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誰かの”特別”でありたい

どうもこんにちは。すっかり3月ですね。今年度の単位は何とか取れてユニバーサル大回転ぺこぺこの舞って感じです。とかゆーてる間に次年度が始まっちゃいます。なんだこれ。

今回もつらつら書いていきます、よろしゅう。

最初に置いておきますがこれは自分は可哀想な人間だよというアピールでもなければ死にたい的な独白でもないし、ましてや私の周りにいる人を貶すものではありません。念のため。

1.泣いてくれる人がいてよかったね

あれは小学校の同期のお葬式のことでした。

もともと病弱で、学校に来る回数が少なく修学旅行も途中参加したり体育はほぼ見学したりと色々危うさを見せていた彼女、その訃報は僕らが中学校に上がってすぐのころに届いた。
当時の担任、同級生、保護者が可能な限り集い式が開かれた。当然両親や仲の良かった女の子たちはオイオイと涙を流していたが、僕含めあまり絡みのなかった男子一派は神妙な面持ちではあったもののそこまで悲哀の情は湧いてこなかった。それどころか、まだ若いのにねぇホントにねぇという涙まじりの会話を聞いたとき、こう思ってしまった。
「あぁじゃあ僕も若くして死んだら泣いてくれるんだろうか」と。後付けだからなんとでも言えるのかもしれないけどほんの少し羨望の念もあったのかもしれない。

母方の祖父のお葬式の後、親族以外にも沢山の人が生前の祖父について語り合っているところを見たとき。
ニュースで、テレビで有名な芸能人の告別式の場で大勢の人が目を赤くしながら霊柩車を見送る映像が流れてきたとき。
その亡き人が持っていた人望の大きさに尊敬すると同時に、その分死んだときに周りで悲しんでくれる人がいることに少々嫉妬した。

そこでじゃあ自分は?と問いかける。
仮に自分が死去して誰かがお葬式を開いてくれるとして(天涯孤独の可能性もあることに今気づいた)、いったいどんな様子になるのだろうか。何人来るのか。何人泣いてくれるのか。死体の僕を見てうわぶっさいくやなあとか思ったりするんだろうか。というか飾る写真とかあるのか?友人代表とか誰か立候補すんの?多分数人は心底このお葬式をどうでもいいと思っていて、誰だって数日経てば頭からすっかり忘れ去られて晩御飯のメニューの方が気になっているだろう。これはそう悲観することじゃない、少なくとも風化していくのはある意味葬式の最終目的だし。

人の価値とは何か。
その一つの答えとして「周りにどれだけ必要とされているか」というのを挙げたい。安直に”需要”と置き換えてもいいし、今回のケースに限るなら”お葬式でどれくらいの人が泣いてくれるか”というのでもいい。誰かがその人の存在の消失で悲しむということはその人が愛されていることの裏返しだからだ。

そして価値があるというのは特別であるということ。
話が逸れまくったが別に今回のテーマはお葬式ではありません。人間だれしもが思う、特別な存在になりたいというトークです。

2.ポジションは蚊帳の外

私たちは決してそれ単体では独立してない。他のものと因果で結ばれ生起している——なんてのは誰もが知っているところでしょう。仏教でいうところの無我とか縁起というものだ(間違っていたらごめんなさい)。

本当の意味で親もいねぇ、友もいねぇ、おらこんな人生いやだよし逝くぞうという人はおそらく少数派。少なくとも僕ぐらいの齢の人でも親族小中高の知り合い大学の友人バ先の諸々とそれなりの人間関係相関図を描けるはずである。一期一会、袖振り合うも他生の縁、やったね君は一人じゃない。

ほんまか~?

いや要するに何が言いたいかというと、中途半端に人と繋がっているからこそ感じる孤独もあるでしょというお話で。人の輪に入れず疎外感ばっかり感じることない?というお話で。
皆さんも経験したことないだろうか。
放課後、夕焼け、下り坂、自転車併走、信号待ち。友人と交わされる何気ない会話は日常の一コマとなって、青春の1ページとなるはずだった。同じ時間同じ場にいた証を刻んでいくはずだった。
後ろから別の友人が合流した。
僕以外の人らで僕には関係ない話題が始まった。
それが続いた。
いつの間にか蚊帳の外にいた。透明人間になっていた。誰もが気に留めない路傍の石ころに成り下がってしまった。
毎日こんなことの繰り返しである。

この世に絶対なものなんてない。
山奥に籠って悟りを開かなくたって、誰もがわかっている残酷な事実。
みんなそれぞれ構築している人間関係があって。当然全ての人付き合いに全力は尽くせないし、情報も把握しきれないから必然とそこには序列が生まれる。裏切られ、後回しにされ、そうして余った残り物は知らず知らずのうちに爪弾きにされる。
僕にとっては数少ないかけがえのない友人。だけど向こうからしてみれば僕はその他大勢のひとつ、居ても居なくてもいい存在なのだ。そりゃまあ世の中にメンヘラが生まれるわけだと合点がいく。

もっと自分が孤独を愛せる人間なら。
ぼっちでも何も心が痛まない人間だったなら。
こんな思いはしなかったのだろうか。
物理的に近くにいるのに、過ごす時間はそれなりに多いはずなのに、僕と他の人との間にはっきりと線が引かれて。何か参加できないかと必死に考えるもののしょーもない言葉しか出なくて、そうしてまた輪の中での自分の価値が下がっていく。どんどん「売れない商品」になっていくのだ。

もちろん自業自得な話ではある。
他人に愛されたけりゃ愛せ。そもそも興味を持て、自分から自分を売り込みに行け。求めよさらば与えられんとかエトセトラ。殻に閉じこもってるヤツを誰が己の世界に引き入れてくれるだろうか。自分で掘った墓穴に入ってやばい落ちちゃったよ助けてと泣きわめいているのが今の自分なのだから。
それでも。わりぃ、やっぱつれぇわとなる。
量にしろ質にしろ、周りの人の存在が自分の価値を規定する。他人から求められなければ意味がないのだ。いや正確に言うなら他人から「その他大勢よりもさらに」求められなければ、だ。これが特別な存在になりたいという意味の言い換えである。

3.二の次ですらない?

恋人になるとか結婚するというのがいい例だ。
愛するというのはいつだって「他の誰でもないあなたを」というフレーズがハッピーセットでついてくる。不平等かつ理不尽じゃなきゃ成り立たない。

少し中高時代の昔話を。
そこそこ普段から付き合い(もちろん友人として)のある同期がいた。Aさんとしよう。Aは絵にかいたような「優しい人」であり、僕みたいな輩でもそれなりに会話を広げてくれた。手持ちの友人が少ない僕としてもその人とは友好関係を保持していたいと思っていた。
だが当然、イイ人の隣の席には相応の人が居座っている。Aにもしっかりと深く恋慕の情で結ばれた人がいた。別にそれはいい。
問題はAに恋人ができてからというもののその人の発言が、優しさに満ちた言動が妙に薄っぺらく見えたことである。だってその人の中での「特別な存在」は既に決まっているのだから。その人にリソースが割かれるべきなのだから。
どんなにAが優しくても。どんなに僕が好感度を上げようとも。もうAにとっての交友関係において1番になることはできないのだと思い知った。僕やAの恋人以外に与えられる優しさが片手間のちっぽけな、それもあまりものを更に絞った残りカスでしかないのだと突き付けられた。人間関係において1番とそれ以外の差はあまりにも大きい。一体僕は何番目なのかと悩み、どこのグループなら大事にされるのかと心苦しい思いをして夜しか眠れなかった。

なんとも視野の狭い考え方ではあるけれども、いずれにせよいかに自分がフリーランスな立ち位置にいるのかということをヒシヒシと感じる毎日である。
絶対僕を裏切らない人。絶対僕を一番に取り扱ってくれる人。そんな人らと心を通わせあって、記憶を構成する特別な1ピースとなって、そんで誰かが死んだら泣き悲しむ。
他人の人生を舞台化映画化した時、パンフレットに名前を主役の次に大きく載せてもらえるような存在でありたいものです。

書くことが無くなったのでこの辺で。
要するにあれです、今年度も単位取れたらいいねということです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
よければ「スキ」押していただけると幸いです。

ではまたどこかで。

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