自分を客観視する鏡は無かった

自分が部活で失敗した話。

中学の時、アーチェリー部に入部した。

小さなころから何故か弓を引くという行為が好きで、割りばしと輪ゴムで弓矢を作っていた。

で、入学した中学にアーチェリー部があったので入部した。

個人競技で好きな時に練習出来て、校風と相まって部活っぽくなくて、自由な雰囲気が好きだった。

練習を繰り返して筋力が増していくとスコアが伸びていって、それが面白くて練習を繰り返していった。同級生の中では一番頑張っていたと思う。

地区の大会で何度も入賞して、それが楽しくて、また更に練習を続けた。

うちは中高一貫校だったので、そのまま高校に進学した。

高校に入った頃に、全く弓が引けなくなった。

高校1年の春あたりから、少しずつ弓が引けなくなった。

弓を引いても、昔は打てていた本数が全く打てなくなった。

練習しても練習し、みるみる下手になっていった。多分最後の方は、満足に弓を引く事すら困難になっていたように思う。

やがて、練習量がはるかに少ない同級生たちにあっという間に追い抜かされていった。

当時の顧問の先生はほとんど指導しない人で、してもフワッとした表現でアドバイスをする程度だった。

上手くいっている時にはそれで十分だった。

でも、一度上手くいかなくなると、もう僕のスコアを上向かせることは部内の誰にもできなくて(というか、ほとんど教わっていなかったけど)、しまいには顧問の先生との関係も難しくなってしまい、僕は高校1年の終わりに部活を辞めてしまった。

結局、僕に残ったのは辛いときに頑張れずに途中で投げ出したという事実だけだった。部活の友人とも、妙なわだかまりが出来てしまった。

あの時、投げ出すみたいに止めてしまったアーチェリーは高校3年間ずっと自分の中に棘となって刺さっていた。随分長い間、後悔となっていた。

僕は大学受験の勉強もやっぱり下手くそで、どうしても苦手な数学が出来なくて、2浪してようやく大学に入った。浪人中に数学を克服するための試行錯誤を重ねたことで、ようやく当時の状況を落ち着いて振り返ることが出来るようになった。

努力の方向性には注意が必要だった

中高生のころ、努力は結果になって返ってくると思っていた。

でも、大学受験に失敗した上で気づいたのは、それは大きな間違いで、正しい努力のみが結果になって返ってくるのだという事だった。

僕が弓を引けなくなった最大の理由は、思い返せば単に雑な練習のしすぎてフォームを崩したからだった。

弓を引いて保持し、矢を放つという動作を無駄なく行うには、僕のフォームはあまりに歪になりすぎていて、筋肉が耐えられなくなっていた。でも、あるラインを過ぎてしまうと、無理な姿勢で無理やり弓を引くことになる。

僕が弓を引けないことに気づいた時には、もう僕のフォームは自分自身では修正不可能なレベルに至っていて、治す術も思いつかなかったのだ。

こんな単純なことに、僕は数年間気づけなかった。

顧問の先生は、フォームが少し人と違っていても同じ動作で引けて結果が出ているならば良しとするポリシーだったので、特に修正はされてこなかった。別にプロになる訳では無し、まあ良いのかも知れない。

激しく指導され過ぎたら、それはそれで脱落しただろうし。

(ただ、今にしてみれば指導を全然してくれなかった顧問も良くないと思う。正しいトレーニングのあり方や上達の方法論は、運動でも必ずあるはずで、そういうアプローチを中学時代に学べなかったのは残念だ。)

独りで苦しんでいた時に、部室に姿見の鏡が欲しいと本気で思っていたのを覚えている。体に染みついた癖のせいで、真っすぐ立って弓を引く動作がどうしても出来なかった。鏡を見ながら修正したかった。

もし、部室に姿見の鏡が一枚あれば、僕は自分のフォームを修正するきっかけを、手遅れになる前に気づけたかもしれない。

運動の素質が高い人には非常にバカバカしい話かもしれないが、自分の動作は自分には見えないという事実は、僕が思っていた以上に深刻な現実だった。

心のフォームを崩すという事

運動部が懲りた僕は、大学では文化部に入ることにした。そこは非常に真面目な部活で、だから人間関係が非常に難しい場所だった。

幸いに、同期にも、先輩後輩にも概ね恵まれたけれど、やっぱり難しい人は何人かいた。

僕自身は誰かとの関係が決定的に悪くなることはほとんどなかったけれど、数年に一人くらいの頻度で、周囲の人々を精神的に押し潰すような人がいた。

もうそうなると部の雰囲気は最悪で、色んな人を消耗させながら当事者が部を辞めるか、あるいは卒業するまで混乱が尾を引くことになった。

そういう人は、たいていちょっと癖のある若者として入部してくる。

そして、大学生活で後輩ができて、自分の仕事に自信が出てきたころに一気に「難しい人」へと変貌を遂げ、問題を起こし始める。

僕が経験した「難しい人」は、例外なく「自分の判断が正しい」と思っている人だった。だから他人の意見を聞けず、気づけない。周囲から疎んじられている事に気づいても何が問題なのか理解できない。

周囲も不幸なのだが、本人も寂しくて不幸なのだ。

そういう人たちを見ていて、ある時に

「ああ、この人は心のフォームを崩したんだ。」

と思った。

自分の動作は鏡を見ればわかるけれど、自分の心を映す鏡はこの世界にはどこにも存在しない。

もし、自分の心を映す鏡がこの世にあれば、自分が周囲にどんなに醜く映っているかが気づけるかも知れないのに…。

でもこの世は厳しくて、そんな鏡はどこにも無いから、結局は僕たちは他人に映る自分を教えてもらったり、想像したりしながら生きていくしかない。

きっと、心のフォームを崩した人は、敢えて「鏡」となってくれる人が居なかったのか、鏡を直視する勇気を持てなかったのだと思う。

鏡たる人は、気づかせてくれる人なら誰でもいい。

親、師、先輩、友人、恋人、ライバルだって。

個人的には、大学生になるくらいには、もう人格的にはほぼ完成されている人が多くて、修正が非常に難しいように思う。

だから、大切なのは、自分の価値観が確立される前に、そういう鏡があることを知れて、鏡と巡り合えるかどうかではないだろうか。

歳を重ねると自分が見えなくなる

社会人となり、自分より上の世代の人々と接する事も多くなった。

恐ろしいことに、心のフォームは何歳になっても容易に崩れるようで、中高年になって崩れた人も、出世して崩れた人もこの世にはたくさんいると思うようになった。

たぶん崩れる時期が遅ければ遅いほど、取り返しがつかない。僕自身も歳をとったら直截な事を言ってくれる人もみるみる減ってて、結構怖い。

でも、僕は自分の在り様を映す鏡を持っていないから、せめて信頼できる友人や同僚の言葉に耳を傾けたいと今は思う。

これは、僕が挫折した部活動で唯一手に入れる事ができた、大切な価値観だと思うから。


#部活の思い出



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