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SLAは言語教育の役に立たないか?

第二言語習得研究(SLA)をやっていると何度でも訪れる問題である。

私は、いくつかの学部・大学院で授業を受け持っている。これからさまざまな分野に参入していく学生たちにとって、今自分たちが学んでいる内容がどのくらい「役に立つのか」というのはとても悩ましいことだそう。分野によって研究の意義っぽいものを示しやすいところもあれば、基礎研究方面だとなかなかわかりやすい「価値」を見出しづらいかもしれない。

私が受け持つ授業で、これまで学んできた内容と英語教育がどのように関わるかということを考えていくものがある。その中で、エビデンス・ベースト・アプローチだとか、クリティカル・アプローチだとか、教育哲学的な内容を学んでいくと、これまでSLAを学んできた学生が、自分のやっている研究から英語教育に対して言えることがいかに小さいかがわかり悩んでしまうことがある。意図的に一度そういうことを考えて欲しくてそういう作りにしているというところでもある。

まずもって、そもそも一つの学問分野、いわんや一つの研究からあちらこちらに大きなインパクトを与えることはそもそもできない。SLAが提供できる知見は政策科学的なエビデンスとして質が低いということを学んでショックを受けたりする気持ちはわからなくはないのだが、SLAを志す人が本当に最初から政策科学にそんなに貢献したいと思ってたの?と自問自答してみたら、意外とそうでもないんじゃないだろうか(自問自答の結果、本当にそちらを志向したいと思うのならば、そちらの領域の研究に移るべきだろう)。また基礎研究志向のSLAの掲げる「第二言語習得の仕組みを検討することによって、人間の認知システム解明の一助となる」っていう目標の価値がそんなにショボいとは私は思わない。が…

とはいえ、もっと言語教育に役立つって思いたい、という気持ちもまたわからなくもない。英語教育なんかは「社会に役立っている」ことが最もわかりやすい対象のひとつである。(今回は扱わない、「社会に役立つ研究の対象って別にそこだけじゃないよね」っていうことと並行して)そんな学生に伝えたいのが、第二言語習得の基礎研究はちゃんと教育にも役立つ知見なので、あまり過度な心配せずに研究に打ち込んで欲しい、ということである。

Kumaravadivelu (2012)(邦訳:2022)では、言語教師の知識を「専門的な知識(professional knowledge)」「運営手続的な知識(procedural knowledge)」「個人的な知識(personal knowledge)」の三つに分け、専門的な知識をさらに(1) 言語に関する知識、(2) 言語を学ぶことについての知識、(3) 言語を教えることの知識に分類している。また、それぞれの知識が関連する領域として、(1)は「システムとしての言語、談話としての言語、イデオロギーとしての言語という観点の知識(邦訳p. 61)」(要するに言語学の各領域)、(2) は「第二言語習得(SLA)、認知心理学、情報処理などの分野から導き出された理論および実証研究」、(3)は「言語教育のメソッドに関する知識」などを挙げている。

ここに書いてる通りに解釈すると、SLAは「専門的な知識」のなかの「言語を学ぶことについての知識」の一領域ということになる。ただしそれぞれの内容を読み解いていくと、基礎研究としてのSLAは(1)の「システムとしての言語」の理解に関わる領域にも跨る研究分野だろうと思う。なお、Kumaravadiveluの教師論の重要な点として、知識というものは文脈依存的な教育を作り上げていく際に必要な要素の一つにすぎないと捉えられており、これらの知識から言語教育に対する普遍的な最適解、つまり言語教育はこのようにすればうまくいくんだという一般的な法則を導き出すためのものとは考えられていない(※1)。

おそらく典型的に「英語教育に役立つ」ものと想像されるだろうものは「言語教育のメソッドに関する知識」だと思うが、これは言語教師に必要な知識のうちの一領域にすぎない。このことから、「どう教えたら効果的か?」という問いに答える研究は言語教育研究のほんの一部の側面にすぎないことがわかる。そしてそこに並置(※2)される「言語に関する知識」を提供する言語学の分野の多くは、言語教育への貢献を第一義としている分野ではないだろう。しかし、英語を教える際に言語学や英語学の知識が全く必要ありませんという人はいないのではないだろうか(いたらそれはすごく極端な立場だと思う)。もちろん、英語学的な内容ばかりを取り扱い、ものすごくマニアックな知識ばかり教授していたらそれはどうなのと言われてしまうかもしれないが、それはその教師の知識の扱い方が問題であって、英語学の知識自体が悪いわけではない。この観点から言って、第二言語の習得プロセスに関する知識や、システムとしての第二言語の知識に貢献する研究が言語教育に役立たないとは考えられない。個々の研究が直接的に教育的示唆を含むかどうかと、得られた知識の総体が教育に対して意味あるものであるかどうかは分けて考えなくてはいけない(一方で教育的示唆を第一義とする研究が必ずしもL2システム解明に貢献するわけではないことは、最近いろいろなところで強調しているが、それは何もここに書いたことと矛盾する話ではない)。

※1 この辺はちょっと話がズレるのでここでは深入りしない。
※2 同じくらい大事とみなされているという意味ではない。が、どんなときにどの領域の知識がどれくらの割合で必要になるかという話はそれこそ文脈依存的なので今回は扱わない。

たとえばある言語項目の誤りが見られた時に「なぜそうなっているか」を考える際SLAの知見は参照に足る知識となるだろうし、「この段階ではこの項目の運用まで求めるのは難しいから、とりあえずこの課題ではそこまで求めないでおこう」とか、「ここは第一言語の影響が強いところだから特に目標言語との対比を慎重に取り扱おう」とか、そのドメイン知識があることによって生まれる選択肢というものが多々ある(あ、これらの選択肢は適当に挙げたものなのであんまり真面目に検討しないで欲しい)。その選択肢に活用されるまでに個々の研究が及ぼす影響は小さいかもしれないが、それは教授法研究を含む他の「教育への貢献がわかりやすい」領域の研究でも同様である。何やるにせよそんな簡単じゃない。小さくても確かに影響を与えるためには、コツコツと真面目に知見を積み重ねていくしかない。

「第二言語の習得プロセスに関する知識や、システムとしての第二言語の知識に貢献する研究」はこのような意味で、教師が参照する意味のある知識を提供しうる研究である。それってすごく価値のあることじゃないだろうか?

大切なのは、自分の研究の価値を大きく見積りすぎるべきではなく(最初に述べたように、あれもこれも自分の研究分野の知見で解決されると思ってはいけない)、また同時にそれは全然意味がないと悲観もしすぎないことではないかと思う。この微妙なニュアンスが伝わるといいけれども。

※「自分の研究の価値を大きく見積りすぎるべきではない」という点に関してはSLAの安易な教育的応用を批判する文脈で論考があると思いますので、今回は「学生さん、あまり心配をな、心配をせずに研究をやりなよ」という内容で記事を書き、そちらの意見はあまり取り上げませんでした。SLA内部からの「抑制的であれ」的な考え方に関しては最近、関西大学の田村祐先生が発表を行ったようなので併せてご覧ください(スライド等はこちらにありました)。

※そのうえでコツコツと「第二言語の習得プロセスに関する知識や、システムとしての第二言語の知識に貢献する研究」をやりたいぞうって方は、新刊『第二言語研究の思考法』をぜひ手に取ってみてください(がっつり宣伝)。

引用文献

Kumaravadivelu, B. (2012). Language teacher education for a global society: A modular model for knowing, analyzing, recognizing, doing, and seeing. Routledge. 南浦涼介・瀬尾匡輝・田嶋美砂子(訳)(2022)『英語教師教育論:協会なき時代の「知る・分析する・認識する・為す・見る」教師』春風社.

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