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へたなてっぽう

下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、
とは言いますが
まさにそれを体感している日々です。

そもそもこの言葉の意味は、
下手でも数多く行ううちに
まぐれで成功することもある。

転じて、
ものごとを根気よくやっていけば、
上手になったりうまくいくこともある、
ということのたとえ。

それが私のスイカゲーム。
(ここが私のアナザースカイ、くらいのドヤ顔で書いてます)

もう半年くらい前、
世間で流行っているからと
iPadにダウンロードしたスイカゲーム。

どんなゲームかというと、
フルーツを「シンカ」させていくもの。
小さな同じ種類のフルーツ同士を
ぶつけていくと、
ひとつ上の大きさのフルーツになって、
またそれ同士をぶつけて
さらに一回り大きいフルーツにして、と
繰り返していって、
最終的に一番大きな「スイカ」にするゲーム。
さくらんぼ→いちご→ブドウ、
みたいに進んでいく。

やり方を覚えるなどの手間がなく
感覚的にできるし、
単純だけど奥が深くもあって
みんながハマるのがわかるなあ、
というのが最初の印象。

それが、驚くことに
自分がハマったわけで。

と言っても、私の場合は
スイカゲーム中心に毎日がすぎていく、
みたいなハマり方じゃなくて…。

ちょっと隙間ができるとスイカゲーム、
やることを切り替える時にスイカゲーム、
何か考える時の勢いづけにスイカゲーム、
考えがまとまらない時にスイカゲーム、
みたいな感じで。

なんというか、
脳みその過剰なヒートアップを止める感覚に近い。
動的な瞑想をしているかのような感じ。
無心になって写経している、的な感じで
スイカゲームをしているのだ。

iPadがそばになければ
そもそもプレイしないので、
1回もやらない日もある。
でも気づけば
10回くらいやっている日もある。

スイカゲーム、恐ろしい。

で、もっと恐ろしいことに
同時に気づくことになる。

私、そんな感じで
かなり適当に、
思考をほぼ使わずに
ある種、惰性のようにプレイしているのに…。

まさかとは思ったが
うまくなっているのだ。

うまくなろうとも思っていないし、
高みは目指していない。
絶対スイカを作るぞ!
と意気込んでもいない。
連続プレイするのは
3回までにしているし、
ぼーっとしながら
1回分が終わっていることもある。

それでも、
うまくなっているのだ。

これがどんな意味を持つのか、
と考えると
非常に恐ろしい。
恐ろしいでしょう?

そう、
下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、
なわけで。

すなわち、
たくさん数をこなすことで
上手になっているし
うまくいくようになっている、
ということなわけで。

やだやだやだ、
私が上手になりたいことも
うまく行かせたいことも、
スイカゲームじゃないんだよぉ〜!
スイカゲームの
前後にやっていることの方が
本命であって、
スイカゲームは余興みたいなもんなんだよぉ〜!

と言ってみても、
スイカゲームの上達曲線には敵わない。

って考えるとさ、
やっぱり私がいま
本命だと思ってやっていることは、
絶対量が足りていないってことなんだな。

下手な鉄砲でも当たるくらい、
数打たないといけないんだな。
本気でやっていると思っているけど、
全然、足りてないってことだな。

まさかのスイカゲームから
哲学的な人生の示唆を得るという。

恐ろしや、スイカゲーム。

でね、
今日もスイカ、
3個作ったった。

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