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ショートショート|病棟患い

 極端に物が少ないのになぜ病室には独特の匂いがあるのだろう、と僕は不自然なまでに白いシーツを見ながら考えていた。
「で、どんな病気なんだ?」と彼は僕に尋ねた。僕は知っている情報を動員してそれに答える。
「首を前に曲げる際に脊髄がひどく圧迫される状態になっていて、それが原因で恒常的に右手の指のいくつかが動かなくなったり、震えたり、握力が弱まったりしてるんだ。運悪く利き手の方だ」
「なるほど」
「そうそう、握力に関してだが、測ってみたら13kgしかなかった。これは8歳の平均と同じくらいだよ。手術しても現状維持だけで回復はしない。困ったもんさ」
「ハンドボールやってんのに災難だな」と彼は言った。「でもちょうどいいスポーツもあるぞ。サッカーって知ってるか?」
(よくこいつは病室で軽口をたたけるな)と思った。しかし不快感はなく、不思議なものだが懐かしい気分だ。
「どんな手術をするんだ?」と彼は続けて尋ねた。僕は答える。
「腰の骨を切り取って首の骨に充てるらしい。一時的にせよ首に穴があくという印象が強すぎて、ざっくりとしか憶えていない」
「ふうん」
「手術は手術だから事故が起きる確率はゼロじゃない。いろいろと加味して、医師が後々悪い報告をしなければならない確率は5%以上10%未満だそうだ」
「今の消費税率と同じくらいだな。8%だから。もし手術の失敗率と消費税率が連動しているのが神の御業なら、増税前に手術ができてよかったな」と彼はまたしてもジョークを飛ばした。だが彼はその後、長い付き合いだが今までに見たことがないような真面目な顔をしてこう告げた。
「まあ結局な、お前のことだから心配ないよ。失敗するはずがない」
 手術が成功するかは僕じゃなくて外科医の技量次第だろ、と思ったが口には出さなかった。彼はお見舞いの品である大量の漫画雑誌を置いて病室を後にした。

 全身麻酔で意識が飛んでいる間にこんな夢を見た。
 目の前に老いた男がいて、脈絡もなく僕に話しかけてくる。
「私はあるものを蒐集する趣味があるんだが、何か分かるかい?」
 そんなの分かるわけがない。
「昔の向精神薬の広告に使われた不気味な絵とかですか?」と僕は答えた。
「当たらずとも遠からずだな」と老人は言った。当てずっぽうで言ったのにこんなことがあるんだ。
「私がコレクションしているのは『病気』だよ」と老人は言った。言っている言葉は分かるが、内容がいまいちピンとこない。老人は続けた。
「病気に罹ったのを事細かに記録しているんだ。最近は陥入爪になってね。その前はマイコプラズマ肺炎だ。この歳になると結構数が増えてくるよ」
「戦時中に兵役を逃れるために醤油を一気飲みして自ら病気を呼び込んだ男がいるという話もありますが、そういうこともなさるんですか?」と僕は尋ねた。すると老人は「まだまだ君は若いな」という顔をしてこう言った。
「確かにそうすればすぐに病気が手に入る。だが、寿命を大幅に縮めることになるだろう。そうなれば今後手に入るはずだった病気に罹る前に死んでしまうかもしれない。トータルで見ればマイナスだよ」
 どことなく悔しいが確かに一理あるなと思った。老人はなおも続けた。
「この趣味の素晴らしいところはね、病気に罹ればコレクションが増えてラッキー、病気に罹らなければ健康でラッキーというように常に良い精神状態を保つことができるところだ。どちらに転んでも、というやつだな」
 そういうもんかなと僕は思った。でも、大病を患った際に果たして同じ心持ちでいられるのだろうか? 軽蔑こそしないが少なくとも僕は同じ趣味を持とうとは思わない。すると老人は慌てた様子でこう言った。
「しまった、これはイカン。悪いが君と話すのもこれぐらいにさせてもらうよ。会話をすることは医学的に見ても健康に良いとされているからな。それじゃあな」
 老人はどこかへ立ち去った。どこかへ? そういえばここはどこだ?
 ここで夢は終わった。

 目が覚めた時、当然のことながら僕は病室のベッドの上にいた。思ったより目覚めが良い。左手の甲には点滴の針が刺さっている。手術で首に穴をあけた部分からもチューブが伸びており、包帯とラップフィルムが巻かれている。また、尿道にはカテーテルが通っている。事前に説明された通りだ。僕は右手、左手、右足、左足と順番にモゾモゾと動かした。ちゃんと動いている。今のところ不随にはなっていないようだ。
 いくらか時間が経ったころ看護師さんがやってきて「ああ、目が覚めましたね」と僕に言った。僕は「あの、今年って2019年でしたっけ?」と尋ねた。どうしてそんなことを訊くのだろうと思ったかもしれないけれど、看護師さんは「そうですよ」と答えた。
「増税っていつからでしたっけ?」と僕は続けて尋ねた。確か、10月1日からのはず。看護師さんは「えーっと、10月1日からですね」と答えた。僕は手術前と今がちゃんと陸続きの世界であるかどうか確かめたかったのだ。胸を撫で下ろした。

 ところで、僕はその時まで思いも寄らなかったのだが、手術自体は闘病のまだ序章にすぎなかったのだ。
 術後せん妄かむずむず脚症候群か分からないけれど、先述のように体から各種の管が伸びておりベッドで身動きができない間、脚を大量のミミズのような生物が這っている感覚があってとても苦しめられた。外を歩いているとミミズではないけれど何か虫が飛んできて地肌にひっつくことがあるが、そんな時は嫌悪感から反射的にその虫を手で払うだろう。しかしそれができず、しかもその虫が大量にいるところを想像してほしい。僕は〈身体を動かしたくても動かせない〉ということに対して心の底から恐怖を抱くようになってしまった。拷問を受けているかのような心持ちだった。時間が早く過ぎるようにどうしても眠りたかった。しかし、ずっとベッドの上にいる人間がそう眠れるはずもなく、ようやく6時間くらい眠れたと思ったけれど時計を見たら30分しか経っていなかった。その瞬間の絶望は筆舌に尽くし難い。
 何日か後、おそらく筋力を確かめるためだと思うが、肘から掌の末端まで1本ずつ指2本分くらいの間隔を開けて針を刺し、電気を流すというこれまた拷問に似た診察を受けなければならなかった。それも、その針というのが一般の注射の比ではないほど大きく、最初は半田ごてかと思ったほどだった。繰り返しになるけれど、それを前腕だけでなく肘や掌でも行うのだ。それをしている間中、強い嘔吐感が伴った。注射恐怖症に陥ったのは言うまでもない。

 僕はこれらのトラウマをパッケージにして『病棟患い』とラベルをつけた。こいつはどうすれば捨てられるのだろう? 手術の直後、僕は安心したいがために看護師さんに今が2019年であるかとこれから増税が始まるその月を尋ね、手術の前と後で世界が陸続きであることを確かめたが、この入院中の記憶だけ離れ小島みたいに、せめて少し遠くに置いておけないものだろうか。

 造語つながりで、もう1つだけ。ごく個人的な価値観の一方通行でもある造語ばかりで申し訳ない。
 たぶん小説家だったと思うのだが、ある人物が本にこう記していた。「私はノンノンフィクションを書いている」と。
 病気にまつわるこの拙筆がノンノンフィクションか、はたまたノンノンノンフィクションかは、こちらから押し付けず読者である皆様の実直な所感に委ねたい。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ