ダウン・バイ・ザ・リバーサイド (1)

1 うなぎ 

水の入ったペットボトルが乱暴に倒される。
地面に打ち付けられたその際に発するゴトンという鈍い音が聞こえると、ぼくの脳内は軽いお祭り騒ぎとなる。
さあ、始めようか。
そんなことを呟いてぼくは倒れたペットボトルにいそいそと駆け寄る。

うなぎのペットボトル釣法の話である。

誰が編み出したのかは知らないが、うなぎ釣りにはペットボトル釣法という釣り方がある。 釣り竿を使わずにペットボトルを使用する釣り方だ。
五〇〇ミリリットル前後のペットボトルの首の部分に釣り糸を結び付ける。そこから釣り糸を伸ばし、ペットボトルの胴体部分に更に釣り糸を巻き付ける。四〇メートルも巻き付ければ十分だ。ペットボトルの外周が一周二〇センチほどであるので、数えながら二〇〇回ほど巻き付ければそれで約四〇メートルだ。
巻き付けた糸の先にスナップサルカンという金具を結び付け、そこから更に釣り糸を二〇センチほど、その先にうなぎ用の針を結ぶ。 使用しない時にはその針をペットボトルの胴体部分に巻き付けてある釣り糸に引っかけておく。

使用する時には、ペットボトルに六割ほど水を入れてそれ自体にある程度の重みを持たせてからスナップサルカンに錘(オモリ)を装着し、針に餌を付ける。うなぎ用の餌は、ドバミミズと呼ばれる太めのミミズが有利だと言われている。雨上がりに土を掘り起こすといくらでもいるらしいのだが、ぼくはそれを探すのが面倒なので釣り具屋で売られているミミズを使うことにしている。
餌を付けたら利き手とは逆の手にペットボトルを持ち、利き手に錘(おもり)を持つ。ぼくの場合は左手が利き手であるので、右手にペットボトル、左手に錘である。右手に持ったペットボトルの口部分を投げる方向に向け、左手で錘を投げる。
しゅるしゅるという音と共にペットボトルに巻き付けられた糸が出ていきながら錘が投擲される。それと同時に餌のついた針が水中に投げ込まれる。つまり通常の釣り竿とリールの役割を、ペットボトルが同時に担っているという訳だ。

投げ終わったら、ペットボトルを地面に置いて地面の上でペットボトルをくるくると回転させながら釣り糸のたるみを取る。あとはそのまま放置する。

魚が餌に食いついたら、ペットボトルがゴトンと音を立てて倒れる。急いでペットボトルに駆け寄り、糸を手に取ったら一度大きくアワセる。思い切り糸を引っ張れば良いのだ。それにより針がしっかりと魚の口に掛かる。あとは一心不乱に糸を手繰ってくれば良い。魚がかかっていれば手にはその生体反応がきちんと伝わってくる。
大型の魚であった場合にはきちんとタモ網で掬った方が良い。抜き上げる際に釣り糸が切れたり針が魚の口から外れてしまうということがあるからだ。
また、元通りにペットボトルに釣り糸を巻き付けるのは魚を上げてからで構わない。ペットボトルに糸を巻き付けつつ魚を回収しようとすると、その巻き取りのスピードの遅さから根掛かりなどのトラブルが起きてしまうことがある。巻き上げの際には何よりも巻き取りスピードが命である。

何故このようなペットボトル釣法という釣り方が開発されたのか。それはうなぎ釣りの時合(じあ)いの短さが原因ではないかと言われている。時合いというのは魚が餌を食べる時間の話だ。うなぎの場合はこれが極端に短い。一日の中で餌を食べる時間が決まっているというのだ。何だか規則正しい生活を送る人間のようで可愛らしくもある。
具体的には、日没の時刻からその前後、大体三〇分ほどがうなぎの時合いだと言われており、その三〇分の間に複数匹釣れたかと思いきや、それ以降はぱったりとなしのつぶて、という事は珍しくない。
その短い時合いにいかに多くの餌と仕掛けを水中に沈めておけるかがうなぎ釣りのキモなのである。そうした時にこのペットボトル釣法というのはペットボトルの性質上、省スペースに複数の仕掛けを並べて置くことが容易であり、また回収から再投入までの手間も釣り竿を用いたものよりも格段に少ない。
ぼくはいつもうなぎ釣りに行く時には、一〇〇均で買ったプラスチックのカゴの中に七本のペットボトル仕掛けを入れて持って行く。  
同時に七本の仕掛けを投入するのだが、これが釣り竿とリールであったならば大変な重装備になる。一つ一つの準備や片付けまで考慮に入れると、ここはペットボトル釣法に大きく軍配が上がると言って良い。
もちろん、いくつかのデメリットもある。竿を使わない為に遠投が利かないというのもデメリットの一つだ。
もしもぼくがプロ野球選手のような強肩、いわゆる「鉄砲肩」の持ち主であったならば、左手に持った錘を矢のように投げて川の中腹あるいは対岸近くまで投げることも可能かも知れないが、もちろんそのような肩を持ち合わせている訳もない。ぼくが投げた錘は二〇メートルほどの位置にひゅるひゅるぼちゃんと情けなく落ちる。それはそれで構わないのだ。届かない遠くにいるうなぎは諦めて、近くにいるうなぎを狙えば良い。遠投よりもペットボトルのお手軽さをぼくは選んだのだ。

京成立石駅からほど近い中川の河原がぼくのホームグラウンドだった。再開発の波に晒されながらもまだ下町の風情を色濃く残す町並みを抜けて中川に到着すると、大きくカーブする川から水と土の入り交じった匂いがして、その匂いが鼻腔を抜けていく。日差しはいつも強かった。額に汗をかきながら「うなぎ釣れねえかなあ」と呟いた。ぼくはうなぎを愛した佐久間さんのことを思い出していた。


2 さくま 

レッド・ガーランドの左手のコンピングのリズムが右手のパッセージよりもいつも半拍早く入るのは、彼がピアニストになる前にプロのボクサーとしてのキャリアを積んでいたこととあるいは無関係ではないのかも知れない。
ぼくは池内さんに先ほどまでそんな話をしていた。ぼくが池内さんにジャズピアノを教え始めてから間もない頃の話である。ジャズピアニスト、レッド・ガーランドの左手のコードコンピングは正統派ボクサーが律儀に左ジャブを打ち込むようにリズミカルに彼の音楽に彩りを加えていた。その演奏スタイルについての考察を二人でしていた。

池内さんはぼくよりも遙かに歳上のおっちゃんだ。五〇歳になった時にかねてからの憧れであったジャズピアノを習いたいということでぼくに連絡をくれた。いまいち要領を得ない、まだ若いぼくのピアノレッスンに頷いたり首を傾げたりしながら、それでも根気強くレッスンを受け続けてくれていた。多分どこかの会社のお偉いさんなのだと思う。ピアニストとしてはまだ駆け出しだったぼくと社会的な地位ということで言えば雲泥の差があったのだがジャズとピアノという二つの要素を介して、ぼくたちは偶然に知り合った。

レッスンが終わってから池内さんがぼくを「近所に飲みに行かないか、行きつけの飲み屋があるんだ」と誘った。人付き合いの苦手なぼくだったが、それは何だか面白そうなことのように思えて「行きましょう」と応じた。

それがぼくと佐久間さんの初めての出会いだった。

佐久間さんは、新小岩の住宅街で炭火焼き屋を営んでいた。店名は自分の名前をもじった「左くま」だった。「佐くま」でなくて「左くま」にしたのは、「おれは人でなしだからニンベンを取った」とのことだが、本当のところはどうなのか、ぼくは知らない。
焼き鳥が主だったのだが、佐久間さんは自分を「焼鳥屋」と言われるのを嫌がった。おれのことは炭火焼き屋と言え、といつも偉そうに訂正していたので、ここでも「炭火焼き屋」と言うことにする。
背丈はそれほど高くなかったが、中年太りで出てしまった腹と身体に対して幾分大きな比率の顔のせいで大柄に見えた。ぎょろりと大きな目が印象的だった。

池内さんの自宅からすぐ近くに佐久間さんが「左くま」を構えたのは、ぼくが初めて店を訪れた数年前の話だった。築地の海苔屋で働いたり鍼灸師をしたりと紆余曲折を経て炭火焼き屋の大将となった。本人曰く「定職に就いたことがない」との事だった。
一つの仕事を始めてその仕事に飽きたら次の仕事を探す。周囲を振り回しながら好きなことだけをやるようなスタイルだった。

初めて「左くま」を訪れた時に驚いたことがある。店の外の電気は点いておらず。シャッターも三分の一ぐらい閉まっていた。
ぼくが池内さんに
「この店は本当にやってるんですか? 閉まっているんじゃないですか?」
と聞いても池内さんは
「大丈夫大丈夫、やってるから」
とシャッターをくぐった。店は本当にやっていた。
佐久間さんは
「電気点けてシャッター開けてたら客が来ちまうだろ。おれの嫌な客が来るかも知れない。そしたらおれが嫌だからよ」と言った。
何だそりゃ。ムチャクチャだな。そんなことで店がやっていけるのかよと思ったが、店はやっていけていた。
佐久間さんの好きなようにやってくれてそれでも良いよ、という善良な客が何人もいた。そういう人たちに店は支えられていた。池内さんもその一人だった。池内さんは家が真裏なこともあって、「左くま」の自分勝手な定休日以外は毎日店に顔を出していたので、常連客の間では「会長」と呼ばれていた。
多分「左くまを存続させる会」の会長なんだろう。ぼくはそれ以来何度も「左くま」に行くことになるのだが、閑古鳥が鳴いているような状況をほとんど見たことがない。いつも店はそれなりに賑わっていた。

「左くま」ではぼくは他の常連客から「先生」と呼ばれた。池内さんのジャズピアノの先生だったからだ。歳上の人たちから「先生」と呼ばれるのはあまり居心地の良いものではなかった。そもそも「先生」と呼ばれて悦に入っているような人たちをぼくは軽蔑している。けれどいちいちそれを訂正するのも面倒くさいので、そこでのあだ名はそのままにしておいた。そういうぼくの心情を見透かしてか、佐久間さんはぼくを「福島くん」と呼んだ。それがぼくには心地良かった。


3 うなぎ 

中川の土手では様々な人々が行き交う。
犬の散歩をしている人、ランニングをしている人、何だかよくわからないけれどふらふらしている人、そしてぼくのようにペットボトル釣りをしている人。
思った以上に人から声をかけられる。

一番多いのは
「え? 何してるんですか? 釣りしてるんですか? 竿は?」
というものだ。皆、魚釣りは釣り竿を用いてやるものというイメージが強いようで、川縁にペットボトルを並べているぼくに対して
「ん? それは何をしてるんだ?」と興味を持たれて話しかけられる。
「いや、うなぎ釣ってるんですよ。釣れないですけど」
とぼくはいつも答える。そうすると大抵
「ここの川で釣ったうなぎは食べられるんですか?」
と聞かれる。ぼくは
「まだ釣っていないので何とも言えないんですけれど、ぼくは食べるつもりでいます」と答える。

川で釣ったうなぎは、水槽などで飼って一週間ほど泥を吐かせれば臭みも抜けて良いという話をよく聞くが、ぼくはこの泥抜きに関しては若干懐疑的である。
確かに川の底は泥地になっており、そこに棲む生物をうなぎは捕食しているわけだからうなぎに泥の臭いが染み着いているという理屈はわからなくもない。
しかし、その理屈から言えば最も臭くなっているのは当然ながら内臓なわけであって、釣り上げてから迅速に内臓の中身を傷つけずに取り出せば、身の部分にはさほど臭いは付着しないのではないか、というのがぼくの見立てだ。
そもそもぼくの家にはうなぎを一週間も飼育しておくような水槽はないし、仮にうなぎを一週間も家の中で飼育していたら間違いなく愛着が湧いてしまって、それは食べる対象ではなくなってしまうだろう。図鑑などで見るうなぎの顔は、見ようによっては獰猛そうに見えなくもないが、とても可愛らしい顔をしている。一週間も飼ったらもうアウトだろう。可愛くなってしまう。
また、泥抜きの期間はうなぎには餌を与えないらしい。餌を与えないということは身が痩せていくことを意味するので、それは旨味という観点からはどうなんだ、とぼくは思っている。
ぼくはうなぎが釣れたらその場で首の後ろ側を包丁で切り、しっかりと血を抜いてから氷で〆て持って帰る。そして食べるつもりでいる。多少臭みがあるようならば、臭みを打ち消すようなタレと共に食べれば良いだけだ。

釣れたら、の話だけれど。

中川で遊ぶ人たちの中で、ぼくが個人的に困るのはスケボーで遊ぶ人たちだ。
マナーが悪いから困る、ということではない。むしろスケボーで遊ぶ人たちはとてもマナーが良い。夕暮れのオレンジが彼らを照らしている中で思い思いにスケボーを走らせたりジャンプをしたりするのを見ると、かっこいいなあと思ってしまう。表情は活き活きとしていて、見ていて羨ましい。
問題は、スケボーのジャンプの着地の瞬間なのである。
スケボーがジャンプして地面に着地した瞬間に、ゴトン、という音がする。それはペットボトル釣法の最も興奮する瞬間、魚が餌に食いついて糸を引きペットボトルが倒れる瞬間の「ゴトン」という音に酷似しているのだ。

近くにスケボーで遊ぶ人がいる。
ジャンプをして「ゴトン」という音がする。
その音を聞いた瞬間にぼくは「アタリか?」とペットボトルを見る。この瞬間ばかりは、比喩ではなく実際に胸が高鳴る。しかしペットボトルはいつもと同じ様子で七本、川縁に鎮座している。アタリのゴトンではなく、スケボーのゴトンだったのだ。
とんだゴトン違いだ。

こういうことを繰り返していると、近くでゴトンという音がした時に「どーせウチじゃねーだろ、スケボーのゴトンだろ」と思うのであるが、そのようなことがいくつかあった後にペットボトルの数を数えると、一、二、三、四、五、六……ん? 六? あれ、一本足りない? ということが起きる。
いくつかのゴトンの内の一つはウチのペットボトル陣営が発したゴトンであり、それを見過ごしていたためにペットボトルは川に引きずり込まれているのである。

わわわ! アタってる!  急がなきゃ!
ぼくはペットボトルに駆け寄る。
このようにペットボトルごと川に引きずり込まれても糸の一部は川の手すりに必ず引っかかるように設置してあるので、その糸を手繰ればペットボトルも仕掛けも戻ってくる。
ぼくは大慌てで糸を手繰った。
手には根掛かりのような重い感触と、根掛かりではあり得ないようなぐんぐんと引く生体反応を感じ取る。
魚だ。それもかなり大きい。ついに念願のうなぎか! それにしても何だこの大きさは!

近くまで魚を寄せてきて正体が判明する。
ナマズである。しかも一メートル近い大きさである。
ナマズをつけたままそのまま糸を引き抜いたのでは、確実に糸が切れるのはわかっている。
水中では浮力が働くからその重さを糸で引っ張れるものの、それが空中に出て浮力の恩恵が消えてダイレクトに重力を感じては糸が切れてしまう。ぼくは糸を片手でつかんだまま、もう片方の手で近くにあるタモ網をつかんでナマズに網を寄せる。
ナマズが大き過ぎて簡単には網に収まってはくれないが、何度か向きを工夫すると網に収まってくれる。網に収まったナマズを力ずくで地上に引き上げる。

近くでスケボーをしていた若者がそれを見ながら
「何だあれ! でけえ!」と近寄ってくる。
「いやー、ナマズです。大きいんですけどね、これじゃないんですよ」と苦笑い混じりに答えるぼくの声は、ナマズとの格闘で随分と震えている。
地上に打ち上げられたナマズを見ると、針は口の部分に綺麗にかかっている。ほっとする。これは逃がすことができる。
ぼくはナマズの口をつかんで少々強引に針を外した。良かった、余計な傷はついていない。「バカ野郎、いてえよ」という感じでナマズがぼくを睨む。ごめんごめん、と言いながらナマズの身体をもう一度タモ網の中に戻してから水中に再び放す。ナマズはまた悠々と水中を泳ぎ始める。

もしも針を飲まれてしまっていたら、針を外した後にもう一度水中に逃がしてもすぐに死んでしまうのだ。エラが傷ついていたらそこから大量に出血してしまう。エラは人間でいう頸動脈みたいなものだ。頸動脈に傷が入ってしまってはもう助からない。内臓にまで針が到達していたらもちろんアウトだ。そのような場合はもう諦めて魚にはその場で死んでもらう。
脳天に刃物を突き刺して即死させた後、エラをナイフで切りそこから放血させる。脳死はしていても心臓は動いているのでそこから出血してくれるのだ。一通り血が抜けたら、腹を裂いてエラと内臓を取り出し、捨てる。身体の部分に付着した残りの血と内臓を綺麗に水で洗い流してから、氷でキンキンに冷やしたクーラーボックスの中に入れて身を〆る。これでかなり臭みが取れる。
海ではなく川の魚なので、それでも臭いが残っている場合には、しっかりとにんにく醤油に漬け込んだ後に油で揚げてしまう。竜田揚げもしくはフライの体裁をとるのだ。
「正義」という言葉はぼくの最も嫌いな言葉の一つだが、ここでは「揚げ物は正義」という言葉を使いたい。揚げ物にしてしまえば大体の魚は食べられる。揚げ物にしても臭みなどにより食べられない状態の魚というのは、よほど持ち帰りの際の処理が甘いのだ。血抜き、氷〆などの処置を適切に行って、しかるべき調理をして食べる。奪う命への最大限の敬意を払いたい。
こうして考えると釣りというのは非常に業の深い遊びだ。常に殺生がつきまとう。いたずらに命を奪うだけというのはやはりぼくは避けるべきだと思う。

実はぼくはナマズを調理したことがなかったので、もしもナマズが針を飲んでしまっていたら持ち帰って調理をしなければならなかったので内心冷や冷やしていたのだが、幸いにして針を飲んでいなかったのでリリースすることができた。

川に再び目を移すと、先ほどリリースしたナマズが元気そうにまだ川面を泳いでいるのが見えた。


4 さくま 

佐久間さんがどういう人だったかというと、簡単に言ってしまえば下町の気の良いおっちゃんだった。
知らない人が見たら口の悪い横柄なオヤジに見えたかも知れないが、下町で育ったぼくからすればその口の悪さは一種の方言みたいなものだ。下町の人間、特にある程度年齢のいったおっちゃんたちは特別に他意もなく「バカだな、おめえは」と言ったりする。それを真に受けて「いや、バカだなんてそんな失礼な……」と傷ついていたら身がもたない。
「バカだな、おめえは」と言われたら返す刀で「うるせえよ」と言っておけば良い。歳上の方に対して「うるせえよ」は失礼かなと思う人は「うるせえっすよ」で良いし、それもまだ失礼にあたるかなと思う人は「おうるさいでございますよ」ぐらいで良い。それも無理な人は下町に住まない方が良い。

深川育ちの佐久間さんも口が悪かった。

ぼくはその日居合わせたわけではなくて、後日人づてに聞いた話なのだが、ある日「左くま」に有名な男性アイドルが食事に来たことがあるそうだ。
芸能人やアイドルに疎いぼくだけれど、そのアイドルのことは何となく知っていた。アイドルの彼は非常に野球に明るくてよくスポーツニュースに出ていたからだ。彼の生まれ育った地元が「左くま」の近くだったそうで、昔からの男友達との食事会に「左くま」を選んだそうだ。インターネットで見つけたらしい。看板にろくに灯りも点けていない「左くま」がインターネットに店の情報を載せるような殊勝なことをしていたのにぼくは少し驚いたが。
その男性アイドルはやはり相当な有名人だったらしく、来店した瞬間に他の常連客たちは「おおっ、○○さんだ!」と色めいたそうだ。
佐久間さんは全く気づかなかったそうで、注文が一段落した辺りで
「ようニイチャン、えらくハンサムだな。何やってるんだ」
と話しかけたそうだ。知らない佐久間さんから見てもやはり他の人たちとは一線を画すぐらいにはハンサムだったそうだ。
周りにいる人たちは「アイドルの○○さんだよ、佐久間さん何言ってるんだ! 失礼なこと言うなよ!」と内心びくびくしたそうだが、そのアイドルも
「一応、テレビとかに出る仕事をしています」
と答えてくれたそうだ。
佐久間さんは
「そうか、おれは知らねえな! おれに知られるようになるまで頑張れよ! わはは!」
と失礼極まりないことを言ったそうだ。
男性アイドルは
「いや、ぼくそこそこ有名なんですけど……でも、頑張ります!」
と言ってくれたそうだ。めちゃめちゃ良い人じゃないか。ぼくは今でもその男性アイドルをテレビで見るたびに
「佐久間さんが失礼なことを言ってすみませんでした。大人な対応をしてくれてありがとうございました」と思う。
口は悪いけれど、有名人だとかどこかのお偉いさんだとかに媚びへつらうことなく、いつでも佐久間さんは佐久間さんだった。
周りの人たちの話では、その男性アイドルは友達と昔話に盛り上がり、それなりに酒を飲んで酔っぱらい、上機嫌で帰って行ったそうだ。単なる良い客じゃないか。

「左くま」の料理はどうだったかと言うと、これが抜群に美味かった。一度佐久間さんにどこかで修行したことあるんですか、と尋ねたことがある。どうやら少しぐらいはどこかの料理屋に丁稚のような形で習いに行ったことはあるらしいが、おおよその段取りを見て覚えたらすぐにそこから離れてしまったらしい。
ド素人が一週間ほど働いて「よし、もう大体わかった」と辞めていくのである。
ナメてんのか、と思う。
ナメてるんだと思う。
けれどそこは何というか不思議な勘の良い人で、大体の成り立ちと仕組みを把握してしまうと、あとは自分であれこれと工夫しながらモノにしてしまうような所のある人だった。ぼくは後にも先にも「左くま」で食べた以上に美味い鳥のつくね串焼きとレバー串焼きを食べたことがない。
軟骨のコリコリとした食感と鳥の旨みがが渾然一体となったつくね串焼きと、臭みゼロで芳醇なコクが広がるレバー串焼きは絶品だった。焼き加減も絶妙だった。ちゃんと修行もしてないくせに何なのだろう。軽くムカつく。

人に何かを習うのが嫌いな佐久間さんが、ある時にサックスを始めた。多分ピアノを始めた池内さんに触発されたのだと思う。テナーサックスをどこかから調達してきて、
「おれはデクスター・ゴードンが好きなんだ」
と一丁前なことを言っていた。デクスター・ゴードンは、ジャズの黄金期を生きた名テナーサックス奏者である。小手先のテクニックに堕さずに大きなメロディを朗々と歌うそのプレイスタイルは、多くの聴衆を魅了した。ぼくも大好きなサックスプレイヤーの一人だ。
「ああ、デクスター・ゴードン、良いですよねえ。ぼくもたくさん聴きました。『アワ・マン・イン・パリ』とか『ゴー』とか」
と言うと
「何だ、福島くん、ちょっとは知ってるじゃねえか」
と佐久間さんは言ったが、当たり前だろ、ぼくはこれが仕事だぞ。

最初は音の出し方もわからなかったので、さすがの習い嫌いの佐久間さんも近所の音楽教室へサックスを習いに行った。
「左くま」へ行く度に
「佐久間さん、レッスンどうですか? 順調ですか?」
とぼくは聞いたりしていたが
「もうばっちりだよ、だいぶ音が出るようになってきた」
と佐久間さんは得意げだった。
それがしばらくした後にいつものように
「佐久間さん、レッスンどうですか?」と聞くと、
「辞めた。やっぱり人からあれこれ指図されるのは性に合わねえ」
と一言。
ああ、いつもの調子でおおよそ把握したから後は自分で工夫しながら何とかするということなんだろうけれど、楽器はそんなに甘くないぞー、大変だぞー、とぼくは思っていた。
それでも佐久間さんはサックスを吹くのは楽しかったみたいだ。
練習をするのは良いのだが、店の営業時間中に練習をする。客がオーダーをしても
「うるせえ、今はダメだ!」
と言って自分のサックスの練習に没頭する。
これが上手ければ良いのだが、てんでダメであった。リズムという概念が基本的に欠落しているので、ごく控えめに言ってムチャクチャへたくそだった。
ひとしきりサックスを吹いた後にぼくに向かって
「福島くん、どうだい? おれも少しはデクスター・ゴードンみたいになってきたか?」と尋ねられたので、「全然なっていません」と正直に答えた。

楽器は、料理と同じようには行かなかったみたいだ。


5 うなぎ 

ぼくは正義という言葉を好んで使う人間のことをあまり信用していない。

おそらくそれはぼくが若い頃にインドやパキスタンをふらふらとしていた頃のとある事と無関係ではない。


それは二〇〇一年のことだった。

二〇〇一年の九月一一日という日付を聞いた瞬間に今でも複雑な感情を抱く人は少なくないだろう。アメリカでの同時多発テロが起こった日付である。ぼくはその時にパキスタンの山奥、フンザという村にいた。

何者かになりたいと願うのは若者特有の願望かも知れない。なぜならばまだその時点では自分は何者なのかがわからないからだ。しかしそれが次第に成長するに従って、良くも悪くも自分は自分以外の何者でもないことを知ることになる。例えばぼくがジャニーズ系のイケメンフェイスを持って生まれていたならば人生はいくらか違ったものになったのかも知れないが、あいにくぼくにはそんなものは備わっていない。
「福島くんの横で写真撮ると自然な小顔効果がある!」と女性に謎の喜ばれ方をするようなデカヅラ面白フェイスでもって生きていく以外にないのだ。そもそも女性と写真なんて滅多に撮らないけれど。

自分は何者かになりたかったのかも知れない。そんな気持ちでぼくはインドやパキスタンをうろうろしていたのではないだろうか。もちろん今はぼくはぼくでしかないので何者かになりたいなどとは全く思わないが、その時はそんな気持ちがあったのかも知れない。
「やばい! ぼくは何も積み上げてきていない! ぼくには何もない! そうだ! インドに行けば何とかなるかも!」と。
何とかなるわけねえだろ。

インドを数ヶ月ふらふらしていた時に、隣国パキスタンに日本の名作アニメ「風の谷のナウシカ」の舞台になったという噂の村があると誰かから聞いた。ぼくは「風の谷のナウシカ」の熱心なファンであったので、よしそこに向かおう!とその場で決心した。目的も何もなく、時間だけが有り余る若者の特権である。

フンザの情報を得た時、ぼくはインドのバラナシという街にいたのだが、そこからえっちらおっちらと電車を三日ほど乗り継いでインドとパキスタンの国境の街アムリトサルへ行ってから歩いて国境を越えた。国境を越えたパキスタン側の街はラホールという街だった。そこからはバスに乗ってラワールピンディという首都の隣街へ、更にバスを乗り継いでギルギットという山奥の村へ、更にバスを乗り継いで目的地のフンザへ。パキスタンに入国してから目的地のフンザへ到着するまでに一週間弱もかかったように記憶している。どれだけのんびりと移動しているのだ。

フンザが本当に「風の谷のナウシカ」の舞台になっていたかどうか、その真偽のほどをぼくは未だに知らない。けれどそこはそのように噂されてもおかしくないほどに「風の谷」であったし、極めて美しい所だった。ぼくはあまりにそこが気に入ってしまい、一ヶ月以上その村に滞在していた。
滞在していて何をしていた訳でもない。毎日ぼんやりと谷に吹く風を聴いていたり、惰眠を貪ったりしていた。率直に言ってクズである。

その滞在が一ヶ月を越えた辺りが二〇〇一年の九月一一日だった。

その日アメリカでそんな事件が起こっていたことをその時のぼくは知らない。その当時は世界のどこにでもインターネットがあるような時代ではなく、とりわけパキスタンの山奥などでリアルタイムの世界情勢を知ることなど不可能だった。

しかし、その数日後にやってきた旅行者が「なんかよくわからないけどここは危ないから出て行った方が良いらしい」と言い出した。「なぜ?」と聞いても「わからない。何か飛行機事故か何からしいのだけれど」と言う。それはそうだ、情報がないのだから、わかりようがない。ただ、「よくわからないけれど結構ヤバい」と。

ぼくを含めた旅行者たちはみな悠長に構えながらも「うーん、でも出て行った方が良いなら出て行くかー」とぼちぼちと荷物をまとめ始めた。ぼくも荷物をまとめてその数日後ぐらいにフンザを出た。

フンザからギルギットへ、そしてラワールピンディからラホールへと、来た時の道を逆方向に向かい、ぼくはインドに戻った。

当時、インドではパキスタンよりも遙かにインターネット事情が良かったので、インドに戻ったところでアメリカの同時多発テロが起きていたことを初めて知った。高層ビルに飛行機が突っ込んで爆発するその映像を初めて見たときには、ものすごく凡庸な言い方になるが「嘘みたい」に思えた。
アメリカの多くの人々の命が、嘘みたいに、一瞬で奪われていった。

こんなことが起こっていたのかと驚愕した。そしてそれは今後一種の宗教戦争の様相を呈するだろうとすぐに予感した。なるほどぼくたち旅行者が国外に退去せよと言われたことにもそこで合点がいった。

もちろんその予感は的中した。

それからしばらくしてからぼくは日本に帰国したのだが、連日テレビで行われる報道にものすごい違和感とたまらない息苦しさを感じたことをはっきりと覚えている。

テロの犯人は悪のイスラム諸国であり、アメリカはそこに正義の鉄槌を落とさなくてはならない、と。

とりわけ当時のアメリカ大統領であったジョージ・ブッシュの放つ「正義」という言葉にぼくは嫌悪を覚えた。

すぐにアメリカを中心とした周辺諸国が、テロの首謀者であるとされたイスラム過激派アルカイダの引き渡しに応じなかったアフガニスタンに対して攻撃を始めた。極めて多くの血が流れ、アメリカ側もアフガニスタン側も、たくさんの人々が死んだ。そこには何の罪もない民間人も多く含まれていた。

何が正義だ、と思った。

量としては少ないながらもぼくの個人的な体験から通して言えば、イスラム教徒は非常に善良である。穏やかで真面目で、ぼくもパキスタンでイスラム教徒の人々に何度親切にしてもらったかわからない。

何の宗教であっても、過激派はヤバい。自分たちの正当性を主張し過ぎるが余り、自分たちと異なる他者を排除するということが少なくない。異なるもの同士が異なるままに共存するという道を選択せずに、全てを一つにしようとする。その為ならばテロも辞さない。
しかしそれはごくごく一部の過激派であり、イスラム教徒のほとんど全ての大部分の人々は平和に生きることを願っている。
フンザのおじいさんが民族衣装のシャルワールカミースを風にたなびかせながら聖地メッカへのお祈りを捧げているのを見るたびに、「これはこれで一つの平和の形なんだよなあ」とぼくは思った。

その彼らが、「悪」とみなされることに、ぼくは今でも強い反発心を抱いている。

正義を語る人間は、容易に「悪」を設定する。正義と悪という単純な二項対立の構図を作らないことには自らの正義を発動することが困難であるからだ。
だが、それは果たして本当に「悪」なのだろうか。そしてあなたは本当に「正義」なのだろうか。

自分は「良いこと」をしていると思ったときこそ、一回自分と距離を置いた方が良い。被災地に募金をする時なんかがそうだ。そういうことをしている自分に酔うのはなるべくやめて、ぼくはぼくを納得させる為に、自分の満足の為にやっているというぐらいの感覚でいないと、あっという間に「正義」に酔ってしまう。正義ほど人を簡単に狂わせるものはない。


こんなにも正義という言葉を忌避して、その使用に慎重になるぼくであるが、ついつい使わざるをえない場面がある。そう、先ほども言ったが
「揚げ物は正義」
である。ジャスティスであるのだ。

川での釣りにおいては、この「揚げ物は正義」の言葉を実感することが少なくない。例えばシーバスの場合。
うなぎ釣りの際に一番お目にかかることの多い魚はシーバスである。
その魚がシーバスと呼ばれ始めたのは最近のことで、昔から現在に至るまで、この魚は別の名前で呼ばれていた。
この魚は出世魚である。出世魚というのはその成長と共に呼び名を変える魚のことである。一番有名なのはブリだろうか。ブリの場合、
・三〇センチ未満のものをワカシ
・五〇センチ未満のものをイナダ
・八〇センチ未満のものをワラサ
・八〇センチ以上のものをブリ
と呼ぶ。ちなみにこれは関東での呼び名であり、関西はツバス、ハマチ、メジロ、ブリと変化する。

同様にシーバスも
・四〇センチ未満のものをセイゴ
・六〇センチ未満のものをフッコ
・六〇センチ以上のものをスズキ
と呼ぶ。
シーバスという呼び名は、日本に輸入されたブラックバスが釣りの対象魚として定着し始めた頃に、川や沼に棲むブラックバスに対して海(Sea)に棲むバス(Bass)としてシーバスと呼ばれ始めた。ブラックバスとシーバスはその習性などに非常に似通ったところがあるのだ。
ただし、シーバスという名前のくせにこの魚はどこにでもいる。ぼくがうなぎを狙う中川はまるっきり海ではないのだが、シーバスがたくさんいる。シーバスは海でも釣ることができるし、川にもいるのだ。

以前、ぼくは神奈川県の海でスズキサイズのどでかいシーバスを釣ったことがある。ボートで海に漕ぎ出して最初に小さなアジを釣り、そのアジを餌として泳がせていたときに食いついてきた。八〇センチを越える大きなシーバスだった。それはその場で即座に血抜きをした後に氷で〆て持ち帰り刺身などで食べたが、絶品だった。白身の上品さと魚の脂の旨みのバランスが非常に良く、臭みなどは一切なかった。ヒラメなどの味に近く、ぼくの中でシーバスは「とても美味い魚」としてインプットされた。

しかし、一度中川で釣ったシーバスを家に持ち帰って食べた時にはその限りではなかった。四〇センチ前後のセイゴとフッコの中間ぐらいのサイズだったのだが、針を丸飲みしておりエラに傷がついてしまっていた。そのままリリースしてもすぐに死んでしまうことはわかっていたので、その場で血抜きをしてから持ち帰った。
塩焼きにしてみたのだが、全体にほんのりと泥臭さがあった。美味いかまずいかで言えば、どちらかと言えばまずかった。
以前にも述べたように、魚を美味く食べられないのは釣り人の責任である、とぼくは考えている。この時に泥臭さが残るままに調理してしまったのはぼくの責任なのである。
〆方には問題はなかったはずだ。その場における迅速な血抜きと氷〆、これ以上はぼくの持っている装備では無理である。ということは、川で釣るシーバスの個体にはある程度は臭みがある、という前提で料理をしなくてはならない。
ここで活躍するのが「福島汁」である。ジップロックの袋の中に醤油と酒を一対一の割合で入れ、その中にすりおろしのにんにくとすりおろしの生姜をこれでもかと入れる。こうして作られたのがぼくの名前を冠した「福島汁」である。
この汁の中に魚の切り身を漬け込み、もみ込む。これにより、川に棲むシーバスからどうしても消すことのできない臭みを打ち消すことが可能になる。
あとは片栗粉をまぶして揚げてしまえば、シーバスの竜田揚げの完成である。食べるときには下品なぐらいにレモンを搾りかけるとなお良い。口の中に広がるのはにんにくと生姜のパワフルな味わいであり、その奥の方に川魚の臭みがいるような気がしないでもないが、あまりに奥の方過ぎてよくわからない、ということである。
ここにおいて、根っからの正義嫌いのぼくが
「揚げ物は正義」
と言いたくなるのは仕方のないことなのだ。

ただし、一つだけ注意点を挙げておきたい。
シーバスの切り身を取った時に幾らかのアラが出る。このアラを使ってダシを取るとなかなかにひどいことになる。魚のコクと泥臭さが混じり合ったえもいわれぬダシができ上がる。ぼくは一度それで雑炊を作って失敗している。残念ながら川で釣ったシーバスのアラは捨てるより仕方ない。

ペットボトルがゴトンと倒れてそこに駆け寄って糸を手繰る。強烈な引きと共に釣り上げられたのはやはりシーバスであった。
針は?
呑んでいる。
仕方ない、帰り道のスーパーでにんにくと生姜のすりおろしのチューブを買って帰るかとぼくは心に決めた。

揚げ物は正義、とぼくは一人で呟いた。

6 さくま 

「左くま」にはいろんな人たちが集まった。立場や主張を越えて、飲み屋ではみんなが平等でなければいけないというのは佐久間さんのポリシーだったのかも知れない。そして店で一番偉いのはおれであるという主張も忘れていなかった。困った人だ。

「左くま」の上の階はアパートになっているのだが、そこに引っ越してきたのが「ハマちゃん」である。
大阪で生まれ育った彼はそのまま大阪で働き家族を持ったが、ある日会社から単身赴任を命じられて東京にやってきた。二〇〇七年のことだったそうだ。
通勤条件や生活のしやすさなどを考えて東京の住まいを探していたところでたまたま見つけたのが新小岩の「左くま」の上のアパートだった。

引っ越してきてからしばらくは「左くま」をなかなか訪れられなかったそうだ。それはそうだろう。シャッターが半分閉まっていて営業しているのかいないのかわからないような店はなかなかに敷居が高い。それでもずっと気にはなっていたようで、ある日意を決して店のドアを開けたそうだ。
「上に引っ越してきた者です、挨拶に来ました」
とハマちゃんは言った。
「何だお前、大阪者か。まあ良い、入れ」と佐久間さんは偉そうに言った。ハマちゃんの話す言葉の抑揚で佐久間さんはハマちゃんを大阪生まれの人間だと即座に判断したようだ。
ハマちゃんが店の上に引っ越してきたいきさつを一通り聞いた後に、佐久間さんは店の常連たちをハマちゃんに紹介したそうだが、ハマちゃんは緊張していたせいもあって誰が誰だか全く覚えられなかった。何度通っても覚えられなくて、「内山さん」だか「内川さん」だかわからない時には「あ、うちやわさん」みたいなどちらとも聞こえるようなやり方でお茶を濁していたそうだ。
実はぼくも人の顔と名前を覚えるのがとても苦手なのでこれはとてもよくわかる。それはぼくの場合はあまりに自分勝手なので他人にほとんど興味がないという人間的な欠陥からきているのだが、ハマちゃんもそうなのだろうか。
ほどなくしてハマちゃんは「左くま」に居場所を見つけた。大阪から一人でやってきてどこにも居場所がなかったハマちゃんにも腰を落ち着ける場所ができた。

居場所を見つけたきっかけは競馬だった。ハマちゃんは昔から競馬が好きで、土曜と日曜の休みには小遣いの範囲内で競馬に興じる。今は時代も変わったもので、競馬場や場外馬券売場に行かなくても携帯電話から馬券が買える。ハマちゃんは携帯電話にその馬券を買うための手続きをしていたので、ぽちぽちと携帯電話のボタンを押すだけで気軽に馬券が買えた。
競馬が好きな他の常連たちが「ハマちゃん、おれの馬券も買っといてくれよ」とハマちゃんに頼んで現金を渡して馬券の購入を頼んでいた。ぼくも頼んだことがある。法律的にはアウトなのかセーフなのかわからない。多分ぎりぎりアウトな気がする。
ハマちゃんはたまに遊びの範囲内で野球賭博の胴元をやったりもしたが、これはどこからどう見ても法律的にアウトだろう。

ハマちゃんの馬券購入代行を利用していた人の一人に三島さんという人がいた。「左くま」に肉を卸していた肉業者のおっさんだ。特徴は頭の先からつま先までにじみ出るチンピラ臭であり、誰が見ても「その筋」の人だったのだが、肉業者になる前には本当にその筋にいたのかどうかは誰も知らない。
三島さんは土曜の昼には必ず「左くま」にいた。肉を卸したついでに上に住んでいるハマちゃんを呼び出して競馬をするのだ。ハマちゃんはその状態を「競馬喫茶左くま」と呼んでいた。
三島さんは大きな声でひたすら下品なことを話し続けていたそうだ。
「ギャンブルと女体の話しかせえへんねんで、あの人」
とハマちゃんはそれを思い出しながらぼくに語ってくれたことがある。そこまでわかりやすく下品だとむしろすがすがしい。競馬は外れてばかりだったがまれに配当の大きな馬券を当てるらしく、その際には三島さんの下品トークにターボがかかったそうだ。

三島さんは真性のクズであったので、ある日「左くま」の売り上げ金を盗んだ。
佐久間さんも金庫でしっかりと売り上げを管理していた訳ではなく、無造作にその辺に現金を置いていたのでセキュリティがなっていないと言えばなっていないのだが、それでも売上金を盗むとはふてえ野郎だ。多分、ギャンブルの借金が嵩んだか、どこかの女に入れあげたかという所だろう。
金額がそれなりに大きかったせいもあって、佐久間さんはすぐにそれに気付いたが、もうそれは仕方ないとすぐに諦めたそうだ。それは三島さんがチンピラであったから追及するのが怖いというのもあったのかも知れないが、佐久間さんは見事に金に対する執着が欠けていたので、純粋に興味がなかったのだろう。
三島さんは「左くま」の金を盗んでしまってから気まずくなってしまったみたいで、そこから「左くま」には来なくなってしまった。
気まずく感じるなんて、そういう所は多少良識みたいなものがあるのかなと思わなくもないが、きっと今でもどこかで元気いっぱいにギャンブルと女体の話だけを大声でしながら適当に金を盗んだりしているのだろう。
真性のクズはそう簡単には直らない。
その後誰も三島さんを見ていない。

ハマちゃんだけは店に来るといつも佐久間さんに「お前、何しにきたんだ」と言われていた。それは佐久間さんなりの歓迎の仕方であったのだが、ハマちゃん「だけ」と書いたのは、他の人にはいつも決まり文句があったからだ。
佐久間さんは客が店に来ると必ずぶっきらぼうに「おう」と言った後に「腹、減ってねえか」と聞くのだった。
どうやら佐久間さんの価値観として、人間の最も悲しい状態が腹を空かせた状態だということらしかった。ぼくも必ず「左くま」に行くと「福島くん、腹、減ってねえか」と聞かれた。
そしてどうやら腹を空かせた人を見ると放っておけない、何とかしたいという情が働くらしかった。

ある日、店の前で座り込んで途方に暮れている青年がいた。佐久間さんは
「おい、お前そんなとこに座り込まれたら迷惑じゃねえか。どうしたんだ」といつもの調子で尋ねた。
青年は家の鍵をどこかでなくしてしまって家に入れなかったそうだ。店からすぐ近くのアパートである。
アパートの管理会社に電話しても営業時間外で繋がらない。手持ちの現金も底を尽きた。外は寒い。どこかに行こうにも金がない。まさに八方ふさがりの状態だった。
佐久間さんは事情を聞いてから「中に入れ」と言って「腹、減ってねえか」と聞いて青年に食べ物を出した。出し終わると、店の奥から紙とペンを持ってきてごそごそと何かを書き始めた。
それは借金の念書だった。
「お前、ここにサインしろ」
と言って青年に強制的に五千円を貸し付けた。
突然の押しつけ借金に唖然としながらも、青年はその五千円を持って二四時間営業の漫画喫茶に行って寒さをしのぐことができた。
翌朝、管理会社に電話して無事アパートに戻ったそうだ。

お節介と言えばそうなのだが、佐久間さんのそういう他人を放っておけない性分をぼくはとても好きだった。ぼくはとても薄情な人間なのでそこまで他人に介入はしない。だから、それはぼくからしてみればどこか憧れのようなものなのかも知れない。

「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド(2)に続く)


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