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ショートショート|我々は言葉足らずとよく言われる

 歴史に〈if〉はありませんが、小説にはあってもいいかもしれません。ここではソフトウェアの発達の何歩先もハードウェアのそれが進んでいる世界を想像するのなんてどうでしょうか。それでは、とざいとーざい——

 所長はずり落ちた眼鏡を指で押し上げ、真っすぐにこちらを見て「ところで、ボディランゲージという言葉を知っているかい?」と私に問うた。一瞬ポカンとしてしまった。何を意図した質問だろう。私は顎に手を当て、脳内の辞書のページを繰った。聞き覚えがある。確か、動作を用いたコミュニケーションのことだ。
「存じております」と私は答えた。

 私はアンドロイドだ。だが、今やそれは特別な意味を持たないだろう。人間とほとんど区別がつかないからだ。私のように同じ職場で同じように働いている。過去の人間が現状を見れば、アンドロイドという代わりがいるはずなのに人間がまだ汗水垂らして働いていることを意外に思うかもしれない。しかし結局、労働は娯楽だったということだ。我々アンドロイドが働き始めた当初は人間から「挙動が機械的だ」とも揶揄されたが、それももう昔の話だ。シンギュラリティは近い……どころか目前。想定されたルートとはまた違ったけれど。

 ある日、私は所長室に呼ばれた。大事な話があるという。このようにわざわざ呼ばれることは滅多にない。ドアの前でネクタイを整え、おもむろにノックをした。
「どうぞ」と声がした。私はドアノブに手をかけて「失礼します」と言った。それから室内に入り、ドアを閉め、机の前の椅子に座っている所長のところまで歩いて行った。木製の机からマホガニーの芳しい香りが漂ってくる。私が前に立つと所長は口元を覆っていた右手を離し、意外だったのだが重々しくはない調子で言った。
「最近どうだい、研究の方は」
 話し振りからして、おそらくこれは本題ではなく会話の糸口のようなものだろう。私はゆっくり頷いてから「まずまずです」と答えた。厳しく言うとやや停滞気味な部分もあるのだ。我々のチームは〈いかにしてアンドロイドが人間の世界に適応するか〉をテーマに研究している。〈そもそも適応すべきか〉というのも含めて。我々も一枚岩ではない。実際のところ、それらはアンドロイドが研究するにはもってこいのテーマだ。
 しかし、このように回りくどい話からするということは、良い知らせか悪い知らせか分からないがこの後に何か重大なことを告げられるのではないか。私は心持ち身構えた。所長は肩の力を少しオーバーに抜いて見せ、こう言った。
「固くなることはない。君のミスが発覚したというような悪い知らせではないんだ」
 お見通しというわけだ。私も努めて肩の力を抜いた。そして、冒頭のように質問された。

 所長は机の上で指を組み、こう言った。
「それなら手短に話そう。アンドロイドである我々は言葉足らずとよく言われる。我々自身、言葉数が少ないのを『良し』としているからだ。厳密にはそうプログラムされているからだが。だから、最近はアップデートして世間話を会話に組み込むようにはしているものの……結果は正直パッとしない」
 面と向かって話す機会が少ないからすっかり忘れていたが、そういえば所長もアンドロイドなのだ。先述の通り、今やそれと人間はほとんど区別がつかない。差異が認められるとしたら、確かに会話の仕方といった微細な点だけだ。しかし「世間話を会話に組み込む」というのも、いかにも前時代的な処置ではないか。所長の表情はそれを充分に分かっているようだった。所長はここからが重要だと言うように一呼吸置き、組んでいた脚を組み替えてから言った。
「やはり、無駄話をしたり言葉に無駄な装飾を施したりするというのも一種の能力なのだ。『一を聞いて十を知る』という言葉があるが、大抵はその逆だ。つまり、こちらが十伝えたと思っていても相手には一しか伝わっていないということが往々にしてあるのだ。分かりきっていることだが、相手にメッセージを届けるのは難しい」
 私は頷いた。同感だ。だけど、それは我々アンドロイドに限らず人間もそうなのかもしれない。もしそうだとしたら不十分な意思疎通による損失はあまりに大きい。
 所長は立ち上がって両手を机についた。バン、という音が部屋に響いた。所長は口を開いた。
「しかし、足りない言葉は動作で補えばいい。そこでボディランゲージだ。我々アンドロイドにこそ、それが必要なのだ」
 確かに一理ある。なるほど、知っているかどうかについて訊かれた理由は分かった。だが、なぜ私がわざわざこの部屋に呼ばれたかはまだ解せない。それぐらいの話ならば作業の合間の空いた時間にでも話してくれればいいことだ。所長は座ってから言った。
「さて、よく聴いてほしいのはここからだ。実はアンドロイドを使ってある実験をしようと考えている。模擬的なボディランゲージになるよう、プログラムをアップデートして、何かしら身体を動かしてから発言するように強制するんだ」
 私は真剣に話を聴いている。所長は休みなく話を続ける。
「当然、それが相手に見えるようにね。可能な限りふさわしい動きを選択するようにするが、すでに文化的に馴染んでいて、しかもその会話に適切なボディランゲージがいつも存在するとは限らないから、あくまで『何かしら身体を動かして』というくらいにしておこう。いいかい、発言する前にというのが肝だ。発言中に何度もするのはクドいからな。その前にちょっとするくらいが丁度良い。学校の授業で発言する際にはまず挙手をするように。君にはその実験台になってほしい。私もなるつもりだ。どうだろうか?」
 平の研究員である私のプログラムはすべて所長に管轄されている。一挙手一投足から思考に至るまで。「右を向け」と指示されたら右を向くというように。もちろんある程度の自律性は与えられており、それ故にこうして話す場が設けられているわけだが。私は私自身が実験台になることの是非について思案した。そして、了承してもいいという結論に達した。問題が発生すれば、すぐに実験から降りて元に戻してもらえばいいのだ。
 私は右手を差し出し、我々は握手を交わした。私は笑顔で言った。
「その役目、引き受けさせてください」
「おお、それはありがたい」
 握手を解いた。私は確認を取るために次のように尋ねた。
「何かしら身体を動かしてから発言するようにアップデートを、所長と私がその実験台に、そして特にアンドロイドにおいて蔓延する伝達不足、そう『伝達不足』、これの解消を目指そうというわけですね。それでその実験はいつからでしょうか?」
 所長は申し訳なさそうに頭を掻いてから答えた。
「すまない、昨日から・・・・だ。君も私も」
「そこが伝達不足でどうするんですか……」と苦言を呈そうとしたところ、自分がすでに・・・手のひらを上に向けて肩をすくめていることに気づいた。たった今聴いたように実験はすでに始まっているらしい。……不安。どうなることやら。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ