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酒飲みは月見をしない

「月が綺麗ですね」を私が言うなら「晩ごはんどうする?」だと思う。Twitterで見かけたとある講座のお題へ、そう勝手に答えてみたことがある。

酒を愛しているからだ。夜は自宅で食べるなら缶ビールを、酒場へ行くならグラスをぶつけ合いたい。晩ごはんを共にしたいと思った君ならば、酒との蜜月を過ごすひみつの酒場だって、愛してくれる。酒は幸せの入り口だと信じてやまない酒呑みのエゴが出て、あの酒場へ引っ張っていってしまう。

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月島に東京三大煮込みの名店がある。酒飲みの諸先輩方なら、よくご存知であろう。煮込みとは豚や牛のもつ、もしくは牛すじを煮込んだ、酒場のエキスを凝縮したようなつまみだ。他の具材や味付けにこれといった決まりはなく、店の体をあらわす味がする。グツグツと大鍋で煮込まれ、注文が入ればサッと盛り付けて、客を待たせずにつまみが出せる。

その店は、某グルメ漫画の1巻に登場したことのある名酒場で、開店1時間前に直帰をかました労働者が店を囲むように並び、藍色の暖簾をくぐるのを心待ちにしている。その行列の必死度というと、駅からの道中、同じ店を目指していると察した紳士が小走りになるくらいである。あの可愛い今でも忘れない。

店に入ってピシャンと引き戸を閉めると、飴色の世界が広がる。茶色い食べ物がうまいのと同じく、老舗酒場は壁も机も茶色いのが正義だ。客はコの字に身を寄せあい、ギュウギュウにひしめく。席に着いたら、お姉さんがどんどん酒の注文をとり、名物お母さんが今日のおすすめを教えてくれる。お母さんがまたいい。名物長期休暇で旅行へ行ったあとは、その土地の美味しかったものをスペシャルメニューで出し、煮魚を頼めば目のゼラチン質も食べろという。物腰やわらかで「ありがとうねぇ」が口癖。

瓶ビールが到着したら、いの一番に「ネギぬたと煮込みをハーフでください」とお願いする。ネギぬたは個人的な好みであるが、煮込みはマストなのである。小さなビールグラスに黄金色を注いで、喉を潤しながら、ネギぬた。まもなくして、小皿に盛られた茶色のトロトロがやってくる。牛もつのシロやフワと呼ばれる部位を醤油と味噌ベースでよく煮込んであり、口に含むとふわりと溶ける。トロトロすぎて、トロけたのがもつ煮なのか自分なのかわからず、浮遊感さえを感じるのだ。噛むごとに旨みが波形となって頬のあたりから放出され、脳みそがちょっとバグる。初めて食べたときは、口に含んだ瞬間にノックアウト。ここにきたせいで、東京の酒場文化に魅せられ、私の人生は変わってしまった。

熱弁しているが、苦い想い出がある。ここは昔、好きだった人が教えてくれた店なのだ。大げんかして別れたので、未練があるわけではない。月島へ来ると煮込みの衝撃を思い出したくて、「晩ごはん、どうする?」と聞いてしまう。元カレといった店に連れてくなんてどうなんやという話もあるが、許せ。酒場に罪はない。そして暖簾をくぐり、煮込みの味わいに元カレへの後ろめたさも忘れ、旨みの全能感に浸ってしまう。

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私はすっかり飲兵衛になり、桜を眺めない花見をし、花火を見上げない花火大会に行く大人になった。暮らしの拠点を移して、電車を乗り継いで通ったあの酒場もバスで一本の位置にある。今年だったら、きっと月見を理由に酒を飲みに繰り出していただろう。でも今は状況が変わり、ただ酒場の扉が開くのを待っている。

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幸か不幸か、今年はきちんと月見ができるのだ。マイルームの丸窓には、ユニットバスの明かりが映って満月のよう。あの店で2番目に美味しい肉豆腐と、あの店と同じ銘柄のビールをコンビニで買って、酒場の匂いをなんとか思い出す。ちょっとした意地で1番美味しい煮込みは、再開までのお預け。

こうして静かに飲むと「月が綺麗ですね」も、さらりと言えそうだ。

早くあの店で煮込みが食べられますように。
乾杯


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