自然神との対話の足跡⑲
邪馬臺国の必要条件
中国の歴史書「三国志」魏志倭人伝『陳寿(233-297)著』に記された邪馬臺国がどこかを一年余り探索してきた私なりの答えを記しておく。
年明け早々(2024/01/03)より確認してきている通り、(1)縄文から弥生後期まで連続した暮らしや社会の存在が確認できることが邪馬臺国の必要条件である。他の必要条件としては、(2)祭祀を司る女性の指導者(卑弥呼=日の巫女)が居たこと、(3)決定的な遺跡や遺品の存在とその年代が一致する(具体的には、景初3(239)年6月、第1回遣使を魏に送り、親魏倭王の称号を受けている等の年・事象との一致がある)ことである。
3世紀前半に、卑弥呼が内乱をしずめて擁立した30余国だけではなく、日本で当時(1)~(3)を満たす候補地は何百もあると推測される。その中の代表的な場所を年初から巡っている(「自然神との対話の足跡⑱」などで個人的に検証途上にあるが、鳴門・板野古墳群もその一つと認識している)ので、旅の順に一か所ずつ更新しておく。
気延山古墳群(阿波国)
条件(1)~(3)を満たす候補地の一つが、気延山の麓の気延山古墳群であり、その上に鎮座している神社が天石門別八倉比売神社(国府町)である。神社の正確な創建年は不明であるが、安永2年(1773年)に書かれた文書に創建から2150年という記載があり、(これが事実であれば)紀元前300年代の創建となり日本最古級の神社である。
神社『御本記』によれば、気延山「東の峰」にあった墳墓が593年に現在地に改葬されたことが記されており、元の墳墓の造築年代はさらに前である。気延山に200基以上の古墳が存在し、気延山の東側の国府町矢野にある矢野遺跡では弥生時代の竪穴式住居跡約100棟が見つかっている。これにより縄文から弥生の連続した暮らしおよび社会の存在が確認できている(1)。
一方で、元々の阿波国一宮であったと言われている上一宮大粟神社(神山町)は、大宜都比売命 がご祭神であるが、大宜都比売命の別名は天石門別八倉比売命あるいは大粟比売命と呼ばれ、天石門別八倉比売神社と並んで、阿波国一宮論社となっている。
大宜都比売命は、古事記の国産みにおいて「一身四面の神である伊予之二名島(四国)」の中の阿波国の別名として現れ、食物の女神とされている(下の写真「生命むすびの碑」に記されている)。
天石門別八倉比売神社は気延山古墳群上に在り、その御神体は杉尾山(気延山に連なる標高120mの山)としているが、天石門別八倉比売神社参道をこの度確認した限りにおいては、より山奥の一宮大粟神社(神山町)、さらに山を登る剣山の峰々がその方向に並んでいる。これは日本最古級の神社である天石門別八倉比売神社が阿波の(山を御神体とし、それぞれの女神を御祭神とする形で)自然神を祀る神社である明確な証拠に見える。
天石門別八倉比売神社の御祭神は大日霊命(おおひるめのみこと=天照大神)であり、上一宮大粟神社のご祭神の大宜都比売命と共に女神である(2)。
最後に気延山古墳群に眠る祖先が生活していた年代が魏志倭人伝の記述と一致するかどうかについて検証しておきたい。気延山古墳群(200基以上)の存在および矢野遺跡の弥生時代の竪穴式住居跡(約100棟)の存在、ならびに律令国家成立後の阿波国府として同地の位置づけ、特にそれぞれの遺跡存在の連続性がほぼ確実であることから、条件(3)を外見上満たしていると考えるが、祭神としての大日霊命や大宜都比売命は現時点では物語であり、決定的な遺品等についてさらなる発掘などによる確認・調査を待たなければならない。
曽根遺跡群(伊都国)
伊都国王墓と古墳の不連続性
福岡県糸島市にある平原遺跡は、弥生時代後期に築かれた墳丘墓の遺跡で、その出土品はすべて国宝に指定されている。この遺跡からは、鏡、勾玉、剣といった三種の神器に類似した出土品が見つかっており、これらは伊都国を治めた女王が眠っていた証拠と見られている(2)。
しかし、これらの出土品は次の理由から大和王権と直接的に関連している証拠ではないと否定されている。
①大和王権は、3世紀から7世紀にかけての日本の統一政権で、その中心地は現在の奈良県桜井市にあった(理由①:通説の立場)。
②大和王権の成立と発展は、前方後円墳の広がりと密接に関連しており、特に4世紀から5世紀にかけては、前方後円墳が全国各地に築造され、その築造技術が地方に広まったことが、大和王権の統治範囲が及んでいたことを示している(理由②:通説が大和王権の必要条件とする論拠:平原遺跡は前方後円墳ではないが、実際に糸島市には前方後円墳が60基以上点在し、平原遺跡が位置する曽根遺跡群にもワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、端山古墳、築山古墳などの前方後円墳がある)。
通説によると大和王権の成立と発展は、前方後円墳の広がりと密接に関連しており、特に4世紀から5世紀にかけて、前方後円墳が全国各地に築造され、その築造技術が地方に広まったことが、大和王権の統治範囲が及んでいた証拠と説かれている。
ところが平原遺跡で現に発掘された出土品は、実際に三種の神器に類似しており、時系列的には平原遺跡造成の後に大和王権が成立していることから、思想的に時間の逆転が示唆される。一方、平原遺跡が伊都国王墓としての築造された最後の王墓となっており、その後4世紀の古墳まで約100年間この地域の遺跡築造年代に断絶がみられる(この事実関係を説明する一つの推論が考古学者原田大六氏の著作「天皇の故郷ー天皇発祥の地は伊都国である~」等に記されている)。
古来と繋がっていた伊都国王墓と古墳の断絶
細石神社の参道のライン上に三雲南小路遺跡(約2000年前の伊都国王墓)があり、天満宮の参道のライン上に平原遺跡(約1800年前の伊都国王墓)があることが現地にて確認された。
平原遺跡の被葬者を祀る神社には当時は一の鳥居と二の鳥居も存在していたことを遺跡発掘した原田大六氏が推定している。伊都国の歴代王墓を祀る祭壇として神社が存在することは当時のコミュニティが存在した証拠である(1)。
一方で曽根遺跡群に隣接しているワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、端山古墳、築山古墳などの前方後円墳には神社や支石墓との関係性が見られず、当時の暮らしや社会との連続性を欠いているように見受けられる(これは先に記した100年間の歴史の断絶のもう一つの証拠になっている)。
平原遺跡の出土品の年代特定について
平原弥生古墳1号墓からは日本最多数の白銅鏡(内行花文八葉鏡)を含む40面の銅鏡片のほか、勾玉、鉄刀等が出土している。これらの副葬品の特徴から西暦150年前後の伊都国にいた倭の女王の墓と比定されている。
出土品の年代特定は、「平原弥生古墳調査報告書編集委員会報告書」に記されている通り、東京国立文化財研究所の馬淵久夫氏が担当しており、鉛同位体比法により青銅器の原料産地よりそれらの製造年が推定されている。
出土品の使用年は必然的に製造年の後になり、さらに後の埋葬者の死亡年(卑弥呼であるならば248または249年とされている)との100年の差は小さくなる(3)。
吉野ヶ里遺跡(筑紫国)
歴史時間を刻む手法としての軸線
2024/01/06に生まれて初めて吉野ヶ里遺跡を訪ねたが、時代をまたがる広大な環濠集落に筋を通す「南北の聖なる軸線」を確認した瞬間、この一年あまり遺跡探索で検証してきていた自説がすべて繋がった(一刻も早くこの覚醒を報告しておこうと記載の途上で公開している)。
吉野ヶ里遺跡の「南北の聖なる軸線」には、北内郭主祭殿、祀堂(祖霊の宿る柱)、北墳丘墓(王墓)が一直線に配置されている。
「南北の聖なる軸線」は古来よりこの場所で住んでいる人間が、祖先と自身と子孫の魂をつなぐ軸線であり、縄文から弥生後期の時間的連続性を刻む遺跡(実物)である(1)。
吉野ヶ里遺跡以外の多くの遺跡でも、文字のない縄文時代から私たちの祖先たちは、石、墓、建造物などで自らの存在・活動を刻んで後世に残してきた証拠が多くあった(最初これに気付いたのは、青森で訪れた小牧野遺跡を巡った時で、年輪のように配置された環状列石により歴史が刻まれていた)。
先に記した平原遺跡においても、一の鳥居と被葬者が日向峠に向かっている軸線があった。
纒向遺跡
纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡である。
遺跡の築造年代が卑弥呼の生年とぴったりと一致する(3)として纒向石塚古墳が邪馬臺国の本命である。
纒向石塚古墳は第8次調査で初めて墳丘中心部が調査され、墳丘内から3世紀初めごろの土器が出土し、墳丘墓の築造が3世紀前半よりも古くはないことを示す結果となっている。
古墳に祀られた被葬者が弥生時代以前から3世紀前半まで連続的にこの地を治めていたかについては、よく吟味すべきと考えている。
現時点の結論
これまで取り上げた候補地(鳴門・板野古墳群、気延山古墳群、曽根遺跡群、吉野ヶ里遺跡、纒向遺跡)に見るように、3世紀前半に、卑弥呼が内乱をしずめて擁立した30余国だけではなく、当時(1)~(3)を満たす候補地(倭国)は日本各地に何百もあったと推測される。
大和王権の成立と発展は、各地に存立していたより広範な候補地(倭国)の影響を受け、政治的・文化的な変動を反映していると考えられる。記紀編纂の結果として残された文献はその証拠になっている。
記紀編纂の過程で抜け落ちた情報は、倭国の遺跡を巡り、縄文から弥生後期まで連続した暮らしや社会の存在を地域ごとに確認しながら、子供たちに受け継ぐ郷土史として残しておきたい。
人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……