#47『君たちはどう生きるか』を観て。
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(※配信内で「よねづげんし」と言っていますが、正しくは「よねづけんし」です。申し訳ありません。)
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フクロウラジオ第47回目。今回扱う作品は宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』です。
本当は語るつもりはなかったのですが、映画を観た後あまりにも変な気持ちになってしまったので、この場で思いの丈を語っていきたいと思います。
ネタバレには配慮しますが、話の流れでネタバレしてしまう部分もあるかと思います。ぜひ一度映画をご覧になってから見てくださると嬉しいです。
宮﨑駿の自画像
まず最初に思ったこと。これは多くの人が感じたことだと思いますが、今作『君たちはどう生きるか』は観客に向けては作られてないということです。この映画は宮﨑さんの宮﨑さんによる宮﨑さんのための自問自答映画です。
『君たちはどう生きるのか』というタイトルは、その意味ではタイトル詐欺のようなところがあります。
こちら側へのメッセージに思えるものも、宮﨑さんの自分への問いかけだったり、自分への言い聞かせの言葉としての意味合いが強いのかなと感じました。
観客へ向けた強いメッセージはなにもない。あったとしても、それはたいそうチープなメッセージ。「現実を生きねばならぬ。」「生きろ。」「生きめやも。」
いつもの調子です。ストーリーもはっきり言ってチープに思えました。
でもそんなのはどうでも良いんですね。
宮﨑駿が大好きな僕からすると、今の宮﨑さんの創作に対する構えや、心の内側が見れたような気がして、それだけでも良かったと思える、そんな映画でした。
宮﨑さんの自問自答映画と言いましたが、
かつて鈴木敏夫プロデューサーが「宮さんはどんな作品を作っても結局は自画像になってしまう」と語っていたことがありました。
宮﨑監督の作品は、近作においては自画像性がどんどん増していましたが、今作はそれらの作品の比ではありません。自画像的作品、その極北です。
そうして作られた今作は、宮﨑さんのファンであれば誰もが心ざわつくような内容となっており、観ていて苦しくなるような内容でもありました。
この作品の内容に即したタイトルをつけるとしたら、『君たちはどう生きるか』ではなく、『俺はまだやれるのか』ではないでしょうか。
創作への未練
映画の中に散りばめられてたのは、抑え難き創作への未練でした。あれもやりたい、これもやりたい、まだまだできる、でもおれには時間がない。
そのリグレットや悲しみも含めて、全部映画の中にぶち込んでいるように思えました。
これまで培ってきたアニメーションの技術を、おそらくは最後となるこの長編映画の中でさらに高めようというもがきが見て取れた。
それと同時に自分の老いに対する徹底した抗いも感じました。懸命に若くなろうとしている。その証に、これでもかというほどに挑戦的な表現に満ち満ちているのです。
残りの時間が少ないことがわかった上で、これまでやりたくてもやれなかった表現や、かつての作品で後悔しているシーンを昇華したかのような表現がたくさんありました。
この映画を観て、宮﨑駿の集大成と感じる人が少なくないと思いますが、個人的にはそうは見れなかったです。
必死にこれまでの作品を否定しようとしてる。越えようとしている。でも否定しようとすればするほど、超えようとすればするほど、これまで自分が培ってきた作品の凄さ、つまり、今の自分よりも若い自分が作った作品の凄さに飲み込まれてしまい自縄自縛で窒息してしまう。それをなんとかしようと新しい表現を生み出そうとしてる。そんな痕跡が今作『君たちはどう生きるか』だったと思います。
奇怪な表現や必要以上のやりすぎな表現。不気味な演出が多いのはそのためでしょう。
見たこともないようなアニメーション表現になっていたとも言えますが、どうなのでしょう。
ジブリの制作スタッフ。エンドロールで確認した限りではオールスターでした。安藤雅司さんや米林監督をはじめ、エヴァンゲリオンを長年担当していた名うてのアニメーター本田雄氏もいたかと思います。
神の技術を持つスタジオジブリという集団の力。
しかしながら、あまりにも高すぎる技術で表現されていたがゆえに、今回は皮肉とも言うべきか、宮﨑さんの醜態とも言える創作への未練や若き力を取り戻そうともがく姿を同時に写し取ってしまった。そう感じます。
依然暗示される仮想敵、高畑勲。
今はなき永遠のライバル高畑勲との最後の戦いという側面も見て取れました。徹底した高畑勲リアリズムとの差別化。それが意識されていたように感じます。
高畑勲が築いたアニメーションの到達点が『かぐや姫の物語』の姫の滑走シーンだとした時に、それに対抗するかのように『君たちはどう生きるか』の映画冒頭では、主人公が滑走する長回しのシーンがあります。明らかなかぐや姫滑走シーンとの符号。そして、その対照的な描き方。「パクさんがああ描くなら、おれはこうだ!」と。
そうしたシーンが他にもたくさん散りばめられており、心中穏やかには見られませんでした。
母への奇妙な憧憬
前作『風立ちぬ』は自身のお父さんを、主人公次郎に重ね合わせた作品でしたが、今回は母というテーマが全面に押し出されています。
創作活動の終焉を意識した上での映画制作。
こうした流れは必然的なものとも言えるでしょう。
しかしながら、お母さんの描き方、捉え方は例によってペラッペラだったようにも思えます。
無条件で自分を受け入れてくれる優しいお母さん像という紋切り型。
宮﨑駿の価値観がダイレクトに伝わってくる描かれ方でした。
また、今作でのお母さんの描き方で一つわかったことが、宮﨑駿は自分のお母さんが生前幸せな人生を送ったとは思っていないんだなということです。
宮﨑さんのお母さんは、その人生の大半が病との戦いだったということが様々なドキュメンタリーで伝えられています。そうしたお母さんの辛かったかもしれない人生を肯定するかのような描き方がされており、そうした人生をお母さんが積極的に受け入れた上で生を全うしたんだという解釈もみて取れました。
そこはこれまで描かれたお母さん像よりも明らかに踏み込んだ表現となっており、大変感動させられるポイントでした。
今作では、母が2人出てくるのですが、その両方に宮﨑さんの母親像が投影されています。
これまでのジブリ作品でも宮﨑さんのお母さんが反映されたキャラクターは数多くいましたが、今作に登場する母親の描かれ方はそれとは一線を画し、異常なまでに艶っぽく綺麗に描かれています。ジブリ史上No. 1に艶めかしい女性像です。
母親をモデルにして、あの描き方ができるというのは普通に考えるとかなり奇妙に思えます。
自分の恋人や妻がモデルならまだわかります。ですが、自身のお母さんを想像しながらあのような描き方ができるというのは、そこに狂気的な変態性や執着を感じざるを得ません。
82歳にして、そうした非常に男性的な気持ちの悪いお母さんへの執着を持っていること。それを、てらいもなくあの解像度で描き出せる胆力、精神力。やはり怪物だなと思いました。
自分も若返り、お母さんも若返り、そしてあの世での再会を果たし、美しい世界で自分を肯定してもらう。お母さんに対する奇妙な憧憬が全面に出てきているのが今作なのです。
宮﨑さんはかつて「自分のお母さんに会えるとしたら若い時の母親に会いたい」と言ってたことがあります。記憶が定かではないのですが、「綺麗な時の母親に会いたい」と言っていたような気もします。
宮﨑駿にとっては美しいかどうかが重要なわけですね。
年老いた2人の再会になると、絵的に厳しいという価値判断がおそらくある。
自分の母への欲望が気持ち悪いものということもおそらくわかってる。
「でも美しければ許されるでしょう?」
といった超解釈があるわけです。
美しければこんな映画を作っても許される。美しければ零戦を作っても許される。風立ちぬの二郎そのものです。
これぐらい突き抜けていると、なにか見てる方としても清々しい気持ちになります。
まさに宮﨑駿そのものを見たという気になれるそんな映画でもありました。
誰も理解できない領域での戦い
この映画の中に出てきた、あの不思議の世界は、ある意味では宮﨑さんの棺なのではないかと思います。
これから自分がむかう死後の世界がああであってほしい。
あの世をかつてない解像度で描いています。
「おれは死んだらこの世界に行くんだ」と。そして創作を続けるんだと。死んだからって終わりじゃないんだと。
表現者としての矜持ここに極まれりです。
そしておそらくそうした死後の世界があるということを半分以上本気で思っているのではないでしょうか。
片足をあの世に自ら突っ込んでの制作。宮﨑さん1人だけがあまりにもすごい領域で戦っているので、BGMの音楽や主題歌が置いてけぼりになっているとも感じました。素晴らしい音楽ではあるものの、なにかしっくりとこない。なにか映画にくっついていない感じ。
でも、到底追いつけないとも思うのです。今回のような、ここまでとち狂った内容の作品には。
それらしい音楽をつけているけど、追いつけない。それは米津玄師の天才を持ってしても。
宮﨑駿だけがあまりにもすごい世界で戦っていることが際立っていたとも言えます。
これまた鈴木敏夫プロデューサーのかつての発言から引用します。「宮さんは映画制作終盤になるとある種の精神不安に陥る。その結果死に近づいていく。」と、そんなうふうに話をしていたことがあります。
崖の上のポニョ制作時の逸話として、これは宮﨑さんのプロフェッショナル仕事の流儀の取材をしていたNHKの荒川ディレクターが話してたことですが、映画制作終盤、いつものように鈴木敏夫との打ち合わせを終えた宮﨑さんが部屋から出てきて荒川ディレクターにこう言ったと。「荒川見たか、鈴木さんからなにか黒いものがゴソゴソ出てきてただろう」と。
それを本気で言っている。あまりの狂気に満ちた雰囲気に荒川ディレクターは思わずカメラを切ってしまったようで、それはドキュメンタリーにも納められてない。
ただ、ことほど左様に制作終盤の宮﨑駿の精神の追い込み方というのは異常で、幻覚が見えるほどだということなのです。
そして今回82歳という年齢になり、現実的にも死が近づいてきた。共に戦ってきた戦友の色彩設定の保田道世さん、そして高畑勲監督を失い、制作の最初から死というものを常に意識しての制作だったのだろうと想像します。映画に出てきた数々の幻想的なシーンは、もしかしたら宮﨑駿が見ている幻想の世界、もとい幻覚の世界そのものなのかもしれない。
これまでの作品においては、せいぜいが物語の中盤から終盤にかけて漂ってくるにすぎなかった死の匂いが、今作には最初からプンプン立ち込めているのです。
重力に満ちた作品
死を意識して作られた作品ということがあってのことなのか、今作は土や、地の世界を感じさせる描写が多かったようにも思います。石が重要なモチーフになっていることはその象徴のように感じました。
反対に、これまでの宮﨑駿アニメの代名詞とも言える空や天の世界を象徴する描写は少なかったと言えるでしょう。
土に還る。
飛行機の墓場ならぬ、船の墓場のシーンもありましたが、なにか重力や磁場、そうしたじっとりした重さのようなものを感じる作品でもありました。
下方向への力や力動が感じ取れる作品というのは宮﨑駿の作品では珍しいかもしれません。
おわりに
宮﨑駿は誰よりもアニメーションの力を信じている作家であると同時に、誰よりもアニメーションのフィクション性や欺瞞性に自覚的な作家でもあります。
こうした「自分の中にある矛盾」は近作では常に主題となっていましたが、今作でもその象徴のように、信念を貫く主人公と、欺瞞性に満ちた青サギが登場します。
2人の掛け合いが軸となり物語は展開していきますが、その掛け合いはどこまでも平行線で交わることはありません。
『もののけ姫』以降のテーマであった、解決できない複雑な問題を、見せかけの安直な答えには導かないという構えは一貫しているものの、そこには「解決できない課題に立ち向かうオレ」といった、ヒロイックな思考も同時に透けて見えます。
高畑勲に指摘され続けた宮﨑駿の弱点の一つです。
先述した、今作におけるやりすぎな演出シーンや必要以上の超絶技巧的な表現は、その弱点を自覚しているからこその、過剰な防衛反応のようにも思えます。
「人に喜んでもらえる作品を作ることが生きる意味」とまで語っていたかつての宮﨑駿の姿はそこにはありません。
常にアニメの受け手である子供のことを考え、本当の意味で作りたい作品を作ることができていなかった宮﨑駿。82歳にして、遅れてやってきた青春の中で必死に自分探しをしているのかもしれません。
さまざまなキャラクターはすべて宮﨑駿の分身でもあり、それは物語の中で、分裂した自我を取り戻すための要素として消費されていきます。
それゆえにキャラクターの魅力はほとんど皆無と言ってよく、かつての瑞々しい活劇と比べると物語のエンタメ性はありません。
天才、宮﨑駿。
創作者としてのバイタリティは健在であり、プロデューサー鈴木敏夫の話によればすでに次回作も構想しているとのこと。
すべてを手に入れ、良くも悪くも自由な創作に舵を切った彼の着地点はどこになるのか。依然として興味が尽きません。
書き手・大熊弘樹
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