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ショートショート|人生を流れる水に例えたら

「九州はシリコンアイランドと呼ばれています」と先生は言い、続けてこう問うた。「半導体産業が盛んだからですね。私たちが住んでいるこの町にもその工場がいくつかあります。ではなぜここでは半導体産業が盛んなのでしょうか?」
 私は頭を捻った。小学6年生に問いかけるにしてはあまりに難問ではないかな? そんな工場がここにたくさんあること自体初めて知った。答えがわからないから誰も挙手をしない。
「うーん、ちょっと難しいかな」と先生は言い、少し時間を置いてからこう告げた。
「正解は水が綺麗だからです」 
 冗談だと思った。水? 半導体って機械の中に入っているやつだよね? 先生は続けた。
「簡単に言うと、半導体は製造過程で何度も水によって洗浄する必要があるのです。だから綺麗な水が豊富に得られる場所に工場が建っているんですよ。川の近くとかですね」
 先生は一呼吸置き、本題からはちょっとズレますが大事なことを言います、と前置きしてから次のように告げた。
「川は身近にあってその恩恵をあまり実感できないものです。ですが、たまには思い出してくださいね。あなたたちが大人になっても」

 22歳になってやっとせせらぎ・・・・を聴いて心が休まるようになった。少女だった時代には意識すらしなかったことだ。
 歩きながらその音に耳を澄ませていると――と格好つけても、言い換えれば生まれ育った地元を意味もなくブラブラしているだけだけれど――前方から歩いてきた誰かが目の前でふと私の名前を呼んだ。
「よお、久しぶり」と彼は言った。彼の言うように久しぶりだったから一瞬誰だか分からなかったが、すぐに記憶が呼び起こされた。小中学時代の同級生だ。ランニングウェアを着て、首にタオルをかけている。
「わ、久しぶり」と私も言った。

 彼と私は川沿いにあったベンチに座って話をした。中学を卒業した後にどんな道を歩んだのかが話の中心だ。
「俺はね、高校には行かなかったんだ。親には親孝行という高校に行けと言われたよ」と彼は屈託のない笑顔で言った。そして続けて私に尋ねた。
「大学に行ったんだっけ?」
「うん、もう4年目」
「ってことはダブったの?」
 私はなぜ彼がそう言ったのか理解ができなかった。事実として留年はしていない。どうしてそう思ったのだろう? 思い切ってそのまま訊いてみた。
「ううん、留年はしてないよ。どうしてそう思ったの?」
「言いにくいけど、3年生の時に卒業できなかったんじゃないの?」
 ようやく分かった。彼は大学を中学や高校みたいな3年制だと思っているのだ。大学の学部は4年制や6年制なんだよ、と教えるのは簡単だ。しかし、どういう顔と口ぶりですればいいのだろう? そう思ったが、それ自体が失礼なのかもしれないと反省した。私はちっぽけなことに悩んでいるだろうか? 時々自分が嫌になる。相手が勘違いしているならば嫌味にならないように気を配りながら素直に指摘する。単純なことだ。
「普通、大学を卒業するには短くとも4年間通わなきゃならないんだよ」と私は言った。
「そうなのか。悪い、勘違いしてたよ」と彼は頭を掻いて言い、続けてこう尋ねた。
「もう就職は決まった?」
「いや、大学院に行くよ。政治を学ぶの」
「ダイガクインって何?」
 私は丁寧に説明した。 

 時として人生は不思議な巡り逢いによって彩られる。大学院を卒業した私は仕事として故郷の選挙管理委員会に属するに至った。結婚をし、子どもも授かった。ある年の選挙で事務のために投票所に行くと、そこには今となってはだいぶ昔の大学4年時に川沿いのベンチで話した例の同級生の彼がいた。その時には彼と接触できなかったため同僚に教えてもらった話では、投票立会人が公募された際にそれに志願して結果的に選任されたのだという。
 彼はパイプ椅子に座って町民が投票をしているのを眺めており、一方で私はこの邂逅のことをしみじみと考えるにつけて、懐かしさを感じるのと同時に頭の中には川の情景が描き出されていた。「たまには思い出してくださいね。あなたたちが大人になっても」と小学6年生の時に先生が言っていたっけ。シリコンアイランドや半導体産業について解説する文脈で。そうだ、人生を流れる水に例えたら、人と人の再会はまるで山麓で分岐した川の水が海という到達点でまた合うようではないか——

 夜に町民の投票が終わると我々は投票箱を持って開票所へ移動する。それには投票立会人も同行する。その合間にこっそりと今度は私から彼に声をかけた。
「久しぶり」
 厳かな場だし時間もないからそれだけ。だけど、たぶんそれで充分。
 彼とは別の車に乗ることになった。移動する車の助手席でシリコンアイランドに川が昂然と流れる毎日のことを静かに想いながらぼんやりと車窓に映る景色を見ていると、ボンネットの方から後部座席の方に次々と流れていく建物の間から、街灯と月の光を浴びた川の水面が仄かに見えた。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ