梟訳今鏡(2) すべらぎの上 第一 雲井、子の日
※わかりやすく、楽しんで読めるように訳してあるので、原典に完全に即した現代語訳ではありません。
雲井
後一条天皇は一条院の第二皇子でいらっしゃいます。御母君は上東門院彰子様。当時は中宮と申しておられたお方ですよ。
この彰子様はあの藤原道長様の長女です。
さて、この天皇は寛弘5年9月11日にお産まれになり、同年10月16日に親王宣下されまして、寛弘8年6月13日に御年4歳で東宮にお立ちになられました。
元々東宮位には一条院の御いとこでいらっしゃった居貞親王がついておられたのですが、一条院が退位なさり、その東宮が即位して三条天皇となられた関係で、代わりの東宮としてお立ちになられたんですよ。
三条天皇が世を治められたのは5年ほどで、長和5年1月29日にこの天皇に譲位なさったんです。御年9歳でのご即位でいらっしゃいました。そして、空いた東宮位には三条院の皇子、敦明親王がおつきになりました。
この天皇の摂政は他でもない、御祖父の左大臣道長様です。道長様は先帝の関白でいらっしゃいましたので、引き続いて摂政となられたんですね。
ですが、翌年の寛仁元年3月、道長様は摂政の地位をご自分のご子息である大将の藤原頼通様にお譲りになられてしまいました。そして、その日のうちに頼通様は内大臣へ昇進なさいました。
……そんな中、8月9日のことでしたかね、東宮の敦明親王がご自分の意思で東宮を辞退されました。それに、三条院も同じ年の4月にご出家され、5月に崩御してしまわれたのは、なにか不愉快なことがおありだったからでしょうか。
敦明親王がこのように東宮退位されてしまったので、天皇の弟君でいらっしゃった敦良親王が東宮に立たれることとなりました。
そしてその月の25日に前東宮の敦明親王に「小一条院」という院号が与えられました。また、小一条院の年ごとの年官・年爵は元の通り与えられることになり、御随身などもちゃんとつけられていましたよ。
この一連のできごとに、堀川の女御(延子)が「雲井まで……」の歌をお詠みになられたことなどは他の物語にも描かれていることですから、詳細には申さないことにしましょう。
寛仁2年1月、天皇が御年11歳になられ、3日にはご元服なさいました。まだまだ幼い感じでいらっしゃいましたのに、御冠を身につけられて成人なさったお姿といったら!大変愛らしくもご立派で、まこと、常とは違った素晴らしい宮廷の春といったところでございましたよ。
同年4月28日には宮の造営もようやく終わり、そちらへのお渡りがありました。
ピカピカの台、玉のように美しく飾られた階段……立派に磨きたてられた新しい宮の様子は実に華麗でしてねぇ。あの清廉潔白な御世の、その曇りのない素晴らしさがよりいっそう現れているようでした。
御格子も、御簾も、みんな新しいものをかけ渡してあるところへ、殿上人の夏衣、上級の女官達の装いなどのまあ大変涼しげなこと、この上もありませんでした。
その場には彰子様と東宮もいらっしゃいまして、梅壺の方で過ごされていました。道長様の四女である尚侍の威子様は女御として参られて、その夜、藤壺にいらっしゃいました。
それから同年10月11日頃、威子様は中宮にお立ちになられました。
国母(彰子)も后(威子)もきょうだいでいらっしゃる頼通様は、本当に類まれなお栄えぶりだったのでしょうねぇ。
その月の22日に彰子様の御所の方へ天皇の行幸がございまして、そこで桂を折る試み(詩賦の作成を課する試験)が行われ、そのお題は「霜を経て菊の性を知る」と「みどりの松、色を改むることなし」などであったそうですよ。
これらは道長様が出題なさったと承っております。
寛仁3年8月28日、御年11歳になられた東宮がご元服なさいました。同年9月29日には道長様が東大寺にて御戒を受けられました。
それから寛仁4年3月22日には無量寿院(法成寺阿弥陀堂)の造営が終わりまして、その供養をなさいました。
その儀に彰子様、妍子様、威子様の三后が揃って参加なさっていましたこと、その優美なご様子については他の物語に詳しく記されておりますから、ここで同じことを繰り返して述べる必要はないでしょう。
さて、同年10月に道長様は比叡山にお登りになられ、廻心戒とかいうものを重ねてお受けになりました。
それから治安2年の7月14日、道長様が法成寺の金堂供養をなさるということで、そちらへの天皇の行幸がございました。その儀には東宮も、后たちもみな出席しておられましたよ。
これを機に特赦が行われました。
治安3年1月に彰子様の御所へ朝覲行幸がございました。
その時に東宮も一緒に行啓なさっていましたよ。
それにしても、ご自分の御子が2人揃って天皇、東宮としていらっしゃったわけですから、古今に例のないお栄えを感じられるような雰囲気の御所であったことでしょうねぇ。
それで、同年10月13日に彰子様の御母君にあたられます鷹司殿倫子様の60歳の祝賀がございました。
……まあ、この話も物語となっていて有名でしょうし、皆さんの中にも読んだことがあるという方がいらっしゃるでしょうね。
万寿元年9月19日、関白頼通様が造営された高陽院へ天皇の行幸のご予定がありました。
そこで競べ馬をご覧になろうというわけでして、彰子様は予定の五日前に高陽院へお渡りになり、そこで待っておられました。
このようなわけで、彰子様は行幸の後21日に宮へお帰りになられたのでした。そんな高陽院行幸では、高陽院の役人たちの昇進がありましたよ。
そうそう、昇進で思い出しましたけど、道長様があの村上天皇の皇子でいらっしゃった中務宮(具平親王)のご子息で、源姓を賜って臣籍降下されていた中将の源師房様を養子になさいまして、その際に三位中将へ昇進なさったそうです。
それから万寿2年8月3日、東宮の御息所でいらっしゃった嬉子様が皇子をお産みになられたのですが、そのわずか2日後に嬉子様はお隠れになってしまわれました。
この嬉子様は道長様の六女でいらっしゃいました。ご出産という慶びの中での、なんとも驚くべき出来事で、悲しいという言葉では足りないほどです。
ですが、のちに後冷泉天皇として即位なさる皇子をお産みしたのですから、それはそれは高貴な方でいらっしゃいます。
亡くなられた時の悲しさはこの上ないものではございましたけれど、長く生きて天皇の后になられたのに男の皇子をお産みできなかった御姉君たち(妍子・威子)よりも、その後の栄光は非常に高いものでしょうよ。
子の日
万寿3年1月19日、太皇太后宮彰子様がご出家なさいました。
出家後も太皇太后宮という御位はそのままで、「上東門院」と申しました。
まだ40歳にも至っておられないうちに、大変賢く世を遁れられたものですよね。素晴らしいと思う反面、悲しくも思われる出来事でした。
大斎院選子内親王と申し上げる方が、この御出家のことをお聞きになって、
きみはしも まことの道に 入りぬなり
ひとりや長き 闇に惑はむ
と詠み奉られました。
選子内親王は村上院とその皇后宮安子様との間にお産まれになった方なんですよ。
そうそう、その安子様という方は東三条殿兼家様の御妹君にあたりますので、道長様にとっては叔母にあたられますねぇ。
その年の9月には中宮威子様の御出産がございまして、皇女(章子)がお産まれになりました。
その際の産屋には左兵衛督兼隆と申す方の家をお使いになったとか。
皇子でなかったのは残念なことですけれど、産養いなどは格別で、大変素晴らしかったと承りました。中宮の御出産ですから当然のことではあるんですけどね。
この皇女(章子)はのちに後冷泉天皇の后となって「二条院」と申し上げることになるお方なんですよ。
長暦元年に、その時の東宮(後冷泉)のもとへ初めて参られた際に、出羽の弁がそのお姿を拝見して、
春ごとの 子の日はおほく 過ぎぬれど
かかる二葉の 松は見ざりき
と詠まれました。
さて、後一条天皇の話に戻りましょう。
万寿4年1月、上東門院彰子様のもとへ年始の天皇の行幸がございまして、そこで朝覲の御拝をなさいました。
その御所の様子はと言いますと、普段よりもいっそう華やかで、唐絵に描かれたようにあざやかな築山、池の水の翠、生い茂った木々や立石など、どれもすごく風流な感じで、そこに多くの臣下が各々の位階に従って身につけた色とりどりの装束の袖、近衛府の役人の持つ平胡簶、平緒なども相まって、もうそれはそれはまばゆいばかりの立派さでございました。
中でも、あざやかな帷子の内から出てきた唐楽、高麗楽の舞人たちが、左右それぞれで袖を振り、舞う姿はその場によく映えて、まことに趣深いことでありましたよ。もう本当、言葉では表しきれないほどに。
そんな素晴らしいことがあった年ではありましたが、その年の11月、道長様のご病気が重くなっていきまして、お祈りのため、度牒を1000人分でしたか、お与えになられたとか聞きました。
その時道長様は法成寺にいらっしゃいましたので、天皇はそのお寺へお見舞いの行幸をなさいまして、僧に御誦経をさせたり、寺に御布施を賜ったりと様々なことをなさったと承っております。
また、東宮も法成寺にお見舞いの行啓をなさいました。
それにしても、お見舞いに来てくれる御孫の2人が天皇と東宮でいらっしゃるなんて、ご病気の折節につけても表れるその栄華の素晴らしさ、昔にもこのような例があったでしょうか。
しかし、12月4日にですよ、道長様はお隠れになってしまわれました。そのため、年が明けて春に行われる儀式なども、服喪のためにみんな滞ってしまいましてね、除目でさえも大分遅れてから行われたそうです。
長元2年2月2日、中宮威子様がまたも皇女(馨子)をお産みになられました。
この皇女(馨子)はのちの後三条天皇の后でいらっしゃいます。
お産みになった2人の皇女のいずれも天皇の后でいらっしゃるなんて、本当に摂関家の女性として立派な感じですよね。
そして長元6年11月、鷹司殿倫子様の70歳の祝賀がありまして、上東門院彰子様、中宮威子様、関白頼通様、内大臣教通様たちがそのための用意をなさり、執り行われました。
特に童舞いはとても可愛らしかったようですよ。
まだあどけない年齢の子供たちが唐風のあざやかな衣装を身にまとい、袖を振って舞う様子はなんとも熟達しているようだったと聞きました。どんなに素晴らしい舞いだったんでしょうねぇ。
その翌日、天皇はその童舞の少年たちを宮中にお召しになられ、昨日の舞いを再びご覧になられました。
その少年たちの中には昇殿を許された子もいたとか。また、彼らの舞いの指導者も位階を賜り、近衛将監に加えられたと聞きましたよ。
ああそうだ、倫子様の祝賀のために使った屏風に、臨時客という饗宴の際、赤染衛門が詠んだ歌で
むらさきの 袖をつらねて きたるかな
春たつことは これぞうれしき
というのがありました。
彼女の歌でいうと、他にも、子の日に関連して詠んだ
よろず世の はじめに君が ひかるれば
子の日の松も うらやみやせむ
という歌も優美ですよね。
長元9年3月11日頃から天皇がお病みになられてしまいましたため、神々に幣(お供え物)を捧げ奉られました。
また、様々な祈祷も行われました。殿上人を使者にして、左右の馬寮から神馬を奉納なさるなどしました。
ですが、享年30にひとつ足りずで崩御されてしまったんです。本当に、本当に惜しむべきことでした。
そうはいっても、御世を20年も保たれたことは後の世にもなかなかないような珍しいことでございましたよ。
それに、崩御後にもまだ生きていらっしゃるという体で御弟君の東宮に位を譲られるようにしておかれましたのは、のちに煩わしいことが起こるだろうからということで、それを避けるためのご英断だったのでしょうね。
それにしても、この天皇に皇子がいらっしゃらなかったのはなんとも残念なことでございました。
いつかの秋頃であったでしょうか、「菊の花、星に似たり」という題での御製の漢詩が評判になったようでして、それは
司天記取葩稀色 分野望看露冷光
(司天記取ス葩ノ稀ナル色 分野望ミ看ル露ノ冷キ光)
というようなものであったと人から聞きました。
御才も優れていらっしゃったのでしょうね。菩提樹院にはこの天皇の御影がございまして、それを題に、出羽の弁は
いかにして 映しとめけむ 雲井にて
飽かず隠れし 月のひかりを
という歌を詠みました。
この菩提樹院は二条院章子様の御堂でして、もしかすると父君をお慕いするあまりに、そのお姿を描き留めておいたのかもしれませんねぇ。
その時どのようなことを思われていたのだろうと想像するだけでも非常に悲しく、胸が締め付けられるような心地がしますよ。