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ショートショート|非濫読家

 濫読家の女性がいた。いわゆる本の虫。彼女は多様な分野の本を片っ端から時間が許す限り読んでいた。文学も哲学も芸術も産業も自然科学も社会科学も。しかし、ある時から自分の読書体験は正しいものか疑問を持つようになった。一期一会と言うべきか、次から次へと本を読み終えては書庫に仕舞い込んでしまい二度と紐解かないのは、果たして本を愛する者としてあるべき姿なのだろうか。苦悩した結果、彼女はこう決心した。「私はこれからの人生、1冊の本しか読まない」と。非濫読家になろうではないか。元来、極端な性格なのだ。
 そして、その大事な1冊も運任せに決めてしまうことにした。吟味すればいつまで経っても始められないからだ。書庫にあるこれから読もうと思って並べていた本の前に立ち、目を瞑って1冊を引き抜いた。角羽かくう社が発行した『鍵を知るためのキーワード』という本だった。鍵の仕組みや歴史などが記されたものだ。備えとして本屋に行ってこれと同じものをあと9冊注文した。電子書籍版も買った。 

 彼女は社会人で、働いていた。もちろん仕事の中で書類に目を通す機会があるし(元々それが多くはない職種だった)、スーパーマーケットに買い出しに行けば商品名や価格を見ることになる。ただ、そういったものと選ばれし本である『鍵を知るためのキーワード』を除いてはほとんど文字に触れることもなく、以前に比べて極端に追う文字数が少ない生活を送ることになった。新聞を読んだりテレビを観たりしないのは、彼女をごく少数派たらしめる一風変わった性格によるものだが、リアルタイムの世相に興味が持てなかったからだ。活字中毒の禁断症状が出れば例の鍵の本を開いた。中世(とすればあまりに長い期間を指すことになるが、事実としてピンポイントな年は分からない)のヨーロッパの一部の図書館では、盗難防止のために〈鎖付き図書〉といって本が鎖で書見台に繋がれており、鍵によってそれが解かれる仕組みのものもあったという。さらにそのいくつかは現役である。鎖付き図書と鍵か、ふむふむ。彼女は鍵について格段に詳しくなっていった。

 その本を何十回読破した頃だろうか? ある日彼女が仕事を終えて帰路につき、自宅のドアの解錠をしようとしたところ、肝心の鍵がないことに気がついた。ポケットを探っているとその原因が分かった。底に、しばらく歩いた弾みで鍵が落ちるくらいの穴が空いていたのだ。職場は徒歩で15分のところにある。その道のどこかに落ちているかもしれない。急いで探しに戻ることになった。

 傍から見れば彼女は俯いてトボトボと歩いている。落とした鍵を探すために下を向いているからであり、また落ち込んでいるからでもある。日は傾き、暗くなりつつある。それはますます鍵が見つかりにくくなることを意味している。日が暮れるこの時間をこれほどまでに焦りながら過ごすのは初めてだ。彼女と夕食や風呂を物理的に隔てているドアの鍵。今や鍵が誕生したとされるエジプトさえ忌ま忌ましい。そして思った。目指すべき理想は鍵が必要とされない世界ではないか。しかし、それは核なき世界よりも実現が難しいかもしれない。普段なら絶対に考えないようなことを考えている。頭を何かで満たしておかないと、落とし物を探すという行動がどうしようもなく建設的ではないことを自覚してしまうからだ。
 日が落ち、タイムアップを告げられた。鍵は見つからなかった。泣きたい気持ちだがいつまでもクヨクヨしていても仕方がない。今後のことを考えなくては。彼女は友人に連絡をし、事情を説明した後で、1日だけ泊めてもらえるように頼んだ。友人は快諾してくれた。何度もお礼を言ってからその家へ向かった。鍵に関しては明日、大家さんに謝ろう。

 友人の家へと向かう途中、このような思いが去来してきた。私は鍵について書かれた例の本を何十回と読んだ。読み込んだと言ってもいい。ほとんど暗記してしまうような勢いだ。それなのに——そう「それなのに」と言うしかないが——鍵を落とすというミスをした。それからもう1つ。繰り返し読んだから分かるが、あの本には〈紛失した鍵がどこにあるか〉については一切書かれていなかった。ジョークのようだけれど、一方でこれは至って真面目なテーマでもある。鍵を扱う上で最も重要な問題となるそれに対する答えが提示されていなかった。事実は事実。どれだけ鍵を主題にした本を蒐集しようとも、落とした鍵の在り処には辿り着かない。
 本を読むことですべてのミスを未然に防ぐことはできないし、あらゆる知識を得ることもできない。それは1冊を読み込もうが、逆に濫読しようが同じこと。そう気づいた時、今までの度を越した自分の行為は本に対する歪んだ愛情であるとようやく考え直した。あまりにも遠回りした発見だった。中世ヨーロッパの鎖付き図書だったかな。自宅の書庫で埃をかぶっている見えない鎖付きの本たちを解き放ち、本棚にまるで縛り付けるようだったこれまでとは違い、気ままに書庫から持ち出す日々を迎えよう。鎖に付属した錠を開けるための鍵を今ようやく手にしたのだ。

 泊めてもらった友人の家で寝る前に、「ここにある本を読んでもいい?」と尋ねた。友人は「いいよ」と答え、続けて言った。
「あんたは本当に本が好きだからねえ。そう尋ねてくるんじゃないかと思ったよ」
 久しぶりに鍵以外について書かれた本を読む。それは世の中でそう多くはない人のみが享受する独特で新鮮な読書体験だった。

 後日、お礼として彼女はその友人に高価なカステラと『鍵を知るためのキーワード』の保存版を1冊あげた。なんと言っても手元に10冊もあるのだから。「良い本だからぜひ読んでね。きっと鍵に対する見方が変わるよ。鍵を失くした私が言うのもなんだけど」と添えて。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ