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『新宿野戦病院』第2話の所感

堀井さんの性別を「気にしない」本作のスタンス

看護師長の堀井が男なのか女なのか問われて、経理担当の白木が「考えたことない。堀井さんの性別とか気にしたこと一度もない」と答えるのが象徴的だ。

成金ドクターとホームレスのどちらが幸せか、3年後に自分はSなのかMなのか、NPO法人代表の南舞と女王様のMay、どちらの顔が本物なのか……。

第2話にはさまざまな二項対立の問いかけが出てくるが、家出少女の宮嶋マユが、家でも児相でもないサードプレイスとしてのまごころ病院に居場所を見出したように、物事の答えは二元論の枠組みにはない、という点で本作は通底している。

それは、ヨウコ・ニシ・フリーマンにとって属性や立場や格差といった人々を分断する枠組みに関係なく、物事の本質は「命は平等」という一点にしかないからだ。

ヨウコが(決して上手いとは言えない)英語と、岡山弁とのちゃんぽんでしゃべることの理由もそこにある。彼女にとって、どちらの言語でしゃべるかという二元論は重要ではなく、「言いたいことが伝わるかどうか」という本質しか重視していないからだ。

命の前では上も下もナンセンス

第2話では、特に「上か下か」という分断が強調される。
ホストの人気ランキング、シャンパンタワー、歌舞伎町の搾取構造のピラミッド、そして自殺の名所だというビルからの転落……。
現実において人間は平等ではないということが嫌というほど突きつけられる。

鼻にイヤホンを入れて抜けなくなった少年のエピソードは、歌舞伎町にはびこる上下構造に「ハマったら抜けられない」ことのメタファーだろうか。

また、「なんで俺が貧乏人の目線まで降りてかなきゃなんねえんだよ」というセリフが象徴するように、高峰亨は上から目線で傲慢な人物である。

舞の裏の顔を知らずに無垢で汚れを知らないと決めつけ、「俺が舞に合わせるんじゃなくて、舞が俺に合わせるべきじゃね?」「もっと外見を磨いて自己肯定感を高めた方がいい」「俺なら舞を幸せにできる」とうそぶく。

いわば、美容外科医という富裕層の立場から、世の中が「平等ではない」ことを空気のように甘受しているキャラクターだ。

しかし、ヨウコだけはそうした階層構造を関知しない。
「運ばれてくるときはみんな違う人間、違う命、なのに死ぬとき、命が消えるとき、皆一緒じゃ」と語る彼女は、命の危機に晒された人間を前にして、誰しもを分け隔てなく平等に救う。

母親からネグレクトされ、おそらく母親のパートナーからの性的虐待から逃れてきたマユは、歌舞伎町の階層構造の中では限りなく底辺に追いやられた存在だ。

そんな彼女を、ヨウコは「おめえ死んだら、ぼっけえ悲しい」「わしがおる限り命は助ける。何べん死のうとしても絶対助ける」と力強くその生を丸ごと肯定し、受け止める。
マユはヨウコのそんなところに救われ、彼女のいるまごころ病院を居場所としたのだろう。

愚行すら否定しないクドカンの「雑な平等主義」

マユがオーバードーズをしても、ヨウコは「おめえの勝手じゃ、好きにしたらええ」と一切の予断や評価を下さない。
また、ホストに貢ぐために風俗で働くリリカを、舞は「全然バカじゃないし、筋通ってるし、感情むき出しでいいと思う」と受け入れる。

本来なら、オーバードーズの問題点をちゃんと説明したり、悪質ホストの搾取構造をきちんと批判するべき場面なのかもしれない。そこの描き込み不足は批判されても仕方ないだろう。

しかし、クドカン脚本は彼女たちの愚行権をひとまず認め、その善悪を判断しないという選択をしたように私には見える。

オーバードーズやホスト依存に至った彼女たちの行動を、私たちが善か悪か、正しいか間違っているかジャッジすることそのものが、傲慢な上から目線ではないのか。
クドカンの「雑な平等主義」は、歌舞伎町に生きる人たちのところまでまずはお前の目線を合わせろと、視聴者に突きつけているような気がするのだ。

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