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ショートショート|スイスのオルテンで空からチョコレートが降った

 ある日、スイスのオルテンで空からチョコレートが降った。オルテンを拠点の1つにしているリンツ&シュプルングリー社のチョコレート工場において喚起システムに不具合が発生し、材料であるカカオニブの粉が大量に大気中に放出されたためだ。出所したかのように自由を得たカカオニブは道だったり原っぱだったり思い思いの場所に腰掛けた。
 私はこの話を、大学で行動経済学のゼミの授業が始まる直前にゼミ仲間の男の子から聞いた。
「君ってチョコレートが好きだったよね? 実はね、スイスでチョコレートが降ったらしい。知ってる?」と彼は言った。私は知らなかった。
 この話を彼から聞いた時、ふと私はイタリアのカステルべトロの民家で蛇口をひねったら赤ワインが出てきたというニュースを思い出した。近くのワイン醸造所で誤って上水道にワインが流入したのが原因らしい。詳しくは知らない。と言うのも、テレビのバラエティ番組のクイズコーナーでちょっとだけ扱っていたのを聞き齧っただけだから。しかし事実は小説より奇なりと言うか、世の中にはいろんなニュースがあるんだ。
 
 ゼミの授業が終わり、電車に乗って自宅に帰るその車内で例のチョコレートが降った事件についてスマホで調べてみた。何か新しい情報が得られるかもしれないと思ったのと、人伝に聞いたことよりも自分で調べたことの方が記憶に残りやすいからだ。私はこのニュースに興味を惹かれたのだ。チョコレートを降らせたリンツ&シュプルングリー社はオルテンの住民に対して汚れた自動車の清掃費を代わりに払うことを報せたらしい。
 ニュースサイトを見ていると、ふと別のニュースの見出しが目についた。モーリシャス沖で商船三井社の貨物船が座礁し、大量の重油が海に流れ出たという。モーリシャスの美しい海が汚されている様を想像すると胸が痛んだ。私はこの見出しをタップしてニュースの詳しい内容にアクセスしようと思ったが、結局はやめた。さらに暗い気持ちになることが容易に見越され、今はそれを受け入れる気分ではなかったからだ。
 空から降ったチョコレートも貨物船から流れ出た重油も「あるはずのないものによる介入」、もっと短く言うならば「侵略」という点では共通している。そんなことを考えていた時、そういえば犬や猫がチョコレートを食べると少量の場合でも嘔吐や下痢の症状が表れ、量によっては最悪の場合死に至ることを思い出した。スイスのオルテンで暮らす犬や猫も危険にさらされている。しかし、私にはどうすることもできない。私は思ったより深く落ち込んだ。
 
 オルテンで起きたニュースについて話してくれたゼミ仲間の男の子が「君ってチョコレートが好きだったよね?」と私に尋ねたのは、よく私がチョコレートを食べているからだろう。
 悲しいことがあると私はチョコレートを食べる。例えば良くないニュースが心に突き刺さった今日なんかだ。駅から自宅へと歩くその道沿いにあるコンビニに立ち寄って日清シスコ社の『チョコフレーク 濃厚仕立て』を買った。帰ったら静かに食べよう。
 
 またある日、大学の講義が終わってキャンパスから最寄り駅へと歩いている途中の道路で、たぶんタヌキだろう、野生動物が車に轢かれて死んでいるのを目撃した。轢死体が無念さを湛えてて転がっている。このタヌキと私には何の関わりもない。一緒にお茶をしたり年賀状を送り合ったりなんかもしていない。それでも心が沈んでいるのを自覚する私は感傷的すぎるだろうか?
 ロードキルの現場や事後を目撃したらレクイエムを捧げるようにしている。ザ・ビートルズの『イン・マイ・ライフ』の開始1分28秒後から始まるピアノの間奏を口笛で吹くのだ。やってみれば分かるがこの部分は音が忙しいため、それを追っていると最後の方は息が苦しくなる。これが肝だ。死という苦しみをほんのほんの少しでもこの身で味わうのだ。それが車に轢かれて死んだ動物のためだと勝手に思って勝手にやっている。たまに忘れるけど。
 悲しいことがあると私はチョコレートを食べる。例えばタヌキが車に轢かれて死んでいるのを目撃した今日なんかだ。ロッテ社の『アーモンドチョコレート クリスプ』を選んだ。太らないように少しだけ食べて残りは冷蔵庫で保存しておいた。
 
 今日は嬉しいことがあった。歯科医院に定期検診に行ったら歯科医に褒められたのだ。彼はマスク越しでもはっきり分かるくらい爽やかに笑って「虫歯はありません。よく磨けていますよ」と言った。
 えーっと、実は嬉しいことがあっても私はチョコレートを食べる。明治社の『ザ・チョコレート 力強い深みコンフォートビター』に決めた。悲しいことがあった日は甘いチョコレートを、嬉しいことがあった日はビターなチョコレートを口にする。要するに年がら年中チョコレートを求めているのだ。スイスのオルテンで雪が降った日も、時としてチョコレートが降った日も。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ