「古墳」と「墳丘墓」について書き殴っとく(書き途中)

この記事は書いている途中です!
文献渉猟の進捗により、または生活の余裕により書き進められる予定ですが、現状に対する指摘などありましたら是非お寄せください。

はじめに

 考古学と言って知り合いに話せば、大体出てくる単語は決まっている。「土偶」、「埴輪」(この二者はしばしば混同される)、「邪馬台国」、そして「古墳」。そういえばアメリカ人にarchaeologyと言ってみたら「Indiana Jones」と言われた。それから、よくある勘違いに「恐竜」とか「化石」というのがある。
 とにかく、古墳は多くの人にとって「考古学的なもの」の代表として認知されている。その割には(だからこそか?)用語が整理されてないなぁ……というのは多分昔から言われてきたことで、それを今あらためて考えてみたい。
 「いまさら言ってもねぇ」という向きもあろうけれど、学問は発展している(という理想的な見方がある)以上はできるだけ新しい研究を参照していくべきだ。「古墳」が時代の名称になっているので、この問題は古墳自体に限らず、古墳時代全体ひいてはその前後の時代にも関連する問題である。

 なお私は考古学者でもなければ考古系の学部を出ているわけでもない、アマチュア考古学好きみたいな人間なので厳密性は問わないでほしい。このnoteは知識を増やしながら修正していくつもりだ。

Wikipediaの現状をみる

 とりあえず<古墳>・<墳丘墓>・<弥生墳丘墓>のWikipedia記事へのリンクを貼って、それぞれの記事の現状(2024年7月時点)を見たい。

 まず<古墳>の記事。トップに広義から狭義まで3つの<古墳>の定義が書かれ、定義が明確でないため齟齬が発生していることが指摘される。しかしそれ以下では特に断りを入れずに記述しているため、(おそらくWikipediaの不特定多数によって書き加えられていく性格も相まって)何について書いているのかひどくブレている。
 ほとんどの箇所は古墳時代開始(3世紀中葉)から薄葬礼(7世紀中葉)までを対象としていると思われるが、たとえば北海道・東北の<末期古墳>(7世紀-10世紀)のことを書いている。
 また北海道のことを盛り込む一方で朝鮮半島の前方後円墳についても書いているため、地理的にも曖昧と言わざるを得ない。現代の国境に依拠するのか(北海道)、当時の前方後円墳の分布に依拠するのか(朝鮮半島)がダブルスタンダードだということだ。
 まだある。概要-発生の節で「弥生墳丘墓からも発展している」と言って弥生時代と明確に区別しながらも同章-形状の節では双方中円墳の例として「楯築古墳」を挙げている!この遺跡は一般に<楯築遺跡>あるいは<楯築墳丘墓>と呼ばれている弥生時代の遺跡だが、そこをわざわざ曲げて古墳の一例として載せている姑息さ。

 次に<墳丘墓>の記事。日本語の参考文献が都出比呂志氏の『王陵の考古学』しかない。手元に無いのでこの本で世界の事例を<墳丘墓>と呼んでいるのか分からないが、<墳丘墓>を墳丘をもつ墓の総称として定義し直した都出氏の作なのでその可能性はある。逆にいえば、そういう立場の人の著作にしか依拠していない。そもそもこの記事は参照箇所を明示していない時点で書き直し必須。

 そして<弥生墳丘墓>の記事。概要の章の途中まではそれなりに整理されているものの、和田晴吾氏の定義に乗っかりっぱなしで学史を把握して書かれたものではない(近藤1977、都出1979など古いところはまあ抑えてある)。後述するが和田氏の定義は(分かりやすくてこれはこれで重要とは思うが)学史上覇権的とは思えないので、これに完全に乗っかる理由は無い。

「墳丘墓」の研究史

 本来、<古墳>の研究史をなぞり、<墳丘墓>の研究史をなぞって最善の着地点を探すのが良いと思う。しかし<古墳>の研究史は『古事記』(8世紀前葉)に始まる1000年以上の蓄積があり、到底追い切れない。ここでは<墳丘墓>の研究史を中心に、一部<古墳>についても参照しながら対比していきたい。

墳丘墓以前

 のちに墳丘墓概念を提唱する近藤義郎氏の1966年の論文「古墳とはなにか」(近藤1966)から、墳丘墓概念登場以前の<古墳>観をみる。

 近藤氏は後藤守一、中沢澄男・八木奘三郎、高橋健自、小林行雄、斎藤忠の各氏による定義をまとめて「高い墳丘をもった古代の墓」というのが共通する意識であるとする。これは墳丘をもつ墓の総称をさすという現在の<墳丘墓>の定義にほぼ等しい。
 近藤氏はこの定義では横穴墓などが排除されるという理由で認めていない。ここでの近藤氏の定義をまとめるなら古墳時代の開始(3世紀中葉※現在の見解)から天武天皇陵(7世紀後葉)における「すぐれてイデオロギーの産物」(近藤1966)としての墓といったところとなろう。
 当時の辞典としては水野清一氏・小林行雄氏の『図解考古学辞典』(水野&小林1959)があるが、そこでの定義は上述した小林氏のものなので省略する。

墳丘墓概念の提唱

 近藤義郎氏は岡山県倉敷市楯築遺跡の見学を通して、弥生時代に墳丘をもつ墓があったことを確信する。そして「おもに盛土によって墓域を画し形成しようとしている」弥生時代後期の首長墓を暫定的に<墳丘墓>と呼ぶことを提唱する(近藤1977)。古墳との関係については、古墳の影響によって作られた「盛土墓」はもはや古墳と呼べばよいとする。
 近藤氏は集団間の格差・不均等の成立と首長の隔絶化の「両者あいまって古墳を出現させる諸前提を形成していった」(近藤1977)と述べるとおり、<墳丘墓>を古墳に直接つながる古墳出現前夜の墓制として位置付けている。
 墳丘をもつ墓の総称としては上述のとおり<盛土墓>を用い、そのうち古墳の影響のないものを<墳丘墓>、古墳の影響を受けたものを<古墳>と呼ばせている。

<墳丘墓>の普通名詞化

 北條芳隆氏は<墳丘墓>の普及の過程は「「墳丘墓」なる用語のいわば普通名詞化の歩みでもあった」と指摘する(北條1999a)。この節ではこの現象についてみていく。

 都出比呂志氏は「おもに盛土によって墓域を画し形成しようとしている」(近藤1977)という定義では墳丘墓を周溝墓や台状墓と質的に区別し得ないと指摘し、墳丘をもつ墓の総称として<墳丘墓>を再定義する(都出1979)。こうして近藤氏が設定した<墳丘墓>の時間的位置付けはもはや消失し、<墳丘墓>をめぐる論点は移り変わってしまった。

 これ以後、①近藤氏の設定した前方後円墳出現前夜の墓制を考えるための作業概念として<墳丘墓>をみる立場と、②都出氏の設定した墳丘をもつ墓の総称として<墳丘墓>をみる立場の双方が並存することになる。

①作業概念としての<墳丘墓>

 この立場はどうも②の立場に押され気味らしく、②の立場の<墳丘墓>を参照した上で自分の立場を宣言することが多い。もはや②の意味がついて回る<墳丘墓>に代わって新しい用語を設定しようとする研究者もある。

 喜谷美宣氏は、弥生時代の概説書で墳丘をもつ墓の総称あるいは弥生時代の墳丘をもつ墓の総称として<墳丘墓>が使われていることに言及しながら、「ここでは、弥生時代Ⅴ期を中心とした、狭義の、言いかえれば高塚系の墳丘墓に限って述べる」(喜谷1987)とする。
 同じ書籍の中で藤田憲司氏は<方形周溝墓>・<方形台状墓>・<四隅突出墓>のような墓域の区画形態による用語に対して<墳丘墓>は「区画墓のなかでも傑出した規模と質をもつ墓の意味を、弥生時代の墓制の発展段階の中で考えようとした概念」(藤田1987)だから同列に扱うことはできないとする。これは強く①の立場である。

 大賀克彦氏は<弥生時代>と<古墳時代>を画する<区分X>、<区画大/墳丘高>と<区画小/墳丘低>を画する<区分Y>、<区画小/墳丘低>と<区画小/墳丘無>を画する<区画Z>を用意して、<区画Z>を重視する立場をとる(大賀2003)。「「墳丘墓」概念は、時代的な限定性を持たないものとして導入」(大賀2010)し、代わりに<弥生墳丘墓>という用語を弥生時代後期中葉から終末期にみられる首長墓の意味で使用している。墳丘をもつ墓を一括するのではなく、首長墓としての<弥生墳丘墓>を分離した点で①の立場に入れる。

②墳丘をもつ墓の総称としての<墳丘墓>

 <墳丘墓>を墳丘をもつ墓の総称として再定義した都出比呂志氏は、<墳丘墓>を<低塚系墳丘墓>と<高塚系墳丘墓>に細分しようとする(都出1986)。「両者の境は厳密には引けないが」地表2メートルを一応の目安として区分するが、これは近藤義郎氏がとっくに「「高さ七、八米」と高さ四、五mとの相違の意味を説明することが完全に不可能」なので「意味をなさな」い(近藤1966)と指摘している問題をパスしていない。そもそも<墳丘墓>が<周溝墓>や<台状墓>と区別できないから再定義したのに、<低塚系>と<高塚系>は厳密に境界線を引けなくても良いのだろうか?
 さらに都出氏は古墳時代の<墳丘墓>を<古墳>と呼ぶという循環論法に陥りそうな議論を展開している(都出1986)。<弥生土器>と<土師器>を時代の別で区分することを理由に<古墳>もそれで良いと言っているが、それは土器がこの時代の区分に用いられないからこそできることであって、時代区分の指標となっている<古墳>でやるのはダメだと思うがどうなんだろう。

メモ

 諸橋大漢和には「墳」は1-1「はか。土を高く盛つたはか。」、1-2「をか。」、1-3「す。しま。」、1-4「つつみ。」、1-5「がけ。きし。」、1-6「土。」、1-7「大きい。」、1-8「古代の書の名。」、1-9「わける。」、1-10「濆󠄂に通ず。」(さんずいに墳の右側)、1-11「蕡に通ず。」(くさかんむりに墳の右側)、1-12「賁に通ず。」(墳の右側)、1-13「羵󠄁に通ず。」(ひつじへんに墳の右側)、2「肥えた土。」、3「うごもつ。地面が高くなる。土が沸起する。」とある(JapanKnowledgeより)。
 墓の意味でこの字を用いるのは1-1の意味だが、ここではとくに盛土をもつことが取り上げられる。したがって<古墳>に盛土をもたない墓を含むことは字義から言って無理であって、横穴墓を含む墓の総称は別に設けた方が(混乱するだろうが)誠実だと思う。

 この文章全体が、<石庖丁>は実は穂摘み具だから用語を訂正すべきだというような半世紀以上前の(そして半世紀後になっても訂正されていないような)議論と何ら変わるところがないことは自認している。ただまあ、北條氏の言うとおり、「事情を正確に把握しておくことが、(中略)墳丘の問題を考える際には、とりわけ重要だと思われる」(北條1999a)。

文献

  • 大賀克彦 2003「紀元三世紀のシナリオ」清水町教育委員会 編『風巻神山古墳群』 清水町教育委員会

  • 大賀克彦 2010「ルリを纏った貴人:連鎖なき遠距離交易と「首長」の誕生」小羽山墳墓群研究会 編『小羽山墳墓群の研究:研究編』 福井市立郷土歴史博物館

  • 喜谷美宣 1987「墳丘墓」金関恕&佐原真 編『弥生文化の研究8 祭と墓と装い』 雄山閣

  • 近藤義郎 1966「古墳とはなにか」近藤義郎&藤沢長治 編『日本の考古学Ⅴ 古墳時代(下)』 河出書房新社

  • 近藤義郎 1977「古墳以前の墳丘墓:楯築遺跡をめぐって」『岡山大学法文学部学術紀要(史学篇)』37

  • 都出比呂志 1979「前方後円墳出現期の社会」『考古学研究』26-3

  • 藤田憲司 1987「方形台状墓」金関恕&佐原真 編『弥生文化の研究8 祭と墓と装い』 雄山閣

  • 北條芳隆 1999a「墳丘とその巨大性」『季刊考古学』67

  • 水野清一&小林行雄 編『図解考古学辞典』 東京創元社

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