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【エッセイ】 掃除とはこういうものだ、日本人は狂ってる 〜やっぱり今でもカルチャーショック〜

 無闇やたらに捨てられたゴミや周辺から舞ってきた枯葉が、家の敷地または家の前に溜まっていたとする。
 日本でならきっと、家の人が出て来て箒を使ってゴミや枯葉を一箇所に集め出し、ちりとりできれいに回収する。そして、集めたものをゴミ袋に入れる、といった光景を目撃することだろう。しかも、ゴミはゴミ、枯葉は枯葉、空き缶は空き缶ときちんと分別し、自分のゴミでもないのに、それぞれの回収の日まで自分の敷地内で保管することだろう。
 
 ところが、だ。
 欧米社会ではそんな人間は希少価値だ。めったにお目にかかることはない。そもそも、家の前のゴミや枯葉の掃き掃除などは「しない」というのが一般的だ。万が一、家の前の掃き掃除なんぞしたところで、所詮、ただ掃き出したものを自分の家の敷地外へと掃き捨てるだけだ。自分の家の前さえ綺麗になれば、それで良い。
 時には、庭で草や落ち葉を吹き飛ばす電動ブローワーを使い、何でもかんでも吹き飛ばしている人を見かけることもある。しかし、自分の美しい庭にあってはならないと考えるものを自分の庭から道へ、ただ吹き飛ばしているだけだ。吹き飛ばした後で回収する、なんという気は微塵もない。自分の庭さえ綺麗になれば、それで良い。掃除とはそういうものだ。
 
 思いがけず、ある朝、どこぞのおばちゃんがこちらでは珍しく箒を持って家から出て来たところを偶然目撃したので、観察することにした。
 おばちゃんの家の玄関先は背丈の同じ雑草が何ともうまい具合に生い茂って一面を覆い尽くしている為、遠目では、芝生かまたは緑を敷きつめたカーペットのようで美しかった。
 しかし、雑草カーペットの毛足は芝生よりも長く、いくつもの枝が絡み合い、たくさんのゴミや落ち葉を抱き抱えていたようだった。
 おばちゃんは雑草カーペットの地際に埋もれているゴミたちを、細い柄の箒で力づくに掻き出していた。こんなに埋もれていたのかと驚くほどのゴミが、あれよあれよという間に出現した。おばちゃんの掃くスキルが優れていたのか、おばちゃんがまるで手品師のように見えてきた。おばちゃんはゴミを掻き集めながら、雑草たちの余計な枝も一緒にむしり採っていたらしく、雑草カーペットもすきバサミですかれたように、いくらかスッキリして見えて来た。
 途切れのない箒さばきに見入っているうちに、掃除の終わりが見えて来た。その頃には、おばちゃんが集めたゴミは刈られた雑草に埋もれて見えなくなっていた。
 「さて、これらをどうするのだろうか?」
と、私が思ったのも束の間。案の定、そのまま集めたものをすべて歩道へと勢い良く掃き出し始めた。
 掃き慣れたおばちゃんの素早い箒さばきによって、一瞬にして、もはや歩行人の足の踏み場がないほど、歩道はおばちゃんの掃き散らかした雑草たちでごった返してしまった。
 「まさかこれで終える気か?」
と思って見ていると、その大量の雑草たちを、今度は歩道から一段下がった道路へと更に勢い良く落とし始めた。雑草たちの枝をすいている時と違い、箒を大きく振って一気に落としにかかる。これまた、いつもやっているに違いないと思わせるような素行だった。
 そして、集めたものを全部落とし終えると、
「おっしゃ、掃除をやり終えた!」「清々しい朝だ!」
と、おばちゃんに吹き出しのナレーションをつけてやりたくなるくらい、満足感いっぱいの仕草を見せて、そそくさと家の中へ入って行った。
 どうやらこれでおしまいらしい。日本人のように集めたゴミを回収しようなんぞ、思いも寄らないという顔をしていた。
 もしも、私が通りがかりを装って、
「このゴミ、回収しないの?」
とでも尋ねたとしたら、おばちゃんはきっと、
「何故、回収しなくちゃいけないんだ?」
と、私を睨みちらすことだろう。私は勝手にそう想像した。
 
 おばちゃんが大量の雑草を落とした車道のすぐ脇には、道路に溜まった水を排水する側溝が蓋もなく大きく口を開けたまま存在している。
 幸い、その側溝は、歩道よりも一段低い車道の、歩道との段差壁に口があって、開きっ放しの口が道路に対して垂直なことだった。
 日本でよく見かけるような道路上にある空を向いて口が開いたタイプの側溝だったら、鉄格子も被されずに口を開いたままでは、人にも自転車にもバイクにも車にも、とっても危険な存在だ。「オープン落とし穴」の状態だから、世の中の「うっかりさん」はいちいち穴にはまって大変だ。
 
 さて、私の最大の疑問は、おばちゃんが自分の家の前のこの側溝の存在を知っているのかどうかということだった。
 しかし、おばちゃんはわざわざ側溝に向かって集めたゴミを落としているようにも見えた。側溝の存在を知りながら、寧ろ、
「あら、いいところに穴があるわ、ここにゴミを入れればちょうどいいわね」
とでも考えていたのだろうか。それとも、口はおばちゃんのはるか足元で向こう岸に向かって笑っているから、おばちゃんは全く気付くことなく、今まですっとぼけて生きてきたのだろうか。灯台下暗し、人間は自分の足元には生涯気づかないのかもしれない。
 
 日本では、近所の町内会が段取りする「どぶ掃除」などが定期的に行われる。その度に、日曜日の朝早くから近所の男手が側溝に溜まったゴミやヘドロなどを掻き集め、コミュニティの為に肉体労働に精を出す。万一の大雨でも水がきちんとはけるよう、地域の家々が浸水しないよう、常日頃から周辺近所の住人が地域の為に協力し合う。
 
 このおばちゃんは、そんなこと、きっと考えにも及ばないことだろうし、日本のような町内会のボランティア「どぶ掃除」など、ここにはかけらも存在しない。
 おばちゃんが掃き捨てたゴミと雑草たちは行き交う車の気流や排気ガスに押されて、まもなくそのまま側溝入りだ。ビリヤードのサイドポケットはボールがひとつ入るだけの大きさの穴だが、おばちゃんの家の前の側溝は大きく口を開けっ放しだ。何でもかんでも飲み込みまくれそうだ。
 そうやって側溝はいずれ詰まっていくことだろう。雨水が上手に排水されずに、おばちゃんの家の前の道路は大雨の度に水がはけないに違いない。でも、まさか、自分の行為と関係しているなんて、おばちゃんはきっと微塵にも思わないことだろう。
 
 ひとまず、おばちゃんの家の前、玄関から歩道までのスペースは美しく綺麗になった。雑草カーペットだってスッキリして、より美しくなった。家の窓からおばちゃんの視界に入る範囲は完璧だ。
 自分のテリトリーさえ綺麗になれば、それでいいのだ。掃除とはそういうものだ。公共の場所まで綺麗にしようだなんて、日本人は全くどうかしている。
 
 昔、木枯らしが吹き始めたある秋の終わりの朝、母と家の前の落ち葉を掃き集めるために外へ出た。すると、両隣りと向こう三軒のご近所さんたちがまるで申し合わせたように、箒とちりとりを手にして外へ出て来た。お互い離れた位置から「おはようございます」と、一連の天気などのあいさつ会話を大声で交わし、それぞれがそれぞれの家の前の歩道の掃き掃除を始めたことを懐かしく思い出した。
 私は思った。日本の掃除の文化はなんて素晴らしいのだ。しかも、誰に何を強いられたわけではないのに、公共の場を綺麗にしようという、日本には「コミュニティ」や「地域」を大切に重んじる文化がある。
 
 「歩道は自分の庭ではないのだから私が掃除をする必要などない」
何とも潔い志だ。歩道を歩く人の身になんてなっちゃいられない。私は忙しいのだ。「My House」「My テリトリー」以外は「My responsibilityではない」。日本人はきっとアホなエイリアンだ。
 
 あぁ、私は日本に生まれて来て良かった。欧米人の「私が、私が」文化を目の当たりにする度にそう思う。
 
 ところで、北米の「My・My・My」文化で、未だに違和感を覚えることがいくつかある。そのひとつは、犬や猫などのペットについてだ。北米でも日本でも、大抵、ペットは家の家族の一員と考えられ、大切に扱われているのだが、北米では必ず、
「この犬は私の犬」
「この犬はお兄ちゃんの犬」
のように、家族の中でも、特定の誰かの所有物なのだ。家族皆の犬ではない。犬の世話をきちんとするように責任を負わせる為なのか、と良いように解釈してはみるものの、私にはやはり好きな考え方ではない。
 毎度毎度、「My dog」だの「My sister’s cat」だのと聞く度に、北米の「My・My・My」文化に違和感を覚えてならない。
 そんなに「私のもの」「私のもの」と主張するのなら、公共の場所だって「私の公共の場所」だと思えと、私の腹の虫は訴える。
 
 

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