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凡庸なバチェラーが歴代一の支持を集めた理由ーー『バチェラー・ジャパン』シーズン5評

この記事は、福田フクスケのX(旧Twitter)アカウント(@f_fukusuke)での連続投稿をまとめて、若干の加筆修正を加えたものです

新しい「令和のバチェラー」…ではなかった

『バチェラー・ジャパン』シーズン5を見た。「史上もっともらしくないバチェラー」として起用された長谷川さんは、「かっこいい」ではなく「かわいい」と言われ、「選ぶ」側のはずがバチェラーに相応しい男かどうか「選ばれる」側にもなる。時にいじられ、なめられ、怒られることすらある、その頼りないが等身大の姿は、最初の数回こそ「令和の新バチェラー像」を提示してくれるかに見えた。

しかし、長谷川さんは「(従来の)バチェラーらしくない」というだけで、中身はごく一般的な普通の考え方を持った日本人男性。

初代ロレッテの福田萌子さんのように、自分の理想の結婚観や幸福観を言語化する能力が高いわけでも、相手を深掘りする対話力が高いわけでもなく、いちばん自分がなりたい理想のオスでいさせてくれる楽しい恋愛ができそうな相手・大内悠里さんを順当にラストローズに選んだな、という感想を抱いた。

結局、旧来のバチェラーファンからすると物足りないし、「令和の新バチェラー像」を求める層には肩すかし、という事態を招いた印象は否めないと思う。

そもそもセレブ男性がいなさすぎた日本

そもそもバチェラーって、本来は「誰もが羨む憧れのハイスペセレブ男性を、一発逆転の玉の輿をかけた女性たちが奪い合う」という現実離れしたシンデレラストーリーが醍醐味だったはず(そのコンセプト自体が前時代的だという問題はいったん置いといて)。

その点、日本版バチェラーはかなり初期の段階から「企画趣旨に相応しいハイスペセレブ男性」の選考に苦労していたふしがある(なんならシーズン3の友永氏もかなりあやしい)。かろうじて「港区臭がする」ことを「富裕層男性」であることのなけなしのハク付けと説得材料にしていたんだけど、とうとうその「港区臭」すらも脱臭させたのが長谷川さんだったわけで。

そのため、もともと日本版に対してみんながうっすら感じていた「これを機に世に出たいと狙っているワナビー女性たちが、"婚活市場ならまあ好条件かな"レベルの男性を、理想のバチェラーだと自己暗示をかけて一生懸命好きになろうと悪戦苦闘する」という実態が、いよいよはっきりと露呈してしまった感がある。

現実の恋愛・婚活市場の縮図としてリアルだった

ただ、SNSでは今回のシーズン5が歴代バチェラーで一番よかったという人も相当数いて、その理由はおそらく長谷川さんの「普通にいそうさ」も込みで、圧倒的に現実の恋愛・婚活市場のリアルに近かったから、あるあるや自己投影先として共感しやすかったんだと思う。

もっとも、日本版はバチェラー本来の醍醐味が成立しないことに対する苦肉の策として、だいぶ前から「何も考えなくてもモテてきた恋愛強者男性が、初めて女性とのまともなコミュニケーションに向き合う精神的成長の物語」と「ライバルだったはずの女性同士の間に芽生えるシスターフッド的友情」という演出に舵を切っていた。

そういう物語が好きな人にとっては、シーズン5が一番刺さったという感想も納得できるし、今、多くの日本人が恋愛リアリティショーに求めているのは、そのくらいのリアリティなんだろうな。

男はみんな大内さんみたいな女性に好き好きされたい

それにしても、長谷川さんがラストローズに選んだ大内さんは、①元No. 1キャバ嬢(トロフィーとしての価値が高く、ホモソヒエラルキーの頂点に立てる)②飲食店8店舗のやり手経営者(稼ぎ手として頼れる逆玉の輿)③俺の前では自分に自信のない恋愛依存気質な情緒不安定挙動不審オタクキャラ(自分がオスとして優位に立てる)を兼ね備えた女性。

身も蓋もない言い方をすれば、「そりゃ男ならみんな大好きだろ」というタイプなわけで、そういう意味でも長谷川さんはやはり日本のごく普通の一般男性代表なんだよね。自分にとって破れ鍋に綴じ蓋のオンリーワンを見つけるのではなく、結局はからあげウィンナーエビフライ全部乗せカツカレーのような女性を選んだ結末に、白けてしまった人もSNSでは多く見受けられたように思う。

だが、そもそもロレッテ2に参加してる時点で、長谷川さんは稼げる女性に頼りたい逆玉願望のあった人。大内さんにオチたのは必然なのかも。そう、今期は表向き「長谷川さんが大内さんを選んだ/オトした」体裁をとっているけれど、実際は「大内さんに長谷川さんが選ばれた/オトされた」印象が強いのである。

こうした「選ぶつもりが選ばされている」といった主体と客体の転倒、能動と受動の倒錯は、現実の恋愛でもよくあるねじれ。だからこそ、シーズン5は日本の恋愛・婚活市場の縮図として、恋愛リアリティショーにリアルと共感を求める層には圧倒的に支持されたのではないか。

日本版バチェラーに対して感じる「港区でやれよ」感

ちなみに大内さんのあのキャラは、元人気キャバ嬢仕込みの手練手管のテクニックというよりも、もともとああいう不安定さのある天然の人たらしだからこそ人気キャバ嬢になれたのではないか、と私は思っている。自分の振る舞いが自覚か無自覚かなんて、入れ子になってて本人にすら明確には分けられないものだと思うので。

結局のところ何が言いたいかというと、日本版バチェラーって、わざわざ番組のお金をかけて海外ロケしてまで、港区(もしくは歌舞伎町)の内輪の合コンを見せられてる気になるんだよなーってことです。それ、最初から港区でやってればよくなかった?みたいな気持ちにさせられて、福田萌子さんのようなチベスナ顔になってしまうのです。

フィクションと同じには批評できないあやうさ

…とまあ、これだけ書いといて今さらですが、映画やドラマとは違って、恋愛リアリティショーの批評は、そのまま実在する個人の属性批判や生まれ育ちの査定、コンプレックスやトラウマなどに土足で踏み込む無責任な俗流心理学やエセ精神分析になってしまいがちなので、言及が難しいなと思います。

SNSで長谷川さんの家柄や育ちやコンプレックスを言い当てようとしてる人、ヘタすると本当に刺さっちゃうから危ないよ。

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