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ショートショート|脳で磔にされている

 サークル棟の一室がモニターの光で妖しい明るさを湛えている。光が漏れすぎるため電灯は消しているが、パソコンはまさに働き盛りだ。昔は夜中になると電気が使えなかったらしいが、かつて生物研究会が「水槽内の水に酸素を送り込むためエアポンプを1日中稼働させる必要があり、したがって通年24時間の電力供給を求む。あくまで学術的な理由であることを加味されたし」と大学に訴え、論争の末にこれを勝ち得たそうだ。
「で、そのおこぼれで俺らコンピュータ研究会も夜中に電気が使えてるって話だったよな」と彼は言った。
「そういうこと。パソコンもそうだし、ホームルータも稼働させられるからネットもできる。生物研究会には足を向けて寝られない、は流石に言い過ぎかな。何にせよありがたいことね」と私は言った。
「今度、生物研究会に菓子折りでも持っていこうぜ。いや、動物の餌とかの方が実用的か」と彼は冗談っぽく言った。
「あんたはいつも意見するだけ。何か行動に移すとしたら全部私。正直、私はあんたをメンバーには数えてないから」と私は返した。
「俺をメンバーに数えるか否かの他に懸案すべきことがあるだろ」と彼は少し語気を強めた。
 それを聞き流しながら私はネットゲーム『カクウオンライン』のチャットに「ぽこたんインしたお!」と書き込んだ。「ぽこたん」はハンドルネーム(私のものとは違う)、「イン」はログインの略、「したお!」は「したよ!」を崩したもの。これは私のオリジナルではなく、2ちゃんねるのネトゲ実況板に当のぽこたんなる人物が書き込んで広まったものだ。滑稽で面白いからギルド仲間にログインしたことを伝える際には私も常用している。

 脅すつもりはないがこのネトゲ『カクウオンライン』での私の活動は傍若無人、いや暴虐非道の有様で、内側から腐食させる「なりすまし」、暴言を含むチャット荒らし、善良なプレイヤーの顔をして近づく初心者狩り、他にも悪いことは何でもやった。それも悪戯の度を超えて、相手がこの『カクウオンライン』を思い出すのも嫌になるのではないかというくらい。
「なんでそんな結局は無益なことをやるんだよ」とまた彼は言う。正直分からない。鬱憤晴らしなのか? しかし、最近はこう思う。仮面を被ったネトゲ上の人格こそがもしかしたら私の本質なのではないか、と。もしそうだとしたら行動原理を突き止めることは難しい。先述の通り、ギルド仲間というものがいる。ギルドという用語の説明が必要かもしれないが、何も難しいことはなく「グループ」と言い換えられる。ギルド仲間と言えば格好良い響きだがは有り体に言えば遊び仲間だ。私が仮面を被っていることも既に述べたがこのギルドでは私は八面玲瓏で、人当たりの良い人間と思われているに違いない。日に日に自分が分からなくなる。ある日、電車で大学から帰る際に窓に反射している自分を見て「この人は誰だ?」と心の底から思った。

 ラッパの音だ。終末は近い。私が小学校低学年の頃、母が公衆電話で(携帯電話は圏外だった)父と連絡をとっているその真っ最中に、手で電話機のフックを下ろしたことがある。こうすると受話器が下りたことになり通話が途絶えるのだ。母は「何するの!」と言った。当然だ。しかし声には出さなかったが私の心に理由が蠢いているのは気づいていた。母と父が楽しそうに電話をしているのが気に食わなかったから。私は衝動性を内包している。ただ、法で裁かれたりグレーだったり、あるいは主観的に無意味なものにも見境なく手を出す人間ともまた違うのだ。妙な分別と脈絡のない心のはずみ。
 そしてその一面である毒牙は例のギルド仲間にも及んだ。これまた楽しそうに遊んでいるのが気に食わないのだ。初心者になりすましギルドに新加入し、「こんなに程度の低いギルドだとは思いませんでした」とか書きこんでチャットを荒らした。人間の心理として新参者に自分の居場所を否定されると無性に腹が立つものなのだ。さらにメンバーの1人が他のメンバーの悪口を書き込んでいるという嘘を吹聴し、自浄作用をなくしていった。仲間割れを促すのは手軽かつ強力だ。新たに加入しようとした初心者を不躾に門前払いし、評判を悪くさせた。悪事千里を走る。内から外からこのギルドは崩れていき、遂に瓦解。残ったのは私1人だけになった。
 痺れる達成感があった。しかし、痛みを伴う虚無感があることも白状すべきだろう。この2つの感情が同居していることを安易な比喩で表現することは避けておこう。

「お前がギルドで独りぼっちになるのは予想できたことだよ」と彼は言い、こう続けた。
「ちょっと前にこのコンピュータ研究会を乗っ取って元のメンバーを追い出したお前だもんな。黒幕よろしく残ったのはお前だけってところはまるで再放送じゃないか。メンバーが1人だとサークルとして公式に認められない。存続の危機だ。『懸案すべきことがあるだろ』と俺は確かに忠告したぜ」
「その忠告はちゃんと改まって言ってくれないと私も聞き流してしまうわよ。それにメンバーは私1人なんかじゃない。あんたがいる」
「前に俺をメンバーに数えてないと言っていたはずだ。随分都合が良いな。ただお前の心中は充分すぎるくらい察せられるよ。その2つの物言いは1つの事実で無に帰す。内心、分かってんだろ? 「お前自身の解離した人格こそが俺だ」ってことに。俺はお前の脳にしか存在しない。俺からの忠告はお前の内省だ。俺を一個人として扱ったり扱わなかったりのブレは、俺に実体がない以上まあ仕方がないことではある。お前のそのコミュニティを掻き回す悪癖も、俺の存在に起因している部分はあるかもしれない。でも、俺だけのせいにするのは勘弁な」
「ああもう、うるさいうるさい」
「ただこれだけは安心していいぜ。どこでお前が独りぼっちになっても俺だけはそばにいてやるからよ。『俺はお前の脳にしか存在しない』と言ったがこう捉えてもいい、『俺はお前の脳で磔にされている』ってな。何にせよ今後ともご贔屓に。さあ、いつもみたいに次にぶっ壊すコミュニティを探しに行こうぜ。イヒヒ」

 この彼の笑い声も当然、部屋には響かなかった。やかましいのはパソコンのチョークコイルやファンが動作する音だけだ。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ