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ショートショート|角羽社は存在しない

 僕は今、阪急電車に乗って神戸から大阪に向かっている。本場のたこ焼きを食べに行くのではないし、通天閣を拝みに行くのでもない。早い話が就活で、今日挑戦する企業は大阪に支社を構える角羽(かくう)社だ。1999年6月2日水曜日、車窓によって長方形に切り取られた景色のおよそ上半分は曇り空、腕時計を見ると午前7時43分。既に書類選考、筆記試験、それから集団面接を突破し、これから個人面接がある。正念場だ。この会社の下調べも済んでいる。大阪に着くまでそう長くはないが、今のうちに頭の中で再確認をしておこう。 

 角羽社の創業者かつ現在の代表取締役会長でもある人物の名は****だ。彼は長崎県北西部の離島である角羽島で育った(両親ともにこの島の出身だが生まれたのは長崎県本土である。角羽島には産婦人科の病院がないから)。言わずもがな、この島名が会社名の由来となっている。**は青雲の志たくましく幼い頃から勉学に励み、高校は長崎県本土の長崎東高校へ、さらにここでも学友と切磋琢磨し、大学は一橋大学の商学部へと進んだ。一橋大学がある東京へと向かうため角羽島で船に乗り込む際、見送りとして島民の9割が港に集まったという。
 **は優秀な成績で大学卒業後、すぐさま出版社である角羽社を立ち上げた。世の中には出版業は虚業であると断ずる人間もいる。しかし、**は全く逆の考えであった。すなわち、本を作るのは野菜を作るのと同じように不可欠な産業であると。
 それからの角羽社の躍進は小学生でも認識しているところだろう。出版社のみならず商社としての事業展開も見せ、CMで用いた「ペンから剣まで」というフレーズは記憶に新しい。さらに今後はIT業界に参入することを宣言しており、情報化社会においてITがより重視されるという大きな時流に乗る目論見もあるが、具体的な話をするならば電子書籍が今後隆盛を誇るのを見越し、出版社としてもそのプラットフォームという地位を手に入れたいという考えもある。今後はシリコンバレーの巨人たちと鎬を削ることが期待される。
 ちなみに角羽社はコングロマリットではなく、M&Aもしていない。これは代表取締役会長である**氏の性格によるものであり、ひいては社是でもある。

 角羽社のこれまでとこれからは簡単にはこんなところか。ものぐさな自分にしてはよく調べた方だと思う。まもなく阪急電車は大阪に着く。さあ、大一番はもうすぐだ。就活ひとつで今後の人生は泣きたくなるほど大きく左右される。今日という日の僕はその分岐点にいるのだ。子どもの頃、おもちゃ屋のチラシを食い入るように見ていたあの時に似た昂りがある。大丈夫。胸を借りるつもりでいこう。

 後日、おやつとして酸味の強いブドウを食べているとインターフォンのチャイムが鳴り、ドアを開けてみると郵便配達員で、渡されたのは角羽社からの封書だった。この中に採用不採用のどちらかを告げる通知書が入っている。が、不本意ながらこの封書を開けずとも僕には不採用であることが分かってしまう。採用だった場合、内定通知書のほかに内定承諾書だったりと諸々の書類が入っておりそれなりの厚さがあるが、たった今僕が手にしている封書は明らかに薄っぺらだ。要するに、紙が1枚だけ入っていて「誠に残念ですが……」という内容のことが無機質に書かれているのだ。角羽社は存在するが、僕を受け入れてくれる角羽社は存在しない。
 ……まあ、いいさ。そもそも僕は角羽社なんかにこれっぽっちも興味がなかったんだからな。本当さ。ふん。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ