ダウン・バイ・ザ・リバーサイド(3)


15 うなぎ 

奥戸の向かいの立石方面に、今まさに夕日が沈んでいくところだった。

偉大な作曲家であり有能なバンドリーダーであり、そして稀有な天才ピアニストでもあったデューク・エリントンの佳曲「シングル・ペタル・オブ・ア・ローズ」がぼくの頭の中で流れていた。半ば眠り、半ば覚醒しているかのような夢見心地にさせられるメロディから、エキゾチックな音階の下降によって作られるサビのメロディへの展開が本当に美しいこの曲は、数あるエリントンの曲の中でもぼくの大のお気に入りの一つだ。
エリントン本人の演奏も文句のつけようのない傑作だが、ぼくは南アフリカが産んだピアノの巨匠、アブドゥーラ・イブラヒムの演奏が好きだ。
大地にしっかりと根を生やした大樹から、慈しむかのように一音一音がこぼれ出す。そしてそれはいつの間にか一輪の花を咲かせる。そんな演奏だ。
大好きで何べんも何べんも聴いている内に、頭の中でも勝手に再生されるぐらいに覚えてしまった。
ぼくはそもそも携帯型の音楽再生機器があまり好きではない。いつでもどこでも頭の中で鳴らしたいので、何べんも飽きずにそのレコードを聴く。いつの間にか、どこでも脳内で再生可能になる。ぼくに携帯型音楽再生機器はあまり必要ない。

頭の中でアブドゥーラが最後の一音を深淵に鳴らし終わったところで、ぼくは次の脳内楽曲は同じくアブドゥーラの弾くエリントンの「カム・サンデイ」にしようかな、などと考えていたら、目の前のペットボトルがゴトンと倒れた。

アタリだ。

少々小走り気味に倒れたペットボトルに駆け寄る。地面でペットボトルが回転しながら糸が川に向かってするすると出て行く。間違いない、魚だ。

倒れたペットボトルを起こしてから、左手を前にして両手で糸をつかんだ。糸をつかんだ左手を川に向けて伸ばす。右手は胸の位置だ。糸にたるみがないことを確認して、川に向けて伸ばした左手を、糸をつかんだまま頭上に思い切り引き上げた魚の口に針を食い込ませる「アワセ」である。
ぼくの左手に大きな衝撃が残った。それは魚の反応だった。アワセが決まった。何かがいる。しかもかなりデカい。

左手でたぐってきた糸を右手に持ち替えて、その右手を斜め下に降ろして糸を離す。再び左手を川へ伸ばして糸をつかみ、たぐり寄せてそれを右手に持ち替える。カタカナの「ハ」の字を両手で描いていくような要領だ。川に延びた糸を持つ手に時折魚が頭を振るような衝撃が伝わる。一体お前は誰だ。

強烈な魚の引きを左腕の肘や手首を少し緩めたりしながらやり過ごす。引っ張って来た糸が少しずつ足下に溜まっていく。針はそれほど遠くには投げていないはずだ。そろそろ魚の姿が見えてくるだろうと思ったところで、その黒く長い魚体が水面に姿を現した。

うなぎだ!
大きい!

ぼくは糸を離さないようにしながら後ろを振り返ってタモ網を目で探した。
あった。
先ほどまで腰掛けていたベンチのところにタモ網が立てかけてあった。糸をつかんだまま後ずさってベンチまで近づき、タモ網を右手に持った。タモ網を持ったらもう一度川に近づいていく。川の手すりにタモ網を立てかける。もう少しだ。
先ほどと同じ「ハ」の字の要領で糸をたぐる。うなぎはもうすぐそこまで来ている。
足下の水面にうなぎが来たところで右手でタモ網をつかんだ。あとはこのタモ網にうなぎを入れてしまえば。ぼくの手は興奮でぷるぷると震えた。

水面にタモ網を伸ばしたが、うなぎが長すぎて綺麗に網に収まってくれない。掬おうとしてもするりと逃げられてしまう。ぼくはうなぎの口に目を凝らした。針の掛かり具合を見た。大丈夫だ、針はしっかりと口にかかっている。糸が切れない限りは針が口からはずれることはなさそうだ。慎重にタモに入れさえすれば。

タモ入れを何度か試している内に、偶然にもうなぎの頭がタモ網の中を向いた。魚は後ろには泳げないはずだ、今がチャンスだ、と思ってタモ網を魚にかぶせるように動かした。

入った!
今だ!

タモ網を水面から持ち上げる。大丈夫だ、うなぎは中に入っている。落ちるな! 岸に上げてしまえばゲームセットだ!

半ば地面に投げ捨てるような形になってしまったが、うなぎが地面に打ち上げられた。ついにうなぎが釣れた。ぼくはまだ興奮で震えていた。
そうだ、針をはずさなきゃ、と思ってうなぎに向かったが、うなぎは地面の上でぐねぐねと動き回り、その身体で数字の8の字を作り始めた。それと同時に仕掛けの糸がうなぎの身体にどんどん絡まっていく。
わわわ、と動揺しながら、ぼくは道具箱へ駆け寄ってハサミを取ってきた。もうこうなったら仕掛けごと糸をどんどん切断していくしかない。
ぬるぬるとしたうなぎの魚体はなかなかうまくつかむことができなかったが、タオルで魚体をつかみながら身体に絡まった糸をハサミでどんどん切断した。次第に身体から糸が取れていく。最後に口に刺さった針を持ってきていたペンチではずした。

持ってきていたバケツにうなぎを入れて、脱走しないように上からネットをかぶせた。
ぼくはついにうなぎを釣った。

夕日がすっかり立石方面に沈み切ろうとしていた。ぼくの口から「やった……」という声が細く漏れた。

ぼくはとりあえず一度、落ち着きたかった。現実感が希薄になったぼくの視界を今一度現実のものに戻したかった。額から汗が垂れて目に入った。魚をつかむのとは別の手を拭くためのタオルをとって、顔の汗を拭った。ミミズを触った手を拭いたりしていたタオルなので、少しミミズ臭かったが、そんなことは気にしていられなかった。持ってきた麦茶をクーラーボックスから取り出してぐびぐびと飲む。思った以上に喉が乾いていたみたいで、一気に半分ほども飲んでしまった。少しずつ呼吸が緩やかになっていくのが自分でもわかった。

バケツの中で身を曲げながら泳ぐうなぎをもう一度見てみた。本当に中川にうなぎはいたんだ。

いたずらにバケツの中で魚を弱らせてはいけないと思って、ぼくはうなぎを〆ることにした。

ネットをつけたまま、バケツの水だけを先に川に流し、その中から先ほどうなぎをつかんだタオルでうなぎをバケツから取り出し、地面に置いた。うなぎはまだうねうねと身体をよじっていた。

ごめんねと言いながらうなぎの首筋にナイフを突き立て、それを地面まで刺そうとした。うなぎの体表を覆うぬめりのせいで一度ナイフが滑ってはずれた。もう一度同じところを狙って慎重にナイフを突き刺す。今度はしっかりと刺さった。うなぎが徐々に、暴れるのをやめた。目の前で、はっきりとうなぎが絶命していく感覚があった。

ぼくは魚を持ち帰るときには必ずこうして一息に絶命させた後に血抜きをしてから持ち帰るようにしているが、そのたびにいつも「どんな綺麗事をぬかしたところで我々人間はこうして命を奪ってそれを喰らって生きている」という思いに駆られる。

生きることと死ぬことが、ぼくの中でとても近いことに思える。

命のあるものは必ず死ぬ。そして生きるためには命を喰らう。

首筋をナイフで切ったうなぎをメジャーで計測してみたら、六二センチだった。なかなかの大物だ。

もう一度バケツに水を汲んで、その中にうなぎを戻した。
うなぎの首から赤い血が流れ出して、その血が水の中で不思議な模様を描いていた。
残酷だけれど、その模様はどこか美しかった。



16 さくま 

佐久間さんは、有明から帰ってきた。そしていつものように「左くま」にいた。

佐久間さんが「左くま」に戻ってきたという話を聞いて、ぼくも嬉しくなって店を訪れた。
ぼくが行くと、タバコを吸いながら
「おう、福島くん、よく来たな、こないだはありがとな。やっぱりシャバは最高だな! タバコがうめえ!」
と佐久間さんは元気そうだった。いつもの店でのユニフォームである割烹着に身を包んで、頭にはトレードマークの手ぬぐいを巻いていた。いつもの佐久間さんだった。
「腹、減ってねえか」
やはりいつものように佐久間さんはぼくにそう尋ねた。
ぼくはお腹が減っていたのだが、店に来る前にあまりの空腹に耐えかねて駅前の立ち食い蕎麦屋でかきあげ蕎麦を食べてしまった都合で、店に到着した時にはそれほどお腹は減っていなかった。
「すみません、軽く食べちゃって。あんまり減ってないんですよ。ビールだけもらえますか」とぼくが言うと、
「しょうがねえな、せっかくあれこれ作ってやろうと思ったのに」と言いながら佐久間さんはビールを注いでくれた。
ビールをちびちびと飲みながら佐久間さんを眺めていた。客の前で割烹着をぺろんとめくって食道ガンの手術でできた胸の傷跡と、急激に痩せてしまった為にたるんでしまった腹の皮を見せたりして、気味悪がる客の反応を喜んだりしていた。佐久間さんは元気そうだった。

こうやって復活できたのには理由がある。
佐久間さんは、ガン治療の過程で「胃ろう」を選択したのだ。
胃ろうというのは、お腹に穴をあけてその穴から栄養剤や流動食を直接胃に送り込む処置のことで、佐久間さんのような食道ガンの患者は口からの食事が困難になり栄養不足から衰弱することも多いのだが、それを補うためにこの胃ろうを選択する人もいる。

ぼくは佐久間さんが胃ろうを選択したことに少し驚いていた。
それによって体力が回復して店に復帰できたのはもちろん嬉しい。しかし佐久間さんの性格からいけば、この胃ろうの処置は拒否するのではないか、とぼくは思っていたからだ。
胃ろうというのはガンの根本的な治療ではない。いわば延命措置の一種である。
お金にしても、商売にしても、色んなことに執着がなさ過ぎた佐久間さんは果たして「生」に執着するだろうか、とぼくは思っていた。
ものが食べられなくなっても構わない、一日でも長く生きていたい、というのが胃ろうの処置を行う動機だとするならば「そこまでしてまで生きていたくねえや」と言いそうなのが佐久間さんだった。だから、胃ろうの処置を行って体力を回復させて店に再び立っている佐久間さんを見たときに、ぼくは少なからず困惑したのだ。

けれど、いつものようにハマちゃんが店にやってきたら「てめえ、何しにきたんだ」と憎まれ口を叩いたり、ヤスオくんがやってきたら「おう、相変わらず日焼けしてるな!」と言う佐久間さんを見ていたら、佐久間さんは店に戻りたかったんだ、と思った。

かつてぼくは佐久間さんが、客が少なくなった夜更けに「おれはもう店を辞めてえんだよ」と言っていたのを聞いたことがある。
ぼくが「何でですか」と聞くと、佐久間さんは「いらっしゃいませ、とか、言いたくねえんだよ」と言った。
「おれは、本当に接客が嫌いなんだ。誰も客なんて来なくて良い。でも店をやってたらクソみてえな客にもそれなりに愛想を振りまかなきゃいけねえ。もうそれが本当にイヤなんだ。はあ、店を辞めてえ」
そんなことを言っている佐久間さんを見て、「じゃあ接客業なんてやらなきゃ良いじゃん」とはぼくは思わなかった。

ぼくもピアニストとして色んな仕事をする。状況に応じて様々な「音」を出す。その「音」は、「ああ、楽しいなあ、幸せだなあ」と思うものもあれば、「クソだなあ」と思うものもある。
自分が良いと思うものだけを発信できればそれは確かに幸せだが、ぼくの満足と仕事としての要求は、一致しないことの方が多い。「何でこんな音を出さなきゃいけねえんだ。こんなものクソだ」と思いながら仕事をしている時もたまにある。ぼくの感覚がズレているというか、劣っているのかも知れない。そもそもそういう仕事ならば受けなければ良いのだが、ぼくは生意気な割には一人ぼっちになるのをかなり怖がっているフシがあって、どんな仕事でも断らない。
受けたならば全てを笑顔でパーフェクトにこなすのがプロというものなのだろうが、ぼくはそこまで優秀ではないのですぐに顔に出る。お客さんから「お前は楽しそうな時とそうじゃない時の差がひどすぎる」と指摘されることも度々ある。ぼくはピアニストとして以前に、人としてかなり終わっているのだ。
ピアニストでありながら「何でこんなピアノ弾かなきゃいけねえんだよ」なんてことを思うことのあるぼくは、接客業に身を置きながら「接客したくない」と言う佐久間さんの気持ちをわからなくもなかった。

しかし、久しぶりに戻ってきた自分の店で楽しそうに客に憎まれ口を叩いている佐久間さんを見ると「ああ、この人は本当は人間が好きなんだ」と思わざるをえなかった。
ぼくは他人よりも自分が好きな人間だ。だから根っこの部分から本当にワガママなのだけれど、佐久間さんは違った。佐久間さんは根本的に他人が好きだった。ぼくは他人が苦手だ。だからいつでも一人の世界に逃げ込む。ぼくと佐久間さんの決定的な違いは、その他者に対する愛情の深さだった。

佐久間さんは店に戻りたかったのだ。そしてそこに集まる人たちに会いたかったのだ。だから、胃ろうを選択した。選択して店に戻った。それは、佐久間さんの最後の「さよなら」の序章だったのかも知れない。



17 うなぎ 

家に持ち帰ったうなぎをまな板の上に置いてまじまじと見ながら、改めて立派なうなぎだな、と思った。
以前の小さなうなぎとは、たたずまいからして随分と違った。
まな板の上でその胴回りをぐっとつかんでみたが、やはりなかなかの重量感だった。
一度うなぎを流しに入れて、タワシでゴシゴシと体表のぬめりを取った。ぬめりは全部取りきれなかったが、残りは後で再度やろうと思ってうなぎをまな板に戻した。

さて、と一息つき直してからぼくは千枚通しを手に持った。うなぎの目と首筋の間にしっかりと千枚通しを刺し込んでそれをまな板にしっかりと打ち込んで目打ちをした。
ぼくの家のまな板の横幅は五十センチほどしかないので、うなぎの尻尾の部分が十センチちょっとはみ出しているが、そこは何とかなるだろう。
事前にしっかりと研いでおいた出刃包丁をうなぎの背中に刺して、そこから身を開いていく。
身はかなり固く、ぎゅっと締まっていた。包丁もするするとは進んでいかないが、内臓を傷つけないように気をつけながら少しずつ中骨と身を切り離していく。予想通り、まな板からはみ出している尻尾の部分を切り離すのに苦戦したが、何とか綺麗に背開きにすることができた。
開いた身を、目打ちした頭部から切り離してさらにそれを三等分にした。三等分にしてもそれなりの大きさだ。まさにうなぎ屋でよく見るうなぎの大きさだった。
捌いたうなぎをもう一度流しに戻してから、再びタワシで体表をこすった。ここにも臭みの元があるはずだから、念入りにやった。
それでもまだ川魚ゆえの臭みの心配があったので、ぼくはうなぎを蒲焼きにすることにした。まずは蒲焼きのタレを作らなくてはいけない。うなぎの身を一度冷蔵庫に戻して、ぼくはタレの作成に取り掛かった。
醤油と酒を一対一の割合で混ぜて、それを鍋で沸騰させる。一通り沸騰してグツグツし始めたら、そこにみりんと砂糖を適当に入れる。ぼくはあまり甘い味付けが好きではないので、ここは決して入れ過ぎないようにしないといけない。この状態で更に中火で煮しめていく。タレ全体にとろみがついて来たら完成だ。スプーンですくって味見をしてみる。うん、美味い。
タレを一度タッパーに移してから粗熱を取る。
その間に、冷凍庫に眠っている小うなぎを解凍しておく。

さて、とここでぼくは思案した。
このうなぎをどのようにして焼こうか、と。
もちろん、一番簡単で手軽な方法はキッチンについているグリルで焼く方法だ。しかし、ここまで苦労して手に入れたうなぎである。ここは一つ、七輪を使った炭火焼きにしてみよう、とぼくは考えた。

七輪はぼくの家のマンションの倉庫に置いてあった。炭を切らしていたので近所の一〇〇均に行ってみたら、ちょうど七輪一回分ほどの少量の炭が一〇〇円で売っていた。便利な世の中になったものだ。一〇〇均で炭が買えるなんて。ぼくはその炭と、うなぎを食べながら飲むためのビールを一本買って家に戻った。

家の中で七輪を使って火を起こすのには少々注意が必要だ。炭を燃やすと一酸化炭素が発生するので、換気をしっかりしておかなくてはならない。密閉された空間で炭火を起こすと、その一酸化炭素により中毒症状を引き起こしてしまう。
ベランダなどでやれば換気の心配はないのだが、ぼくの家はマンションの最上階ではないので、うなぎを焼いた時の煙が上の階の人がベランダで干している洗濯物などに匂いをつけてしまってもいけない。そこでぼくが編み出した解決策は、ガスコンロの上に直接七輪を置く方法である。
ぼくの家の換気扇はちょうどガスコンロの上についている。ガスコンロの上に直接七輪を置いてそこで焼けば、煙もきちんと換気扇に吸い込まれてくれる。ぼくはこれまでにこの方法で家でサンマの炭火焼きなどをしたことがある。

七輪をガスコンロの上に置く。換気扇はもちろん「強」で動かしておく。まずは着火剤を一番下に置いてから、その上に適当な大きさに細かくした炭を並べておく。上からガスバーナーで炙ると、一気に着火剤に火がつく。あとは火の粉や炭のカスが周囲に飛び散らないように気をつけながら、団扇などで時折あおいでやれば良い。十五分もすれば炭全体に火が行き渡り、炭火焼きをする準備が整う。

炭火の火力が落ち着くまでの間にぼくはうなぎの準備をしていた。身に竹串を刺して、その身を先ほど作ったタレの中に浸けておく。

いよいよだ。

ぼくは七輪の上に手をかざして火力が十分になっていることを確認してから、七輪の上に金網を乗せて、その上にうなぎを置いた。
じゅうっという音を立ててうなぎに火が通っていく。
うなぎからぽたぽたと脂がこぼれ落ちて、それが炭火の上で焦げた匂いを発する。とても良い匂いだ。
ぼくはお祭りや縁日の時に出ている屋台のことを思い出した。みんなで騒ぎ合ったりすることの苦手なぼくは、お祭り自体はどちらかと言えば苦手なのだが、屋台から醤油やソースの焦げた匂いがしてくるのはとても好きだ。
子供の頃に、お祭りの屋台で買ったたこ焼きを持って誰もいない神社の裏手に回って一人で寂しくそれを食べていたことを思い出した。寂しさの中に、妙な安堵があった。

うなぎの片面にほどよく火が通った所で、それを一度七輪の上から下ろして再びタレに浸ける。火の通っていない皮の部分を下にして、もう一度うなぎを七輪の上に戻す。
こういったことを三回ずつほど繰り返しただろうか。うなぎは、お店で見るうなぎの蒲焼きと遜色ない具合になって来た。
「これ絶対美味いだろ」
と呟きながら、最後の仕上げに入った。

焼き上がったうなぎにかける山椒を用意して、それからうなぎを乗せる皿を用意する。それと同時に冷蔵庫でキンキンに冷やしておいたビールをグラスに注いで、ほぼ準備は整った。

ぼくはうなぎを七輪から皿に移して、泡が落ち着いて飲みごろになっているビールが待ち構えているテーブルへと移動した。

絶妙な匂いでぼくを誘惑するうなぎに山椒をかける。
ビールを一口飲む。うん、美味い。
さて、それでは、とうなぎに箸をつける。

口に運ぶと、まず山椒の香りが鼻を突き、そしてタレの味が口の中に広がった。うん、甘過ぎずに絶妙な味加減だ。そして、うなぎの味わいは……

うま……
あれ……?

やって来たのは強力な中川スメルだった。
あれ……美味くない……
めちゃんこ臭い……
濃厚なタレの中から漂ってくる、隠しても隠しきれない中川スメル。間違いない、これは泥の臭いだ。

いや、これは何かの間違いかも知れない。ぼくは別の身をもう一口食べてみた。
うん、しっかりと強固に主張される中川スメル。
しまったー! とついついぼくは叫んでしまった。
やはり泥抜きが必要だったのだ。
いくら泥抜きの最中にうなぎに対してペットのような愛着が湧いてしまったとしても、そこは心を鬼にして、「美味しく頂く為ならば仕方ない」と割り切るよりほかなかった。血抜きと氷〆だけでは中川のうなぎの泥臭さは消えない。

ぼくは自分にもう一度問いかけてみることにした。
このうなぎは美味いのか、まずいのか。
もう一度うなぎを口に運ぶ。
いやいや、そうは言っても天然物のうなぎ、やはり美味いに決まって……
ない。
うん。まずい。
仕方がない。認めることにしよう。これはまずい。

うなぎに罪はないのだ。何度でも繰り返し言うが、釣った魚を美味しく食べられないのは全て釣り人の責任なのである。ぼくの場合は、うなぎの泥抜きを怠った。それによりうなぎに強力な中川スメルが残ったままとなった。

中川で釣ったうなぎには泥抜きが必須だ。
ぼくは明日にでも小型の水槽を買いに行こうと決心した。

その前にこの目の前のうなぎだ。これを責任持って完食しよう。
まずくしてしまったのはぼくなのだ。

うなぎをぱくり。
うむ、泥臭い。
ビールで流し込もう。

佐久間さん、中川のうなぎは、泥抜きをしないと全然美味しくないよ。


18 さくま 

佐久間さんは胃ろうの処置によって一時的に回復してきたものの、やはりがんの病魔は確実に身体を蝕み続けていた。
店に復帰できたのも束の間、佐久間さんはまた病院に戻ることになった。
再び主を失った「左くま」は、まるで電池の切れたからくり人形のように、寂しく新小岩の住宅街にぽつんと取り残されていた。

佐久間さんが再入院したのは錦糸町にある墨東病院だった。
それは本当に「さよなら」へのカウントダウンだった。

いよいよがんが身体に行き渡っていることを自分でもわかっていた佐久間さんは、病院でだいぶ荒れたそうだ。
「おれを殺せ! 早く殺せ!」と叫んだこともあったという。
それは佐久間さんの「死にたくない、生きさせてくれ」という悲痛な叫びだったのかも知れない。

再入院してから間もなくして、佐久間さんは死んだ。

ぼくはその報せを池内さんから聞いた。ぼくの携帯電話にメッセージの受信を通知する表示が出て、その差出人の名前が池内さんであるのを見た瞬間に、多分そうだろうな、佐久間さんのことだろうなと直感的に思った。悪い予感ほどよく当たるもので、やはりそうだった。池内さんは、葬式の日程などをぼくに教えてくれた。

葬式には出られなかった。
演奏の仕事が入っていて、さすがにそれをキャンセルする訳にはいかなかったのだ。

演奏の仕事の時には、ぼくが勝手に一人で好きな曲を弾いて良い時間があったので、ぼくはゴスペルの「オールド・ラグド・クロス」と「アイル・フライ・アウェイ」を弾いた。どちらもニュー・オーリンズの葬式の時によく演奏される曲だ。

ニュー・オーリンズはジャズの発祥の地とされるジャズの聖地だ。
黒人たちが多く住むその地域では、葬式の体裁も日本とは随分と異なる。
長らく奴隷として差別を受けてきた黒人たちは、必ずしも死を悲しいこととしてのみは扱わない。あまりにもつらい現世から、神の待つ穏やかな世界でやっと安らぎを得ることができる、そのように考えることもあるという。
ニュー・オーリンズでの葬式の際には、教会から墓地での葬儀に向かう時には、厳粛な空気の中、先導するブラスバンドによって重々しい曲が演奏される。先ほどの「オールド・ラグド・クロス」は、その時によく演奏される曲だ。ゆったりとしたリズムの鎮魂歌だ。
そして墓地からの帰り道ではパレードが始まる。一転して陽気な音楽が奏でられ、人々は死者が天国に行ったことを、その悲しみと共に演奏や踊り、歌などで祝福する。「アイル・フライ・アウェイ」は、その帰りのパレードでよく演奏される曲で、そこにはこんな歌詞が付いている。


Some bright morning when this life is over,
I'll fly away
To a home on God's celestial shore,
I'll fly away

Oh I'll fly away,
Oh Glory
I'll fly away

When I die,
Hallelujah, by and by,
I'll fly away

ある輝かしい朝にこの人生が終わりを迎えたとき
ぼくは翔んでいく
神様の待っているあの向こう岸に
ぼくは翔んでいく

ぼくは翔んでいくよ
ねえ、神様
ぼくは翔んでいくよ

ぼくが死んだとき
福音はいつでもそばにあるんだ
ぼくは翔んでいくよ

ぼくは実際にニュー・オーリンズでの葬式を見たことはないのだけれど、たびたび共演するミュージシャンに長いことニュー・オーリンズで生活し、現地のジャズを体験してきた人が何人かいるので、その人たちからこの葬式のことを教えてもらった。初めて知った時にはそれは大きな衝撃だった。そして、そのような葬式も良いなあ、とぼくは思った。

佐久間さんのことを考えながら、ぼくはそれらの曲をピアノで弾いた。
今、佐久間さんはどこにいるんだろう。どこを翔んでいるんだろう。そんなことを考えながら。


19 さくま 

佐久間さんが亡くなってから「左くま」はどうなったかと言うと、それまで常連客の一人として来ていた三ツ沢さんという人が店を継いだ。
どうやら、亡くなる前にもう店をやるのは無理だと判断した佐久間さんが、丁度それまでの仕事を辞めることにしていた三ツ沢さんに「お前、それならうちの店やらねえか」と持ちかけて話が進んでいったようだ。

佐久間さんが亡くなってから間もない頃に、ぼくは佐久間さんのいない「左くま」を訪ねた。

三ツ沢さんは大したものだった。佐久間さんの作っていた絶品の鳥つくねやレバー焼きを、かなり忠実に再現していた。それらを食べてぼくは
「三ツ沢さん、すごいですね。これ、佐久間さんがきちんと教えてくれたんですか」と聞くと、三ツ沢さんは苦笑した。
「教えてくれたけど、目の前でささっとやって、もうできるだろ、ってそんな感じだったよ。できるわけねえじゃん」と。
自分が万事そうやって来たものだから、佐久間さんは三ツ沢さんに対しても「まあ大体はこんな感じだから、あとは自分で工夫して何とかしろよ」という調子で教えていたらしい。ピアノを教えたりもしているぼくは断言できる。佐久間さんは人に何かを教えるのは全く上手じゃない。その佐久間さんに教えられてここまでできるのだから、三ツ沢さんはすごい、とぼくは思った。

店から佐久間さんはいなくなってしまったのだけれど、まだどこかにいそうなほどに店はそのままだった。鳥つくねもレバーも相変わらず美味かった。ただし、それまでの「左くま」では佐久間さんの好きなジャズが流れていたのだが、三ツ沢さんは大の長渕剛のファンなので、店ではよく長渕剛が流れるようになったのが以前とは違うところだ。

店の奥に佐久間さんの写真が飾ってあって、そこに佐久間さんが好きで吸っていたたばこなんかが置いてあった。
ぼくはその写真の前で、池内さんや他の常連客たちと佐久間さんの思い出話を肴に酒を飲んだ。

池内さんが
「そういえば面白いことがあってさ」
と前置きしてから佐久間さんのことを話し始めた。
「佐久間さん、亡くなってから預金通帳が見つかったらしいんだけど、残高は二千円だけだったってさ」と言うと、みんなの間に笑い声が起こった。
「そうか、人にはあれこれお節介したがる人だったけど、自分には全く無頓着だったし金勘定もいい加減だったからなあ。それにしても最後の所持金が二千円ってのはそりゃ良いや」と誰かが言った。
「借金とかはなかったんですか」とぼくが聞くと、
「うん、それはなかったみたい」と池内さんが言った。
「良かったね、立つ鳥跡を濁さず、だ」と別の誰かが言った。

「それとさ、これは本当にびっくりだったんだけど」と池内さんが言った。何だろう、とぼくらは耳を傾けた。
「佐久間さんに彼女がいた」と池内さんが言った。
えー!とぼくらはびっくりした。
佐久間さんには女性の影がまるでなかった。とても個性的で面白い人だったから心秘かに佐久間さんに想いを寄せている人はいただろうが、佐久間さんが亡くなるまでに佐久間さんに彼女がいたことなど、他の誰も知らなかった。

「ひょっとして、開店前の電話の…」と誰かが言うと、
「そう、多分そうなんだよ!」と池内さんが言った。
開店前の電話というのは何のことだろうと思って聞いてみると、佐久間さんはいつも開店前に誰かと電話で話していたみたいだった。開店時間よりもちょっと早く店に行くと、電話をしている佐久間さんが電話先の相手に「まあいいや、じゃあな」と言ってそそくさと電話を切って、いつもの調子で「おう、よく来たな。腹、減ってねえか」と始まるのだった。
常連客たちはほとんどみんなその「開店前の電話」を目撃しており、「誰と話しているんだろう」と思ったそうだったが、佐久間さんはそれについて話すことは一度もなかったそうだ。
多分、その電話の相手が佐久間さんの彼女だったのだ。
佐久間さんと十年以上の付き合いのある人たちが、みんなその彼女の存在を知らなかった。どうやら、葬式の段取りの時点でその彼女の存在が発覚したようだ。三十年近く付き合っていた彼女らしい。

佐久間さんよりも一◯歳近く歳上だというその彼女は、墨田区の曳舟で小料理屋を営んでいるらしかった。

ぼくはその店の名前を聞いて「ふーん、近くに行くことがあれば行ってみよう」と思ったのだが、思っていたよりも随分と早くその時は来てしまった。

その数日後に、仕事の関係でたまたまぼくは曳舟にいた。演奏の仕事の打ち合わせだったのだが、それも早々に終わり、ぼくは暇を持て余していた。

そう言えば、この近くに佐久間さんの彼女の店が、と思い出して間もなくして、街を歩いている時に偶然にその店を発見してしまった。店の名前も事前に聞いていたものと同じだったし、聞いていた大体の場所もその辺りだった。ものすごくあっさりと見つかってしまったのでぼくは若干拍子抜けしていた。
拍子抜けすると同時に、これも何かの縁だな、店に入ってみようと思ったのだが、昼の三時くらいだったその時間には店はまだ開いていなかった。

曳舟の街をぶらぶらと歩いて、時間を潰した。曳舟の隣町である押上はスカイツリーが出来て以来、新しい東京の観光名所の一つとなってしまったが、曳舟の街はまだ十年前とさほど変わらない。小さな美容室や寿司屋などが軒を連ねる。肉屋の前を通りがかった時に、揚げたてのコロッケの良い匂いがぼくの歩みを止めた。肉屋に入ってぼくはコロッケを一つ買った。百円もしなかった。
白い紙袋に入れられたコロッケはまだ温かく、ぼくはすぐにでもそれにかぶりつきたかったが、まあ待て落ち着けと自分をたしなめて、どこかでビールを買うことにした。目に入ったコンビニに入ってしまえばすぐに買えるのだが、せっかく街の肉屋で美味そうなコロッケを買ったのだから、どうせならここは街の酒屋を探してそこでビールを買おうと思ってぼくは更に街をうろうろした。
しばらく歩いたのだが、酒屋が見つからなかった。コンビニはいくらでもあった。手に持ったコロッケが少しずつ冷めていく。ここは変なこだわりは捨ててコンビニでビールを買った方がこのコロッケに対して「美味しく頂く」というぼくの責務を全う出来るのではないだろうか、そんなことを考えていたら、ちょうどぼくの視界に酒屋が現れた。
おお僥倖、と思って酒屋に入った。酒屋のレジ台にはキジトラ模様の猫がいた。いかにもな雑種の猫で、全然高貴そうでないその顔だちがとても可愛かった。
店の業務用冷蔵庫からサッポロの黒ラベルを一本手に取りレジへ向かった。料金は二百二十三円だった。千円を出してお釣りをもらうとお釣りは七百七十七円だった。酒屋のおばちゃんが
「はい、お兄さんおめでとう。確変フィーバー」と言った。
下町らしいギャグに心が和んだ。

少し冷めてしまったコロッケとキンキンに冷えたサッポロ黒ラベルを持って、ぼくはすぐ近くにあった公園のベンチに座った。
ビールを開けて、一口喉に流し込んだ。少し歩き回って汗をかいていたせいもあって、いつもよりも美味く感じた。
コロッケにも一口かぶりつく。濃厚なジャガイモの味の中から挽き肉の旨みがあふれ出す。間違いなく美味い。
時間はまだたっぷりあったので、ぼくは貧乏ったらしくちまちまとそのコロッケをかじり、ビールをチビチビと飲んだ。

そろそろ良い時間かなと思い立って、ぼくは再び佐久間さんの彼女の店に向かって再び歩き始めた。

歩きながら「しかし店を訪れたところでぼくは一体何を話すんだ? 何か下世話な芸能レポーターのようでみっともなくはないか?」と思ったりもしたが、それよりも佐久間さんが愛した女性に会ってみたいという好奇心の方が勝った。ま、向こうはぼくのことは知らないし、適当な世間話でもしてとっとと帰れば良いか、と心に決めた。

再び訪れた佐久間さんの彼女の店は、今度は入り口に暖簾がかかっていた。開いている。

こんにちは、と言って店に入った。

七〇歳くらいの初老の女性が店の奥でたばこを吸っていたが、ぼくの存在に気がついて「いらっしゃい」と言いながら出て来た。
「まだまだ暑いね」と言ってぼくの前におしぼりを置いてくれた。
この人が佐久間さんの彼女なんだ、と思った。
ぼくは瓶ビールとお新香とモツ煮込みを頼んだ。下町の飲み屋における黄金トリオだ。この組み合わせでハズレを引いてしまうような店はぼくからすれば少々しんどいのだが、下町の古びた飲み屋でこの組み合わせでハズレを引くのは、プレステッジ・レコードから発表されたマイルス・デイビスのレコードの中からハズレを引くぐらい難しい。早い話が、「まず間違いない」のだ。瓶ビールはサッポロだった。サッポロの瓶ビールを出す飲み屋は更にハズレの可能性が低くなるので、もはや「勝ったも同然」という心境だった。

予想通り、出て来たお新香ももつ煮込みも、絶妙な味加減で素晴らしかった。酒のツマミになりうるだけの塩加減でありながら、食べている途中で飽きるような塩辛さもない。ぼくはお新香もモツ煮込みも七味唐辛子を振りかけて食べるのが好きなので、唐辛子を借りて少しそこに振りかけた。

「お兄さん、ここ初めてだよね」と佐久間さんの彼女が言った。
「はい、たまたま通りかかったら開いてたので」とぼくは答えた。かろうじて嘘ではない。たまたま通りがかったら開いていたのでぼくはこの店に入ったのだ。
「入りづらくなかったかい」と聞かれたので、
「ちょっとだけ。でもぼく、こういう古いお店、好きなんです」と答えた。
「そう。ありがとう。大したものは出せないけど、ゆっくりしていって」と佐久間さんの彼女は言った。

ぼくはお新香とモツ煮込みをアテにして瓶ビールを飲みながら店のテレビをぼんやりと眺めていた。

佐久間さんが亡くなったことで、目の前のこの女性もさぞ心を痛めていたのかな、などと思ったりもしていた。

「お兄さん、何してる人なの?」と佐久間さんの彼女が聞いてきた。
ぼくは少し口ごもってしまったが、「ピアニストをしてます。ジャズなんかをよく弾いてます」と答えた。ぼくがそう答えた時に、佐久間さんの彼女の顔が一瞬曇ったような気がした。
ぼくは勢いに任せて続けて口を開いた。
「先日、親しくしてもらっていた方が亡くなりまして。佐久間さんっていうんですけど」と言った瞬間に、佐久間さんの彼女が「ああ、なるほど」という顔をした。
「ああ、そうか。うん、佐久間から聞いてたよ。店の客でピアニストがいるって。演奏聴きに行ったりもしてたんだよね」と言われて
「はい、たまに来て頂いてました。あ、ぼくは福島といいます」とぼくは答えた。

それからぼくは佐久間さんの彼女と少し、佐久間さんの思い出話をした。彼女の名前はアケミさんというそうだ。
「店の看板なんかもね、佐久間が作ってくれたの。何でもかんでも自分で作るのが好きだったから」とアケミさんが言った。
「器用ですね、やっぱり」とぼくは答えた。
「亡くなったとき、預金通帳に二千円しか入ってなかったみたいですね。佐久間さんらしいなあと思って」とぼくが言うと、アケミさんはフフンと鼻で笑った。
「散々世話したんだよ、私が。月末になると支払いの金がないなんて言って泣きついてくることもあったから。ほら、よそで借金こさえてくるぐらいなら、ってね」とアケミさんは言った。
何だよ、佐久間さんダメじゃん、結構カスじゃん、彼女から金借りるなんて、とぼくは苦笑した。
そしてそれと同時に、困ってる誰かを見ているとほっとけなくて、でも誰かから何かをしてもらうのが苦手で、そんな佐久間さんが唯一甘えて泣きついていたのがこのアケミさんだったんだな、と思った。
アケミさんはそれからしばらく佐久間さんの思い出話をぼくにしてくれた。

お新香とモツ煮込みを綺麗にたいらげて、ビールもなくなったところで、「美味しかったです、また来ます。お勘定してください」と言ってぼくは席を立った。

「あんまり遅い時間まではやってないけど。うん、また来てちょうだい」とアケミさんは言った。

店を出て京成曳舟の駅へと向かう。
つい何週間か前に佐久間さんが死んだのが、嘘みたいに思えた。


20 さくま

佐久間さんは死んでしまったが、ぼくの日々の生活にはほとんど変化はなかった。

毎日ピアノの練習をして、レッスンをして、演奏の仕事がある時にはそこに行った。ひと月に二度ほどは、全ての仕事や練習をほったらかして釣りに行った。
仕事仲間などに釣りの話をすると「てめえ、この間書いとけって言ってた譜面、まだ書いてねえじゃねえか! 何をサボって釣りになんぞ行ってるんだ!」と怒られることは目に見えていたので、もちろんそこは黙って行っていた。中川の「泥抜きをしていないうなぎ」のあまりのまずさに懲りてしまっていたので、ぼくはそれ以来無難に海に釣りに行っていた。海の魚はほとんどが問題なく美味い。
釣りに行ってしまうと少々日焼けしてしまうので、仕事仲間から「何か最近お前、黒くねえか?また釣り行ったのか?」と言われたりもするのだが、「いやだなあ、黒いのは腹の中ですよ!」と言ってお茶を濁していた。

ある日、いつものように演奏の仕事を終えて終電で深夜に帰宅した時のことだ。
家のマンションのポストを見ると、何枚かの不要なチラシや国民健康保険の請求書などに混じってハガキが一枚入っていた。何だろうな、あとでゆっくり見ようと思って、ぼくはそのハガキを片手に家に入ってハガキをテーブルに置き、カバンをその辺に置いた。
Tシャツと短パンに着替えてから冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。毎日やっている一連の動作なので、その動きは極めてスムーズかつムダがない。脱いだ服はその辺に脱ぎ散らかしておくが、明日洗濯機に入れればいいのだ。ぼくの中では極めて合理的であるし、そこはぼくの家なので誰からも文句を言われる筋合いはない。

テーブルの上の郵便物に目をやる。
国民健康保険、また払わなきゃいけないのか、仕方ないな、と思いながらもう一枚のハガキに目をやった時、ぼくは自分の目を疑った。
ハガキの表にはぼくの名前とぼくの家の住所が書いてあったのだが、その極端に力強い筆跡にぼくははっきりと見覚えがあった。


佐久間さんだ。
何でだ? 佐久間さんはもう死んでしまったはずだろう。何で佐久間さんからハガキが来るんだ?とぼくは混乱したが、差出人の所に「佐久間延幸の姉妙子」と書いてあるのを見て、ああ、お姉さんが投函したのか、と納得した。

しかし、ハガキの表に毛筆でこれでもかというぐらいに力強く書かれたぼくの住所と名前は、どこからどう見ても佐久間さんの筆跡だった。
佐久間さんは毎年ぼくに年賀状をくれていた。ぼくの元にやってくるほとんどの年賀状の宛名がパソコンでプリントされたものだったが、それらの中に混じって一枚だけ異彩を放って力強い毛筆で書かれたものがあって、それが佐久間さんからの年賀状だった。裏は毎年自作の版画だった。なのでぼくは佐久間さんの筆跡をはっきりと覚えていたのだが、その日ぼくにやって来たハガキに書かれていたぼくの住所と名前は、間違いなく佐久間さんが書いたものだった。
おそらく、死期を悟った佐久間さんは生前に交流のあった人々へ病床からハガキを書いていた。そして佐久間さんの死後しばらくしてからお姉さんがそのハガキを投函した。種明かしをしてしまえばそういうことなのだが、それはまさに彼岸からの手紙だった。

ぼくはハガキの裏を見た。

裏には、表の宛名書きとは対照的なぐらいに弱々しい筆跡で
「ありがとう」
と書かれていた。佐久間さんが亡くなる直前に書いた文字だった。
そしてその周辺にパソコンで印刷された文章が散りばめられていた。

楽しい人生だった。
周りのみんなのおかげだ。
香典はいらない。
その手のものは赤十字あたりに寄付しといてくれ。

そう書かれていた。
「あの世から手紙が届いたら、みんなびっくりするんじゃねえかな」と悪戯っぽい表情で笑っている佐久間さんの顔を思い浮かべた。うん、確かにぼくはびっくりした。佐久間さんのその目論見は、ぼくに限って言えば大成功している。

美意識を強く持って、わがままに、けれど優しく生きた佐久間さんのことを思った。

ビールを一口飲んだ。

ぼくの中でずうっと抑えてきていた感情が、ついつい決壊した。


21 ダウン・バイ・ザ・リバーサイド

京成の堀切菖蒲園駅で降りてみようと思ったのは、単なる思い付きだった。そろそろ夕暮れも差し迫る頃のことだった。

駅を降りて、周りの街をぶらぶらと歩くと、曳舟の時と同じように小さな肉屋が目に入った。店先で売っていたシューマイがあまりに美味そうだったので、そのシューマイを買った。

ぼくは川に向かいたかった。

その日は酒屋に固執せずに、すぐ近くにあったコンビニでビールを一本とお茶を一本買った。
堀切菖蒲園駅から五分も歩くと、荒川の土手に着いた。

土手に腰掛けて先ほど買ったシューマイを食べた。肉屋は一緒にカラシと醤油を付けてくれていたのだが、開けるのが面倒だったのもあって何も付けずに食べてみた。
大ぶりなそのシューマイからは肉の力強い旨みがこれでもかと溢れてきた。醤油もカラシも何も付けずに十分過ぎるほどの味わいだった。ぼくがこれまでに食べたどのシューマイよりも美味かった。

ビールを飲んで、対岸の千住方面に夕日が沈むのを見た。

頭の中で、ゴスペルソングの「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド」が流れ始めた。

武器を捨てて(Gonna lay down my sword and shield)
川辺を下ろうぜ(Down by the riverside)
戦争なんてもうまっぴらごめんだ(Study war no more)

そんな歌詞のついた歌だ。
ぼくは「だんばーいざりばーさい」と、調子っぱずれの声で歌ってみた。

ビールもシューマイもなくなった。
ぼくはゴミをコンビニのビニール袋に入れてそれを手に持って、荒川の土手を歩き始めた。新小岩の方に向かって。
川を下って。

だんばーいざりばーさい。

佐久間さん、そっちはどうだい。
こっちはぼちぼちだよ。

だんばーいざりばーさい。

ぼくがそっちに行ったらまた一緒にたばこを吸おうね。

だんばーいざりばーさい。

ぼくはもうちょっとこっちで頑張るから。

だんばーいざりばーさい。

ありがとうね。
またね。

だんばーいざりばーさい。

だんばーいざりばーさい。

だんばーいざりばーさい。


(了)

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