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ショートショート|ハロー・グッバイ・ハロー・グッバイ

 走ること自体も楽しいが、走りながら黙々と自分の世界に浸るのがより好きかもしれない。……ちょっと大人ぶってるかな。僕は中学生で陸上部に所属している。専門は長距離走だ。
 朝の澄んだ空気の中で行う自主練は至福だ。世界を独り占めしたかのよう。走るのはいつもこの砂浜。2つ理由がある。
 1つは、砂に足をとられて走りにくいため、むしろこれが良い負荷になって、脚力を鍛えるのにピッタリだから。アスリートもこのトレーニングは採用しているらしく、模倣するだけでなんだか僕も一流になった気分。
 もう1つは、単純に砂浜と海が好きだから。なぜ好きなんだろう? もしかしたら、3歳まで長崎の離島に住んでいて、海でよく遊んだからかな。記憶こそほとんどないけれど、潜在的に。後年、両親は言った。「私たちは漁師さんより海に出ていたよ」と。

 日課がもう1つ。砂浜のゴミを拾うことだ。大量にではなく、両手に収まるくらい。利他的精神……ではない。実際、自分の力で好きな場所が綺麗になるのは爽快なんだ。ガーデニングと同じ。
 ゴミ拾いを始め、以前より街中に落ちているゴミを意識するようになった。特に気になるのは、アスファルトの地面に張り付いて真っ黒になったガム。

 自主練ではそんなに身体を追い込まない。走るのは4kmくらい。その後、クールダウンの意味も込めてゴミ拾いをする。ルーティン。
 しかし今日は珍しいことが起きた。錆びついてどちらが上かすら分からないが、不思議と放っておけない気持ちにさせる妖艶で小さな箱を拾ったのだ! 指にザラザラとした感触を覚えながら不器用に開けると、中には美しい指輪が入っていた——

 僕は悩んだ。こんな経験は今までにないから。とりあえず、この小さな町では唯一の骨董品店に連絡した。「とりあえず店においで」とのことだった。
 箱の錆の具合から誰かが最近としたものとは考えにくい。もし本物であれば、その後に警察に届けよう。

 骨董品店に入ったのも初めてだ。絵や陶磁器やとにかく雑多に美術品が置いてあり、宝石も少し並んでいる。流れている音楽はビートルズの『ハロー・グッバイ』。少し埃っぽいものの、落ち着いていて心地良い空間だ。
 古美術商のお爺さんが店の奥から顔を出した。髪も口髭くちひげも白く短めで上品に整っており、身体はだいぶ痩せているが動きは流麗で、外国映画にたまに登場する〈執事〉を僕に想起させた。お爺さんはしみじみと言った。
「そうか、君だったか」
 僕にはどういう意味か分からない。

 古美術商のお爺さんは唄うようにスラスラと語りだした。嬉しさを隠しきれずにいる様子だ。
「ダイヤの指輪が入ったこの箱は、つい先日わたしがあえて砂浜に置いたんだ。錆がついているだろう。元々は同じ砂浜に漂着していたらしく、8年前に私が譲り受けたんだ。
 最近、不思議なことが起きている。ゴミがたくさんあった砂浜がほんの少しずつ綺麗になっていくではないか。親切な誰かがゴミを拾っているんだろうな。
 その時、ふと倉庫で眠っていたこのダイヤの指輪の存在を思い出したんだ。砂浜を綺麗にしている人格者にこれをプレゼントしよう。砂浜に置いておけばきっといつか拾うからね。捨てられたり警察の手に渡ったりしないよう祈るだけだ。ダイヤの指輪にはあともう少しだけ漂流・・してもらおうじゃないか」

「私とは別の古美術商にこのダイヤの指輪を売るといい。価値は7万円ほどだ。置いた際には拾う人間の年齢層が分からなかったが、子どもの君にとっては少しばかり大金かもしれんね。まあ、よければ受け取ってほしい」
 お爺さんは優しく僕の掌にダイヤの指輪を載せ、こう言った。
「売ったお金で買いたい候補はあるかね?」
「……丈夫なランニングシューズを買おうと思います。砂浜を走っていると傷むのが早いんです。でも、続けたいですから」
「うむ」
「それからゴミ拾いも続けます。いつかまたお宝と巡り会うかもしれませんからね」
 お爺さんと僕は笑った。それで僕の掌でほんの少し揺れたダイヤの指輪が、光の反射でキラリと輝いた。



第10回漂流紀行文学賞
主催 NPO 砂浜美術館
レギュレーション 流れてきた「ダイヤの指輪」をテーマとして漂流物となった理由を、自分勝手に想像した小さな物語
指定字数 400字詰め原稿用紙5枚以内
📉 落選


参加賞のポストカード

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ