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焼酎で乾杯

福島家について

令和3年4月6日に鹿児島へ、実家に帰ってきて約2ヶ月半経過しました。
そのうちの半分は島の旅に出ていたので実際に親と生活して1ヶ月半が経過しました。
4月6日を選んだ理由は父親の誕生日。今まで誕生日とか大事にしてなかったのに、ここ数年急にそういう日を大事にし始めた息子に何も言わず温かく迎えてくれた両親。実家をでてからの18年間は長かった様であっという間でした。
僕が18歳で家を出てからの18年間、父と母の関係、二人を取り巻く環境に色々な変化があった。親族の死、父親の定年、祖父母の介護など。
特にこの3年間の二人の苦労、精神的な負荷を考えると無力な事を自覚する。

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父親について


父親は18歳で就職した会社を60歳まで勤め上げた。退職再雇用など雇用形態に変化はあったにしろ42年間という年月はすごい。鹿児島の南さつま市という今でこそ市町村合併で3万人の人口がいたり、インフラが整ったりしているが当時は夜の電灯もない様な場所である。そんな場所で育った少年が一人大阪に就職で行くなんて36歳になった僕なら、そんな少年になんて声をかけるだろうか。
大阪勤務も15年経過した頃に僕が生まれた。
僕が6歳の時に大阪から宮崎に転勤、宮崎で3年過ごした後に故郷の鹿児島に転勤。その後鹿児島市内に家を建て、一人っ子の僕は何一つ不自由ない暮らしをして育った。
大学進学の為に福岡へ。ついて来てくれたのは父親で入学式も参列してくれた。一人息子を見送るのはどんな気持ちだったのだろうか。今となっては感謝の一言。
60歳定年の時に何も祝ってあげれず寂しい思いをさせてしまった。
仕事を言い訳に心配かけたり苦労をかけた。この人の為に何ができるのかをいつの日か考える様になった。

父親の強さ

父の涙を初めて見たのは僕が中学生の時。
父の親友の葬式の時だった。いつも明るい父の顔が曇ったのはとても印象に残っている。
父は5人兄弟の長男。次男、三男は数年前に亡くなった。爺ちゃんも婆ちゃんも亡くなった。婆ちゃんに至っては次男、三男の死を見送った。
自分の息子たちが自分より先に死んで行くことの辛さは計りしれない。
それを支える父親も大変だったと思う。
それでもいつもと同じ様に明るい。こんなに強い人の息子の僕はなんでこんなに弱い人間なのだろうかと不思議に思う。

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僕の父親

僕の父は視力が良くない。
片目が見えづらい。運転に制限はないが、少し距離感に問題がある。
いつか僕が目になってサポートできたらいいなぁ。

焼酎と魚が大好き。あまり好き嫌いがなく、なんでもYESと答える父だが、焼酎と魚が飛び抜けて大好きな事は分かる。父親が退職してからと言うもの、福島家では金、土、日曜日は飲酒して良いというルールがある。
そのルールはもちろん僕にも適応である。
金曜日がこんなに待ち遠しいことは今までなかったよ。焼酎が旨い旨い。
おかげで焼酎をたくさん買ってしまい、場所を取る始末。
こんな幸せな時間があっていいのかな、こんな生活スタイルになった事に感謝する。

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父親との時間は有限である

親と生活して1ヶ月半。
死について考える。
父が先、母が先、僕が先。
どの場合もすごく悲しいし、やり残した事ばかりに思える。
きっとやり残した事全部はできないだろう。
いつまで続くか分からないこの時間を存分に楽しもう。

お父さんいつもありがとう。
今日も焼酎で乾杯だ!
父の日おめでとう!


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