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元アイス営業マンの独立リーガー、塩田裕一が福井で再起を懸ける

ワイラプインターンの松浦です。

先日からスタートした選手インタビュー企画、名付けて「#ワイラプ博物館」の第9回の記事執筆を担当させていただきます。

この連載では、博物館のように選手一人一人の歴史が分かる場になればと思います。そして読者の皆様は、この博物館でぜひ選手の魅力を発掘してください!

本日は、塩田裕一 選手のインタビューです。

塩田裕一(しおたゆういち) 東京都出身 1997年2月3日生まれ
立川市立第3中学▷日野高校▷獨協大学▷西多摩倶楽部

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■自分って凡人だな

―それではさっそく野球を始めたきかっけはなんだったんでしょうか?

塩田(以下、塩):小学1年生の時に通っていた水泳教室の友人が、みんな野球をやっていて、「一緒にやらない?」と言われたのがきっかけでした。
キャッチボールは幼稚園の頃からよくやっていましたね。


―小学校時代を振りかえってどうでしたか?

塩:小学校では同い年のチームメイトが少なく、基本的にずっと年上の人と野球をやっていたので、寂しくてよく泣いていました(笑)
2年生からずっと試合には出ていましたね。


―初めてすぐにレギュラーを取るとは早いですね!

塩:幼稚園の頃から当たり前に野球をやっていて、捕って投げるという基本は身についていたので、2年生のうちから4年生チームに混ざっていました。当時はピッチャーではなく、ショートを守ることが多かったです。

(写真は本人提供 小学生時代)


―では次に中学時代の話を聞いていこうと思います。

塩:中学では部活に入らず、国立(くにたち)中央シニアという所に入りました。できて5年くらいの新しいチームでした。


―シニアに進んだ理由はなんだったのでしょう。

塩:当時のシニアの監督さんが、国立高校を初めて甲子園に導いた時の監督でした。それに惹かれて、おもしろそうだと思って選びましたね。


―国立中央シニアはどのようなチームでした?

塩:部員が80~90人くらい居ました。
そこでは"お山の大将"みたいなのが集まっていて、みんなホントに上手かったので、その時に「あ、自分って凡人だな」って思いました。

けどコツコツ努力を続けた結果、最後にはなんとかエースになれました。
しかし、喜んでいたタイミングで中学3年のときに東日本大震災が起きてしまい…。ほとんど大会が出来ず、すごく悲しい思いをしたことを覚えています。

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■直感で「ここに行くんだな」

―どこかの高校からの誘いなどはありましたか?

塩:目立った成績を残せていなかったのでありませんでした。日野高校も推薦ではなく、一般受験で合格しました。


―都立である日野高校に選んだ決め手はなんだったのでしょうか?

塩:中学二年の時に、地元の近くでたまたま高校野球を観る機会があって。その試合で日野高校がサヨナラ勝ちをしたんですよね。
その時に、自分でも分からないんですけど、直感的に「ここに行くんだな」って感じたんですよね


―運命的なもの感じたわけですね!

塩:はい、その後の人生でもそんなことは感じたことありませんし、人生で唯一の経験です


―導かれるようにして、日野高校に進んだわけですが入っての印象はどうでしたか?

塩:一般受験で入りはしたものの、中学ではエースだったので自信はありました。
けど実際は、一番下からのスタートでした。2個上に佐々木千隼さん(現ロッテ)がいて、そのすごさに驚きました。

自分たちの代もピッチャーが多くて、自分はチームで一番球が遅くて、120キロくらいしか出ていなかったです。


-練習も厳しかったですか?

塩:上下関係も厳しくて、初めはついて行くのに精一杯でした。
1年生の時にみんな1度はAチーム(一軍のようなもの)に呼ばれるんですけど、自分だけ唯一呼ばれなかったです。


―その時に野球が辛くなったりはしませんでしたか?

塩:いえ、「絶対に一番になってやる」という風にしか考えていませんでした。
そして、自分なりに色々考えて練習した結果、2年の夏にはベンチ入りして準優勝もできました。ほとんど投げてはいませんが…。


―2年生でベンチ入りされていたということは、新チームでの期待も大きかったですよね?

塩:期待はしていただいていたとは思うんですけど、練習中に目にボール当たって骨折というアクシデントがありまして…。秋の新チームでの大会は出場できませんでした。

視力が戻らないかもしれないくらいの大けがだったんですけど、無事に手術も成功してなんとか退院できました。


―塩田投手のいない新チームはどうだったんでしょう?

塩:秋の大会の予選は1回戦で負けてしまいました。
負けた後のミーティングで監督に「塩田がいなかったから」と言われ、そこで「俺がチームを引っ張ろう」と改めて思いました。


―その後はどのような練習をしましたか?

塩:とにかく球速が遅いことが課題だったので、冬はウエイトトレーニングを徹底的にやりました。
当時の外部コーチに体の使い方を教えてもらい、飛躍的に球速も伸びました。

そこからはかなり手応えを感じましたね。春の練習試合でも今まで以上に余裕を持って抑えられるようになりました。

(高校時代)


―そして3年生になったわけですが、最後の夏の大会はどうでしたか?

塩:まさかの2回戦負けでした。
先発は僕ではなく、ピンチになったらマウンドに上がるという感じでした。自分が登板してから9回までほぼノーヒットで抑えていて、4-1で勝っていました。

でもそこで勝ち急いでしまって9回に追いつかれてしまい…。最終的には11回に1点を取られて5-4で負けました。


―土壇場で焦りが出てしまった原因は?

塩:2個上がベスト8。1個上が準優勝。そのため「今年こそは…!」という周囲の期待がものすごく強くて…。
プレッシャーを感じてしまっていて、早くこの試合を終わらせたいという焦りが出てしまったんだと思います。


―敗戦直後はどのような心境でしたか?

塩:他のベンチに入れなかった3年生に申し訳なかったです。
日野高校はチームの軸となる選手数人で最終メンバーの選考に関わるんですけど、自分もそこにいて。同期に見せる顔がありませんでしたね。

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■エースは学校生活でも模範になれ

―その後大学でも野球を続けるわけですが、最初から野球は続けるつもりでしたか?

塩:夏の大会前までは、佐々木千隼さんが進んだ桜美林大学に進もうと考えていました。でも夏大であっさり負けてしまい、しばらくは抜け殻でしたね。何も考えられませんでした。


-桜美林大のセレクションは受けたんですけど、合格しませんでした。夏の大会後に受けたので、正直まったく身は入っておらず「野球をやるのしんどい…」って思いました。


―ではなぜそこから獨協大学に進まれたんですか?

塩:監督の教えで「エースは学校生活でも模範になれ」という言葉がありました。
野球で結果は残せませんでしたけど、エースナンバーを背負っていた者として、少しでもいい大学に入ることはチームにも監督にも恩返しになるという思いがありました。それで受験勉強を始めましたね。


―勉強はどのくらい?

塩:セレクションのための体づくりもあって勉強が始められたのは9月からだったんですけど、そこから1日10時間は勉強をしてましたね


―10時間ですか!
すごいですね。そして見事、獨協大学に合格されたわけですが、野球部に入る決断をしたのはいつですか?

塩:合格前の12月くらいでした。何をやりたいかを考えた時に「やっぱり野球しかない」と思い決断しました。

―大学4年間はどのような感じでした?

塩:入ってすぐ試合に出ていました。当時は2部だったんですけど、1部2部混合の新人戦(1年夏)でフル回転し、準優勝をしました。
その後、秋のリーグ戦でも4勝を挙げられました。


―かなり順調だったわけですが、2年になってからはどうでしたか?

塩:初めはよかったです。負けたら先輩の引退が決まってしまう試合で9回に抑えとして出る機会があったんですけど、そのときのスコアが4-1で。


―高校野球と同じスコアですよね。

塩:はい、結果的には三人で抑えることができ、高校時代のトラウマを払拭することが出来ました。
その時に、相手チームの明星大学を見に来ていたスカウトが僕のことを評価をしてくれて…。そこから本気でプロという世界を考えるようになりました

けど上の世界を意識し出してからは、同世代のすごいやつらを見たときに「自分は全然だめだ」と思い込んでしまって…。

抑えてもダメなところしか見られなくなり、自らをかなり追い込んでしまった結果、どんどん悪くなってしまいました。3年の秋には先発を下ろされましたね。


―プレッシャーにやられてしまったわけですね…

塩:エースナンバーの18番を背負っていたにも関わらず、自分がいるのはマウンドではなくスタンド。
とにかくそれが恥ずかしくて、試合が終わると「すぐにユニフォームを脱ぎたい」と思うようになりました

4年生になってもベンチには入れず、裏方のような仕事をずっとしていました。春が終わって「もうこのチームで投げることはない」とも思っていましたね。

(大学時代)

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■やっぱりNPBを目指したい

―大学卒業後はどのような進路を考えていましたか?

塩:社会人という選択肢も考えていましたが、まったく結果を残せなかったので、就職を考えていました。


―就活はうまくいきましたか?

塩:いわゆる大手企業の数社から内定をもらうことが出来ました。
そしてそのまま就職し、仕事自体は全然苦じゃありませんでした。充実していましたね。
皆さんが絶対に知っている某企業で、アイスの営業をやっていました(笑)


―ではなぜそこから独立リーグの道へ?

塩:生活は充実していたものの、野球への未練が少しずつ芽生えてきたのも事実でした。そんな時に11月に独立リーグの合同トライアウトがあるのを知り、最後のチャンスだと思ってトライアウトを受けることにしました。


―野球があきらめきれなかったということですね。

塩:あきらめきれなかったと言うよりは、野球に未練がある自分が嫌だったので、ここでけじめをつけようと思いました。


―どのような練習をしましたか?

塩:もちろん仕事が優先だったので、仕事が終わってからジムに行き、朝はネットスローをずっとやっていました。


―仕事と野球の練習の両立は大変ではなかったですか?

塩:自分で決めたことなので頑張れましたね。そこの言い訳はしたくありませんでした。

―そして晴れてトライアウトに合格。そこでの心境を教えてください。

塩:めちゃくちゃ悩みました。仕事もすこしずつ覚えていたので。
けど何をしたいかを考えた時に、やっぱりNPBを目指したいという思いが一番にありました

一度、道は途切れましたが、自分でけじめをつけて練習に励み、その結果としてまたNPBに行く道が開かれたわけなので、挑戦すべきだと思いました。


―周りも理解してくれましたか?

塩:はい、親に関しては「あなたが決めたことを頑張りなさい」と。
職場の方々も純粋に応援してくれました。いつも仕事を教えてくれていた先輩も「期待の新人を失うのはショックだけど、上司として全力で夢を応援する」と言ってくれました。


―恵まれた職場だったんですね。では福井に来ての感想はいかがですか?

塩:純粋に良かったと思います。高橋さんや濵田さんも常に親切に教えてくださるので、ものすごくいい環境で野球ができています。


―自分のセールスポイントをお願いします。

塩:応援してくださる方が見に来てよかったなと思ってほしいです。
やっぱりまっすぐに自信があるのでそこは見てほしいです。チームの誰よりも速いストレートを投げたいです。


―では最後に… なぜ野球がそんなに塩田選手を突き動かすんでしょうか?

塩:野球はやっぱり感動を与えられるスポーツなので、だれかを喜ばせたいという思いが会社を辞めても野球を続けたくなる理由なんだと思います。

―塩田選手の激動の野球人生・そして今の想いを聞くことができました!本日はありがとうございました!

(文責: 球団インターン 松浦宙夢)

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