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推しがいない話
皆さんお元気ですか?2月ですねぇ。
大学の2年次の授業が終わり、まだ成績は出ていないもののそれはそれはまあ散々たる結果を迎えることになり、どうか単位をくださいとお祈り100回素振り100回し続けるそんなエブリデイ。「出さないレポートより出すカスレポート」とはいうものの流石に見逃してもらえないようなことを何度もやらかしてますからねぇ、どうなることやら。
あっという間に大学生活も折り返しと言うことでコロナが憎いばかりですが今月もダラダラやっていこうと思います。
さて皆さん、推し事してますか?推し活ともいいますね。
この過酷で理不尽な現実の中で、これが生き甲斐という方も多いでしょう。対象によってその内容は異なりますがアニメの感想をSNSに上げたり、配信を見たり、ライブ演奏を見に行ったり、同志と語ったり、気持ちをイラストなどに昇華したりと思い思いの感情を爆発させている人も多いと思います。
立派だ。凄く立派。だからこそどこかそれをとても羨ましく感じる。
自分の推しってなんだ…?
結局また自分は無趣味だの空っぽ人間だのという自虐に繋がってくるのだけど、いざ己を振り返ってみると彼らのようにそこまで熱狂的に推しているモノやヒトがいないことに気づく。何か自分の中で燃え上がり積極的に関わりたいと思えるコンテンツがないことに気づく。
ここで勝手ながら私の姉の話をさせてほしい。
年は2つ上で、私以上に大雑把で私以上に繊細な性格。ワガママで、好き嫌いが激しくて、やりたいことは絶対にやるしやりたくないことは意地でもやらない、どこまでも子どもっぽくでそれでいて気高い。ミュージカルが好き。そんな姉も世間一般と同じようにしてかなりのオタク気質である。
新年早々、姉のオタクトーク(早口かつ大音量)を聞かされるの巻
— ふくた@ぅどぅん (@fukuta_wbcms) January 3, 2022
夢女とか腐女子とかそこらへんの違いは当方にはわからないが、どうやらかなり入れ込んでいるキャラや漫画があるようだ。やれ○○のここが尊いとか、セリフ一つで悶えてアニメはそのキャラが出てくるシーンをリピート再生して全盛期は確かそのボイスを目覚ましにしていた。諸々の情報を追いかけ、イベントにはできる限り出かけ、グッズももちろん買う。Twitterで同士と絡んだり、自分で二次創作したりと余すところなく楽しんでいるようだ。
その活動のあり様を全て知っているわけではないけれど、ちょくちょく私相手に色んなことを語ったりする。やれ2.5次元がどうとか、中の人のインスタライブがどうとか、そのカップリングはどうとか、なんとか。サンドバックかというぐらいあーだこーだ言葉の洪水を浴びせ、こちらとしてはだからなんやねんと苦笑いせざるを得ないときもある。
ただ、自分にとってそれは本当に尊敬すべきことなのだ。
ライブの前日に徹夜で張り込むオタクも、感想をイラストに昇華してアップするオタクも、新刊を買うためにはるばる遠征してくるオタクも、「僕は人狐(未亡人)と悪ガキショタの絡みが好きです!」とか変な性癖を暴露するオタクも、電車を撮るためにホームに群がって駅員から注意を受けるオタクも、推しに恋人の存在を嗅ぎつけて発狂するオタクも、全てが素晴らしく思える(もちろん人に迷惑をかけるのはご法度だけれど)。
どこからエネルギーが出てるのか。
そんなにその人を駆り立てるものがあるのか。
それだけ趣味に興じることができることが、どれだけ凄く、難しいことか。
自分だったら、そこまで強い想いや行動が伴うだろうか。もちろんお金をつぎ込むことが推し活の全てではないだろうが、自分の姉ふくめ他の方々のように言葉にしたり絵にしたり公式からの供給を欲しがったりあれやこれや妄想にふけったりしたりしている人らを見ると「そ、そんなに…?」となって少したじろぐ。
なんか理屈あれこれ言ってもわかりづらいのでもうちょい具体例挙げておきます。文字数稼ぎ。
例えばラブコメのラノベやギャルゲーに触れた際、「この子がいっちゃん好きやねん!」みたいなのを決められない。決めれた試しがない。一番人気があったとしても“強いて言うなら”というかなり相対的に選びに選び抜いた末の話であって、とても推しと呼べるものではない。優柔不断と言うべきか、中々愛を捧げる相手を見つけられないのだ。
私はスマホゲームの『ウマ娘』を毎日プレイしていて、そこには多種多様なルックスや性格の美少女—じゃないウマ娘が存在するわけだが、「誰が推し?」と問われると返答に詰まる。
ネイチャも好きだしマックイーンも好きだしカフェも好きだ。でもそれは横一列に並んでいて、他の子にもすぐ抜かれそうで、とても「推し」だなんて呼べるものじゃなくて要するにどんぐりの背比べ状態なのだ。仮に新しい衣装が出た!となっても「あっふーん」としかならない。
前回の記事で仕事を考える際に「どの仕事でもいいしどれでもよくない」という旨のことを書いたが、キャラクターについても同じこと。どのキャラも嫌いじゃないし別に特段好きでもない。アニメショップで缶バッジとかアクリルスタンドを購入するときとか凄く悩む。
五等分の花嫁だろうがなんだろうがそれは同じこと。キャラクターを「その他大勢」としてか見れないのだ。別に悪い事でも引け目を感じることでもないのかもしれないけど、なんだか心の中にぽっかりと穴が開き続けている気がする。
そしてこれは単純に「そのキャラを好きかどうか」という熱量だけの話だけではない。
この歳で、と笑うかもしれないが私は仮面ライダーを毎週視聴している。今住んでる一人暮らしの部屋にテレビは置いてないのだが、TTFC(東映特撮ファンクラブ)という戦隊やライダーの過去作を見返せるサイトに登録しており、なんとか毎話追いかけている状態だ。現在放送中の仮面ライダーリバイス、おもろいで。
そんな中ふとSNSや掲示板のまとめサイトを眺めていると毎度のように「ああそんな深いところまで見てなかったなあ」と思わされる。一話一話ごとにブログに長文の感想を上げている人を見て「俺はこの作品と全然向き合ってなかったんだなあ」と突き付けられる。
ここが伏線だったとか、あの演出がいい対比になってたとか、この先はこうなんじゃないかとか。製作サイドときちんとキャッチボールをしている。紛れもなく『仮面ライダー』の一視聴者として、あるいはファンとして彼らは生きているのだ。
映画、漫画、ドラマ、ゲーム、音楽でもなんでもそう。
同じコンテンツを、同じ時間同じお金を支払って消費しているはずなのに。観終わった後に心の中に芽生えるものが違う。そこからのアウトプットで開く花の大きさ美しさが違う。きっと彼らには、世間一般の人には得たものをしっかりと受け止め噛み砕き、自分の心身で育んでいく土壌が備わっているのだろう。そして何故だか自分にはそれがない。片手間に食べるおやつのように、ただ漠然とした視覚(あるいは聴覚)情報が入って流れていくだけなのである。
中学や高校の時、社会見学や何かお偉いさんの講演、授業の映像鑑賞の際に課題として小さい紙に感想を書かなければならず苦心した人もいるのではないだろうか(大学の講義のコメントシートもそんな感じか)。自分は「興味深かったです」とかまあ当たり障りのないこと数行しか書けないのに、やたらめったらびっしりとシートを埋め尽くしている友人はいなかっただろうか?あれ本当に凄いですよね。
もちろん無理矢理絞り出しているだけかもしれないし、ただ文字数を稼ぐだけなら小手先の技術でどうにかなるが―—それにしたってよくそんなに言葉が紡ぎだせるものだとその差に絶望しかけたことが何回もある。“感受性が豊か”とかそういうのでは片付けられないような圧倒的な隔たりを感じたものである。
のんべんだらりと書いたけど、要するに“趣味”と呼べるものがない。
人生を彩るものを、生きるエネルギーを生みだすものを、もっと言うなら心休まるものや興奮するものを、私はずっと探し続けて。けど触れたものは自分の心を通り抜けて何も残さない、とどまらせることができない。
「あれめっちゃいいよね!好き!」と。
いつか空っぽな自分から抜け出して、
ただそれを誰かと共有できる日が来ればいいなと思うばかりです。
ネガティブなこと書くつもりなかったんですけどなんでだろうね!
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ「スキ」していただけると幸いです。
ではまたどこかで。
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「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83898
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