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1920年代初頭のクライン:「子どもの発達 Ⅱ早期の分析」(1923)+2章

メラニー・クライン 「子どもの発達 Ⅱ 早期の分析 」(平井正三訳 )。 Klein, M. (1923). The Development of a Child. In The Writings of Melanie Klein, Vol. 1, London: Hogarth Press, 1975, p. 25-53.ミーラ・リカーマン『新釈 メラニー・クライン』第 3 章 「どうやってお船たちはドナウ川に浮かべられるの?」─子どもの心的発達、岩崎学術出版社、2014。Likierman, M. (2001). 3. 'How ships get on to the Danube' -- The Development of a Child. In Melanie Klein: Her Work in Context, pp.24-43, Continuum.
Sherwin-White, S. (2017). 3 Klein’s early pre-school and young child cases: the invention and development of a technique for child analysis. In Melanie Klein Revisited, pp.39-58, Karnac Books.

「どうやってお船たちはドナウ川に浮かべられるの?」とは、五歳前のエーリヒが投げ掛けたさまざまな疑問の一つである。数ある彼の疑問のうちで、リカーマンがこの問いを章題に選んだ理由は、特に説明されていない。これは「どのように作られるの」や「どこから来たの」という「存在一般についての問い」の一つのようである。船がなぜ水に浮かぶのか、といった科学的で技術的な疑問ではないだろう。
メラニー・クラインによる「子どもの発達 Ⅰ性的啓蒙と権威の弱まりが子どもの知的発達に及ぼす影響」の記述は、かなり羅列的だが、何かを網羅しようという勢いは感じられる。エーリヒに発達の遅れがあったと思われることから、クラインの関心は「知的発達」を促進したり阻害したりする要因にあったと見做しても、過言ではないだろう。精神分析は当時既に、過度の抑圧による制止という見方を提示しており、フロイトの「少年ハンス」の症例は、「性的啓蒙」の模範と見なされていた。もう一つの「権威」は、主として「神」の観念を指しているようである。後者は、学ぶことを妨げる「万能感」と結びついており、「現実感覚の発達」は、その弱まりに関連する。ただ、それに取り組むクラインの方法は随分素朴で、彼女は「それはただのお話なのよ」「神様は本当はいないのよ」と答え続ける。それがどう働いたのかは、検証困難である。
この論考が精神分析の実践に基づいていないことは明らかだが、観察の報告としても、現代の基準では精神分析的なものに分類することは無理に感じられる。フロイトやフェレンツィの図式を使用していても、それは説明のためであり、クラインが行なっていることは、「教育学的・心理学的視点」からのものと、区別し難い。
しかし、一つの態度は精神分析的といえるかもしれない。それは「思考の自由」に関わる。「子どもへの誠実さ、すべての質問への率直な答え、それを生じさせている内的自由さは、心的発達に深くそして有益に影響している。これは、思考に影響を与える主要な危険因子である抑圧傾向から、思考を守ってくれる」――ユートピア思想は精神分析と関係がないが、世界大戦を通じて、内的自由が希求されていくだろう。

リカーマンは、クラインの足跡にフェレンツィの影響を見ようと腐心している。「人間関係におけるすべての不平等性に対する嫌悪」は、確かにフェレンツィにある印象がある。クラインは彼にどれほど共鳴し、また感化されたのだろうか。『子供の精神分析』(1932)の序文を確認しておくと――
謝辞はフロイトに対してから始まるが、「その寄与は、あらゆる点で、フロイトが私たちに伝えた知識の体系に基づいている。私はフロイトの知見を適用することによって、幼い子供たちの心に接近し、彼らを分析して治療することができた。それを行なう中で私は更に、早期の発達過程を直接観察することができ、それが現在の私の理論的帰結につながっている。それらの結論は、フロイト成人の分析から得た知識を十全に確証するものを含んでおり、その知識を1つまたは2つの方向に拡張しようとする試みである」――と、自分が発展させたという主張の方に重きがあるように見える。
それからクラインは2人の師を上げる。
「次に私は、二人の先生たち、シャンドール・フェレンツィ博士とカール・アブラハム博士が、私の精神分析の仕事を進める上で果たしてくれた役割について述べたいと思う。フェレンツィは、私を精神分析に通じさせてくれた最初の人だった。彼は私に、その本当の本質と意味のことも理解させてくれた。無意識や象徴使用に対する彼の強い直接的な感覚と、子供の心との驚くべき関わりは、幼い子供の心理を私が理解する上で、私に永続的な影響を与えた。また、彼は私に子供の分析への適性を指摘し、その発展に個人的に大きな関心を寄せ、当時はまだほとんど探究されていなかったこの精神分析療法の分野に専念するように、私を励ましてくれた。さらに彼は、私がこの道に進むのを全力で助けてくれ、私の最初の努力を大いに支持してくれた。私の分析者としての初期の仕事は、彼に負っている」。
次にアブラハムに対して。
「私が大変幸運だったのは、カール・アブラハム博士に、弟子たちが精神分析のために全力を尽くそうとするのを鼓舞する能力を持った第二の先生を見出したことだった。アブラハムの意見では、精神分析の進歩は一人一人の分析者に――その仕事の価値、その性格の質、その科学的な達成度に懸かっていた。私の心にはこうした高い基準が、精神分析に関するこの本の中で私がこの科学に負っている大きな負債の一部を返そうとしたときにあった。アブラハムは、子供の分析の大いなる実践的かつ理論的な可能性を十分に把握していた。1924年にヴュルツブルクで開催された第1回ドイツ精神分析学会で、彼は私の発表した子供の強迫神経症についての報告を要約しつつ、私が決して忘れないつもりの言葉で宣言した。「精神分析の未来は、プレイ分析にある」と。私が幼い子供の心を研究していくと、一見奇妙に思われる事実が私の目の前に現れた。だがアブラハムが表明した私の仕事に対する信頼が私を励まして、前に進ませてくれた。私の理論的な結論は、彼自身の発見の自然な発展であり、私はそれを本書が示すことを願っている」。
最後にクラインは、ロンドンでの経験への感謝を述べる。「ここ数年、私の仕事は、アーネスト・ジョーンズ博士による心からの支援を受けている」。
こう読むと、クラインの自覚としては、フェレンツィの寄与は限定付きに見える。

メラニー・クライン 「子どもの発達 Ⅱ 早期の分析 」は、もはや単に観察の記録や報告ではなく、治療を要する状態を含んでいる(「外で出会う子供たち」への恐怖症)。
クラウディア・フランクによれば、エーリヒの記録ノートは、部分的に残っている。表紙に「ノート3」と書かれたものには、1920年3月から6月までの記録がおさめられている。それを見ると、クラインが3月中旬から5月下旬にかけてブタペストを離れていたことが確認される。論文中には、
「私自身このころ旅行に出たため、この恐怖症を分析できなかった.しかし、以上のことを除くと、この子どもはとてもよくなっていた。つまり、数カ月後に私がまた彼と会う機会がもてた時に、その印象は強められた」
と書かれている。クラインがフリッツにとっての隣人女性であれば、その在不在にはそれほど大きな意味はないかもしれない。しかし、クラインはエーリヒの実母である。また、彼は母親および兄姉とともに、比較的短期間に各地を移動し、父親の不在そして別離を経験している。彼のプレイは、そうした文脈を入れて読まれるべきではないのだろうか。
資料は他に、1921年3月の最後の10日間と4月の最初の一週間がおさめた「ノート7」、その他に3冊、1921年6月始めから8月終わりの時期と1921年10月始めから12月中頃までを含んだものが残っている。姉が代わりに記録を書いた部分もあるという。
フランクは、エーリヒではなくフェリックスを、クラインの最初の患者と見ている。それは治療設定の観点からである。ハンガリー時代からを引きずっているエーリヒの例は、性的啓蒙を主調としている点でも過渡期のものである。

シャーウィン-ホワイトの第3章「クラインの年少の就学前と幼い子供の事例:子供の分析のための技法の発明と発展」は、ベルリン時代のクラインの仕事を概観している。グロスカスの伝記は、エーリヒばかりでなくハンスもメリッタも症例として発表されているという仮説を出していたが、フランクは否定している。また、同業者の子供ばかり見ていたという説に対しても、それは5人だけだったと数えている。1921年から26年のベルリン時代にクラインは、計22人の子供たちに会っている。シャーウィン‐ホワイトは、子供の苦しみがいかに気づかれにくいかをクラインが強調したことを強調している。その詳細は、各論に期待されるところである。

 

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