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フランシス・フクヤマの思想-『「世界の終わり」の後で(インタビュー集)』を読んで-

「歴史の終わり」という書物がある。

1989年に東西冷戦体制が崩壊し、共産主義・社会主義体制が敗れ、資本主義体制が勝利したといわれる。その直後、フランシス・フクヤマは論文「歴史の終わり?」(1989)を発表した。自由民主主義を、政治体制の最終到達点として提起したこの論文は、その後さまざまな憂き目にあってきた。現在では、権威主義諸国の覇権の増大と自由民主主義諸国の覇権の低下によって、その理論は反駁されているかに思われている。

そして巷では国民国家の崩壊が囁かれ始めている。近代国家の成立はそもそも戦争に端を発しているわけだし、グローバル化によってモノや情報も国境を越えて行き来するようになっているわけで、そんな状況で、国民国家という虚構の枠組みをこれ以上維持する必要がどこにあるのだ、というわけだ。そもそも、音声文化から文字文化への移行によって可能になったこの大規模な統治スタイルが、再び文字文化から異なるものへ移行している最中にあって、顔の見えない他者を同胞として認識することができるのかという問題もある。さまざまな観点から、国民国家懐疑論(国民国家はもはや機能しないのではないかという疑念)が提起されている。

しかし、フランシス・フクヤマは「近代国家」という枠組みの有効性は手放さない。問題なのは近代国家という枠組みではなく、「自由民主主義」というイデオロギー(理念)でもなく、それを維持できなくなっていることなのだ、とあくまでもいう。確かに国民国家以外の政治的統治スタイルは出てきていないように思える(かつての江戸のように廃県置藩を唱える人はいても、大きな枠組みの国家に代わるものは出てきていない)。

また近年の政治状況として人々は経済的関心(成功)よりも「アイデンティティ」(の承認)を重視するようになっている、という。かつての右派が力を持つようになっていることもこの文脈から理解される。(あくまでも私の理解であるが)従来の左派は確かに、国民的統合よりもあらゆる縁故からの離脱という意味での自由(無縁主義)を標榜していたように思う。統合よりも自由というわけで、無政府主義ともいえる。しかし、あるところまでいって国民的統合ができなくなると、さまざまな不都合が生じ始めた。例えば、経済的な格差とそれに基づく社会階層化である。強者が勝ち、弱者が負けることを認めてしまった能力主義が、弱者を包括する前提があったうちはまだよかった。しかし、その間にコミュニケーションが成り立たなくなってくると、全体として機能不全に陥るという点は甘く見ていたのではないかと思う。左派による無縁主義と能力主義による経済的成功の一方で、地域は空洞化し、人々の根はなくなり、価値観へのコミットは一貫して軽視されてきように思う。そもそも、自由民主主義とナショナル・アイデンティティは相反するものではなく、同じコインの裏表であるいうことを理解しなかったことに左派の病根は住み着いていたのである。

右派・左派という立場自体が実は暗黙の裡に国民国家という前提を含んでいたこと、そして国民国家はナショナル・アイデンティティ(固有の文化における信仰)なしには統合されないということを右派は理解していたが、左派は理解していなかったように思う。おそらくここが、今日的な自由主義者の強みであり、弱みでもある。

国民国家体制は今後も続くのだろうか。
少なくとも、ナショナル・アイデンティティを正当な形で考えることができる人たちが増えていかないと立ち往かないことは確かである。

その地のナショナル・アイデンティティを偏愛しその問題点を見ることができない人や、それを故習的で土着的なものとして毛嫌いし捨象している人ばかりでは、そもそも隣人とのコミュニケーションを開始することすらできないだろう。

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