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自然神との対話の足跡⑱

先日(2023/12/18)は一日かけて萩原墳墓群、天河別神社古墳群、西山谷2号墳、大代古墳など鳴門・板野古墳群を歩いてきました。実家(生誕地)と目と鼻の先の距離に倭国に繋がりのある有力者の墓(紀元前3~4世紀に造られたお墓)が列なっていることに今更ながら驚いています。結晶片岩の石棺であり焼失はなく、ほとんど朽ちることもありません。土積みではなく石積みを中核にした古墳であることが保存性を高め、山里集落にせり出して折り重なるように造られた古墳が多数く出土しています。おそらくまだ発掘されていない古墳もあると推測されます。
7世紀の大化の改新で国・郡・里の制度が整えられたころ、現在の鳴門市域は阿波国板野郡に属し、阿波国板野郡は讃岐国と接していました。国の境となる阿讃の山が、黒埼の山(金光山)から始まり、木津の山、大代の山、大谷の山、大麻の山と続いています。
先般夏に探索して足跡「自然神との対話の足跡⑨」を残しましたが、奈良の大和に律令国家が宣言される前、この阿讃の山の麓が倭(やまと)の国であったという邪馬臺国阿波説を、再び現地確認しながら検証しているところです。

萩原墳墓群

萩原2号墓は「積石木槨は奈良県のホケノ山古墳で見つかった埋葬施設の造り方と似ており、地域間の関係があると考えられています」と記されています(冒頭画像は頂上石室上部)。標高42~43mの南北軸の尾根上に造られた径約21.2mの円丘部に、長さ5.6mの突出部を伴う積石墳丘墓があります。墳丘を構成する積石は約80㎝になります。埋葬施設は東西主軸となる積石木槨構造で、箱形木棺を納めた中心部の外周を囲む石積みには結晶片岩類を使用しています。副葬品として、破砕された銅鏡片(舶載内行花文鏡で製造は中国後漢時代=1世紀中頃から後半)が確認されています。萩原2号墓の築造時期は、出土土器等から弥生時代終末期と考えられています。また2号墳では、石材から中国産とみられる水銀朱が見つかっています。

萩原古墳群の一つ、萩原2号墓の説明書

萩原1号墓は、徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴い発掘調査されましたが、保存されずその後滅失しました
調査結果によるとこの古墳は弥生時代終末期のものとされており、墳丘の径は約18メートル、北側の突出部を含めての全長は約27メートルの積石墓でした。突出部をもつ弥生末期の円形の積石塚で、埋葬施設は1号墓も結晶片岩の竪穴式石室がありました。
萩原1号墳の出土品は、破砕されてれ副葬されたと考えられている画文帯神獣鏡が見つかっています。この画文帯神獣鏡は3世紀の初め頃に、楽浪・帯方郡をつうじて勢力を誇っていた公孫氏から入手した中国鏡ではないかと推察されています。このほか、突出部の左右に埋められた壺棺からは、朱精製用の石杵が発見されています。発見された朱は国内産であると考えられ、おそらく、那賀郡の若杉山遺跡で採掘された水銀朱を精製したものと考えられます。鳴門市の隣の板野町の黒谷遺跡からは、弥生時代に朱の精製を行っていたとされる住居跡も発見されており、萩原1号墳の被葬者と朱の精製に何らかの関係があると推察されます。
埋葬施設の一部は近隣の宝幢寺の境内に移設されています。ところが宝幢寺が先日(2023年10月)に全焼(住職が焼死)してしまいました。この後、一部移設の萩原1号墓および宝幢寺古墳の管理が心配されます。

天河別神社古墳群

天河別神社古墳群は、徳島県鳴門市大麻町池谷に位置しています。古墳群は、古墳時代後期の前方後円墳2基を含む11基が存在しています。現状は円墳とされていますが、前方後円墳の可能性もあります。

天河別神社古墳群は、阿波忌部氏と関連があると考えられています。具体的に誰が葬られているかは明らかにされていませんが、阿波忌部氏の一族が眠っている可能性があります。この古墳群は、阿波忌部氏の深淵に関わる重要な史跡の一つとされています

天河別神社古墳群の存在は地元でも最近まで知られていませんでした。徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴って発掘調査がされ明らかになったものです。個人的に子どものころ天河別神社のお祭りやピクニックに訪れた思い出の土地ですので、道路がトンネル工事に切り替えられて天河別神社古墳群が保存されたことで命が救われたように感じます。

西山谷2号墳

西山谷2号墳は、四国横断自動車道の建設に伴う発掘調査の後、竪穴式石室部分が徳島県立埋蔵文化財総合センターに移設され公開されています。

西山谷2号墳は、直径約20m、墳丘の高さ約2mの円墳で、3世紀後半頃に築造されたとされています。西山谷2号墳には、水銀朱がまかれたくりぬき式木棺に安置された人物とともに、銅鏡、鉄剣、鉄鏃、鉄槍、ヤリガンナ、土器が副葬されていました。この古墳の石室は、3世紀後半頃に作られた全国でも最も古い石室の一つであり、また畿内型石室の祖形であるかもしれないとされています。

讃岐山脈の瀬に列なる鳴門・板野古墳群

大代古墳

大代古墳は、標高43mの南北方向の尾根上に築かれた全長54m、後円部西径45m、前方部の長さ23mの前方後円墳です。発掘調査によって、後円部の頂上から結晶片岩を使った竪穴式石室が見つかり、内部には香川県さぬき市火山で産出する白色凝灰岩で作られた刳り抜き式の舟形石棺が置かれていました。石棺は、盗掘のため蓋が失われていましたが、棺の内外から鏡片や玉類とともに、鏃・剣・短甲などの鉄製武具、斧・鑿といった製鉄工具などの豊富な副葬品が出土しました。

古墳時代前期末(4世紀末)築造の大代古墳

石室の構造は大阪府岸和田市にある久米田貝吹山古墳の石室とよく似た特質を持っています。大代古墳は、古墳時代前期末(4世紀末)の築造とみられ、鳴門海峡一帯を支配していた有力者の墓であると考えられています。

大代古墳の全体図

大代古墳は徳島県鳴門市大津町大代に位置しています。2000年に四国横断自動車道の建設に伴う事前調査で古墳であることが確認され、発掘調査が行われました。当初、建設工事は古墳を破壊するオープンカット工法の予定でしたが、トンネル工法に変更され、現地は保存されることとなりました。

四国横断自動車道がトンネルで貫ける上部にある大代古墳:通常は立ち入り禁止

ここまでの考察

近畿地方の前方後円墳に阿波の青石(結晶片石:地理的分布等は「自然神との対話の足跡⑯」参照)を使った竪穴式石室をみることができます。このことは阿波・讃岐の山を統治していた首長(および墓の造築、葬儀・祭祀などを司る専門家)が大和の首長連合(大和朝廷)に係っていたことを示すエビデンスであると考えます。鳴門・板野古墳群の造築年の推移と墳形・石室構造の変化、水銀朱利用慣行の浸透など時間的経緯(鳴門・板野古墳群が先立っていること)が、邪馬臺国阿波説を裏付ける重要なエビデンスになると考えます。
鳴門・板野古墳群は地理的に、大洪水の際にも水に浸からない高台にあるというだけでなく、縄文海進の時代に海に突き出した山の瀬に位置していたという事実から、古墳時代よりも古い時代よりその場所に集落が存立していたと推察されます。これを裏付ける証拠として、古墳群と必ず隣接する神社(大麻彦神社、天河別神社宇志比古神社金比羅神社など)が存在しています。これらの神社は、縄文の時代から人々がその近隣で生活し、祭祀が行われていた証拠でもあるからです。鳴門・板野古墳群は、古代からの祭祀場所と隣接して古墳が存在している場所ですが、大和朝廷の都市設計とはそのコンセプトを異にしているものと考えます。

実際、天河別神社の参道のラインは天河別神社古墳群に繋がっていますし、宇志比古神社の参道のラインは西山谷2号墳に繋がっています。これまでの考察に則れば、八幡神社、金比羅神社、宇佐八幡神社などの参道ラインと山の瀬が交わる場所に、知られていない古墳の存在を確認できるだろうと考えます。近い将来、手続き整えば発掘調査してみたいと思っています。

人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……