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ショートショート|冬、合宿所、絵画

 自宅のトイレに小さなデジタル時計が備え付けてあって用を足すたびに視界に入るのだが、この時刻が清々しいほどズレている。今が夜であることは疑いようもなく、僕が手首につけている電波で時刻を合わせてくれる腕時計も20時38分を示しているのに、トイレのこの時計は5時15分を伝えている。はっきり言って時計としての役割を全く果たしていない。よくもまあ悪びれもせず、という感じだ。時々、トイレのこのデタラメな時計ぐらい豪放磊落に生きられたらなあ、なんて思う。でも実際にはそれができないから僕は悩み、焦り、苛立つを繰り返す。

 僕がパンツに油性ペンで自分の名前を書いている時だ。なぜこの作業をしているかと言うと、明日からバスケ部の合宿があり、パンツを含めた衣類をチームメイトのものと一緒くたに洗濯機に放り込むことになるため、洗濯後にこのパンツの所有者が僕だと分かるようにしなければならないからだ。さて、油性ペンを走らせているその時、母が「寒いから合宿所でもよく服を着てから寝なさいよ」と言った。
「僕は寒がりだから厚着して寝る習慣が身についている。心配しないで」と僕は返事をした。
「うん、でも充分気をつけて。そういえばあなたが寒がりなのには理由があるのよ」と母が言った。予期しない話題が展開されたので不意をつかれた気持ちだ。母は続けた。
「あなたは冬生まれでしょう。生まれたばかりの頃、寒かろうとベビー服をうんと着せたから成長した今頃になって寒がりになったのよ」
 にわかには信じられん、という感想だ。果たして医学的に裏付けはあるのか。しかしこれは何となく、つまりは直感だが、今聞いた話は記憶として僕の中に残り続けるような予感がした。よそは知らないが、僕の両親は2年に1回くらいのペースで印象に残るようなことを話す。
 ちなみに、1つ前に印象に残ったのは父の言葉だった。我が家で飼っている犬を撫でながらした発言。オスで雑種の中型犬なのだが、特徴的なのは大方の毛色は黒だけれど顎から腹にかけて白い毛が生えているところだ。父は「タキシード柄の犬も良いもんだな」と言った。へえ、こういう柄のことをタキシード柄って言うのか、確かに白いシャツの上に黒いジャケットを着ているように見える、昔の人は上手いこと言ったもんだな、と僕は思った。しかし、後になって調べてみたらタキシード柄という言葉は世間では使われておらず、要するに父の造語だったのだ。まあ、それだけのことではあるが。

 パンツにもシャツにも靴下にも自分の名前を書き終えた。荷造りも完了して、あとは明日からの合宿を期待しながら寝るだけだ。しかし合宿という少しばかりの非日常を前にして、僕は心底に淀んだ感情があることに気づく。強引に辞書にある言葉に当てはめるとしたら「苛立ち」。たぶん昨日今日に出現したものではなく、強く意識していないだけで少し昔からあったのだろう。おそらくこれと言った契機もなく。なぜこの感情が僕の中でふつふつと湧いているのか理解できない。やがて消えるものなのだろうか? 考えても答えは出ない。僕は布団の中に潜り込む。

 小ぢんまりとした合宿所を想像していたのだが到着して見て回ったところ、なかなかどうしてこれが立派で、食堂があり大浴場があり講堂があり、もちろん体育館もある。僕たちだけではなく複数の団体が現在この施設を利用しているみたいだ。
 マラソンの高地トレーニングみたいに練習場所が変わればぐっと練習の効果が変わるというようなことはバスケにはない。この合宿は個々のプレイヤーの能力を向上させること以上に、同じ釜の飯を食べ、同じ風呂に入り、同じ部屋で寝ることでチームワークを高める、大仰に言えば絆を深めることを目的としているのだろう。
 もちろん、バスケしかない環境に身を置いて集中して練習に取り組めるのは合宿のメリットでもある。僕は1つの目標を設定した。今まで僕は3ポイントシュートを打つときに「シュートが入ればラッキー」と思っている節があった。自信がなかったのだ。だから3ポイントラインの外でパスを受けても、ペネトレイトを選択することが多かった。しかしこの合宿中に3ポイントシュートの量をこなして、「シュートが入らなければミス」というレベルまで到達する。

 夜に練習が終わるとチームメイトで揃って晩御飯を食べ、風呂に入る。大浴場から寝る部屋へと戻る道を湯冷めしないように早足でたどっていると、窓には吹雪とだいぶ積もった雪の様子が見え、その印象がいっそう僕に寒さを呼び起こさせた。母の忠告通り厚着をしていてよかったと思っていると、ふと壁に1枚の絵画が飾ってあるのを目にした。チームメイトが「先に部屋に戻ってるぞ」と言って僕を置いて行き、1人になってその絵画と対峙した時に、目覚まし時計のアラームが朝を支配するように僕の心で位置を取ったのは既視感だった。覚えていないが過去に画集か何かでこの絵画をちらっと見たことがあるのか、それともこの絵画の持つ魔力か。
「この絵が気に入ったかい?」と急に後ろから声をかけられて僕は驚いた。振り返って顔を見ても誰だか分からない。というのがその中年の男性にも伝わったのだろう。彼は「私はこの合宿所を管理している者だよ」と言った。僕は会釈をする。
「これは『通りの神秘と憂愁』という絵だ。複製画だけどね。もしかして知っていたかい?」と彼は言った。
「いいえ、そのタイトルは初耳な気がします。マグリットの絵かと思いましたがよく観ると全く別物ですよね」と僕は言った。
「うん、ジョルジョ・デ・キリコ」と彼は言った。
 僕は脳内の抽斗に「ジョルジョ・デ・キリコ」と名前をつけ、その中にこの絵画をそっと収納した。いつかまたこの抽斗を開ける日が楽しみだな。それから『通りの神秘と憂愁』というタイトルをようやく唇を通過するくらいの小声で呟き、目の前の絵画を今一度見つめた。冬、合宿所、絵画、誰かが仕組んだような世界だ。
 そうしたら、風が廊下の窓を打ちつけていた音が消えた。風がやんだのか、僕にだけ聴こえていないのか分からない。唾を飲み込む音だけがやけに大きく体内で響く。そして突然だ、僕は静かに啓示を受けた。全くもって脈絡もなく。僕のこの苛立ちは、理解されない不満と斟酌される不満が並立している矛盾のせいだ、と。

 長いようで短かった合宿が終わった。振り返ると心を温めてくれる思い出もあれば、そうではないものもある。1日目に穿いていたパンツにはちゃんと自分の名前を書いていたのだが、2日目に穿いていたパンツには自分の名前を書き忘れており、洗濯後に「おい、このパンツは誰のだ?」とか言われて恥をかくことになった。それから、あれだけ練習したのに依然として3ポイントシュートはほとんど入らない。一朝一夕に身につくものではないのだ。厳密には合宿は一朝一夕どころか1週間もあったけれど。こういったことがまた僕を苛立たせる。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ