事ぶりを是非見て頂きたい。並べるのではなく「放る」、置くのではなく「叩きつける」テクニックだ。商品が入っている段ボールは「足で寄せる」、邪魔な場合は「蹴っ飛ばす」のが基本中の基本だ。扱う商品が野菜でも果物でも、乱暴ガサツぞんざいな姿勢は崩してはならない。これが徹底されたルールなのだ。
 あぁ、たかだかスーパーマーケットでの買い出しが、なぜ、これほどまでにカルチャーショックなのだろう。
 日本のスーパーマーケットは実に素晴らしい。
 私のカウンターカルチャーショックの感動は帰国の度に増してゆく。

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