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『僕は明日、昨日の君とデートする』を観て感じたこと

最近はタイムトラベルものが人気なんでしょうか。
なぜタイムトラベルものが人気なんでしょうか。

このことを考えてみました。

◆時間の逆転について
 時間というのは過去から未来へ向かって進み、後戻りできず、取り返しがつかない、というのが通常わたしたちが生きている現実空間での前提です。
しかし、頭の中では、過去が頭から離れないという意味で現在化しており、未来のことで頭がいっぱいになるという意味で現在化していることはご承知のとおりです。つまり思考の中ではすべてが現在化していると考えることができます。そういう意味では頭の中には現実空間とは異なる時間が流れている、といって差し支えないでしょう(夢を見るというのはその典型的な例ですね)。
 さて、時間の逆転を盛り込んだ物語がここのところ増えてきているのはなぜでしょうか。私見ですが、これは現実世界のシステム化が著しく進んできたこと、それに伴い「知の形式」が変化してきたことと関係があるのではないかと思います。私が現実世界のシステム化ということで言おうとしていることは次の2点です。
①予測可能性の増大=必然性の支配
通常(というのは物理法則が適用されているこの現実世界のことですが)、私たちは次の瞬間何が起こるかを確定的に言えない「不確定性原理」が支配する世界に生きています。しかし、現実世界の文明化による改変は、そのような不確定性を排除するように、原因と結果の間の障害をできるだけ取り除きできるだけ簡単な原因(入力)で望みうる最大・最適の結果(出力)をもたらすように、システム化が行われてきました。そのことによって現実世界の大部分がシステム世界になっているということです。そして、「ああすれば、こうなる」というふうに考えられる世界がもはや現実のほとんどになっている、ということです。
②選択可能性の増大=偶然性の支配
人間の有限性の表現として、古くは「運命性」と「幸福」は不可分なものとして語られてきました。限られた選択肢の中で、仕方なくよりよいものを選び、それをある種の運命として受け入れる態度というものが人間の有限性として、人間を人間たらしめる態度としてかつてはあったように思います。しかし、いまや誰もがそれこそ望めば、ほぼ等しくあらゆる情報にアクセスできる権利を手にし、選択肢は途方もなく広がりました。そうなった以上、できる限り多くの選択肢の中で、最適なものを選び取る態度というものが支配的になっていきます。ここで問題が生じます。それは、選択肢は増えれば増えるほど偶然性に支配される可能性が高まる、という逆説です。人間が有している可塑性の豊さ(後天的能力の獲得可能性)は、学習能力の潜在可能性という意味では「強み」ですが、シグナルに対する過敏性・脆弱性という意味では「弱み」です。選択肢は増えれば増えるほど、比較しなければならない項目は増えていき、査定も同時に細かく厳しくなっていき・・・。そのうちに計算量は人間の許容量を超え、人々は疲れ果てることになります。そうした意味で、実際のところ失敗に終わる場合が多いこの態度はしかし広まりを見せているように思います。かつてはある程度の必然性と呼べるものが支配していた領域にまで偶然性の支配が及んでいること。これが今日的な混乱の本質なのではないかと思います。

一方における「予測可能性の増大=必然性の支配」と、他方における「選択可能性の増大=偶然性の支配」が今日的な二極化、今日的な構造の根底にあるのだと思います。この引き裂かれはどちらも現実世界のシステム化、平たく言えば機械世界による必然性と偶然性の同時支配によってもたらされており、これが今日的なリアリティと言えるでしょう。現代社会に生きる人間の認識上の苦闘は以下のように定式化できるでしょう。
「目の前にある現実を運命として受け入れられないこと。そしてそこからの逃避としての運命(必然性)探しはあらかじめ偶然的になるように構造化されているということ。」

さて、そうして見たときに、タイムトラベルものというのは、今日的状況に対するアンチテーゼとして時間を逆転させることで
「目の前にある現実を運命として受け入れざるをえない状況を作り出し、その中を運命論的に生きる」ように構造化していると言えるでしょう。

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